【主日礼拝−メッセ−ジ要約】 2004年2月29日
メッセージ 高橋淑郎牧師
弟子たちはよほど急いで舟に乗ったのか、パンを一つしか持っていません。「これ1個で13人分はとても足りない。困ったなあ。どうしようか」と相談していたのでしょう。 その時主イエスは、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と言われました。彼らは「ああ、 やはりイエスさまも1つしかないパンのことを気にしておられる」と思ったようです。それで主は弟子たちに5千人、また4千人の人々に僅かなパンと魚をもって養われたこと、それだけでなく、7籠、12籠一杯にパンくずが余るほどであったことを思い出させました。つまり、パン1つのこ とで議論することが重要ではないのです。必要なら13人が十分に食べられるようにして下さる主がそばにいらっしゃるのです。 「まだ悟らないのか」というお叱りには二つの意味があります。主に信頼しきっていないことに対するお叱りであり、もうひとつは先ほどのファリサイ派の人々の言動と、それに対する主イエスの応答が彼らの心からすっぽりと抜け落ちていることに対するお叱りです。このことを少し詳しく学びましょう。 ファリサイ派の人々とヘロデは、互いに反目し合う関係です。前者は聖なるものを求める宗教的指導者グループですが、その実態は宗教の名において偽善を働 く人々です。 後者は俗世界を代表する指導者で、神を畏れる思いもないのに、権力を維持する為には宗教さえも利用する人です。 主イエスから「まだ悟らないのか」と叱られて、弟子たちは初めて、ファリサイ派の人々やヘロデのパン種とは、彼らの教えに警戒せよと戒められたのだということを悟りました(マタイによる福音書16:12参照)。
詩人谷川俊太郎氏の言葉に、「ひとをにくんだり、さべつしたり、むりに言うことをきかせようとしたり、じぶんのこころに戦争につながるそういう気もちがないかどうか。じぶんの気もちと戦争はかんけいないと考えるかもしれないが、それでは戦争はなくならない」とあります。わたしたちの中にも憎しみや差別という戦争に結びつく気持ちはないでしょうか。主はわたしたちに言われます。「目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。まだ悟らないのか」と。
メッセージ 高橋淑郎牧師
デイヴィッド・E・ダンカンという人が書いた「暦をつくった人々」という本によると、人類は大昔から暦をつくることをとても大事な仕事と考えていました。因みに1年の長さは365日5時間48分45秒だそうです。精密なコンピューターをフルに活用して綿密に計算した結果、分かった時間の長さですが、なぜ人類はこうまでして時間を計算し、暦をつくる必要があると考えたのでしょうか。マタイによる福音書2章に登場する、キリストを拝みに来た東方の博士たちは「天文学の権威者」であったということですが、新共同訳聖書には「星占術の学者」と呼ばれています。彼らはただいたずらに空の星を眺めていたのではなく、星を見ながら、時間の計算をして暦をつくるのが仕事であったと思われます。ある日、西の空に輝く大きな星を見て、これこそ神がこの地上にメシア、キリストを与えて下さった大いなるしるしと確信して旅立ったのです。このように大昔からどこの国でも太陽や月や星を見ては暦をつくることに一生懸命になったのは、農作業を円滑にするためだけでなく、自分達の神に犠牲を捧げる日を正確に見極めたかったからだというのです。1582年にローマ・カトリックの教皇グレゴリウス13世が改暦した1年の長さは365日5時間48分20秒です。現代人が電子計算機で割り出した時間の長さにわずか25秒足りないだけという、驚くべき正確さです。このようにキリスト教会こそ綿密な時間の計算が必要でした。それはイースターの日を正確に割り出すという目的のためにです。イエス・キリストが死から甦られた日をできるだけ正確に割り出して、記念の礼拝、感謝の礼拝をささげたいという願いからでした。
ユダヤ人もまた昔からメシア=キリストの訪れを待ち望んでいました。その時には人間が今まで経験しなかったような「しるし」が現実のものとなると固く信じていました。今から2000年の昔、ユダヤにそれらしい人が現れたという噂が流れました。その人はガリラヤ州ナザレの町で育ったと言われている大工ヨセフの息子でイエスという男です。しかしファリサイ派にとってそれはあり得ないことです。メシアはベツレヘムに生まれるはずなのに、人々の噂をそのまま信じると、この人はナザレの出身です。彼らはイエスをマークするようになりました。イエスによって病人が癒されました。歩けない人が歩き出しました。聞こえない人が聞こえるようになり、話せない人が話せるようになりました。汚れた霊に支配されて苦しんでいる人からその汚れた霊を追い出して解放してあげました。5千人、また4千人をわずかなパンと魚で養ってあげました。彼らはその一部始終を目撃し、また伝え聞きました。それでもファリサイ派の人々は、彼をメシアだとは信じることができないのです。これをもって彼らの求める「しるし」とは受け入れがたいのです。どこか胡散臭い(うさんくさい)においのする偽者の宗教家ではないかという疑念が晴れません。そこで、イエスを試して化けの皮を剥(は)いでやろうというわけで、「天からのしるしを求め、議論をしかけ」ました。ファリサイ派の人々が求める「しるし」とは、個々人に対する善い業としてのしるしではなく、この国全体を異邦人の力から解放してくれるような政治的・軍事的な力を発揮するメシアとしてのしるしを求めていたのです。彼らはそのように聖書を読み込んで、そのようなしるしを一方的に求め、待ち望んでいました。「天からのしるし」とは、「天の時」としてのしるしを意味しています。それは間違いのない解釈です。しかし、ファリサイ派の人々にとって、天の時のしるしとは、異邦人を全て地獄に定める終末的審判としてのしるしであり、ユダヤ人にとっては、政治的・軍事的解放の意味でのしるしであります。
しかしわたしたちの主はそのような独りよがりの聖書理解をして、しかもそれに固執する人々と議論することも、また彼らが求めるようなしるしを示すこともなさいません。神の御心はユダヤ人を救うと共に、異邦人をも救うことにあるのです。自分だけが清い、自分だけが信仰的に正しいと思い込んで他を蔑(さげす)む傲慢な心に真の平和は生まれません。イエスさまが彼らと議論をしなかったのも、ローマの圧制に苦しむあまり、ファリサイ派の人々に代表されるユダヤ人の心にひそむ憎しみと、ユダヤ人だけが世界で一番神に愛された民族であるという選民意識と差別意識を悲しまれたからです。
さて、次の場面はこのやりとりを聞いていた弟子たちのことです。多分何かよほど急いでいたからでしょうか、パンを一つしか持たずに舟に乗り込みました。「これ1個で13人分はとても足りない。困ったなあ。どうしようか」と相談していたのでしょうか。その時主イエスは、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と言われました。彼らは、「ああ、やはりイエスさまも1つしかないパンのことを気にしておられる」と思ったようです。それで主は弟子たちに5千人、また4千人の人々にわずかなパンと魚をもって養われたこと、それだけでなく、7籠、12籠一杯にパンくずが余るほどであったことを思い出させました。つまり、パン1つのことで議論することが重要ではないのです。必要なら13人が十分に食べられるようにして下さる主がそばにいらっしゃるのです。「まだ悟らないのか」というお叱りには二つの意味があります。ひとつはパンの奇蹟を思い出させると共に、主に信頼しきっていないことに対するお叱りであり、もうひとつは一個しか持ってこなかったパンのことばかり気にして、先ほどのファリサイ派の人々の言動と、それに対する主イエスの応答が彼らの心からすっぽりと抜け落ちていることに対するお叱りです。このことを少し詳しく学びましょう。ファリサイ派の人々とヘロデは、互いに反目し合う関係です。前者は聖なるものを求める宗教的指導者グループですが、それに対してヘロデは俗世界を代表する指導者です。しかし、主イエスの目には両者とも同じ穴の狢(むじな)なのです。ファリサイ派の実態は先ほどお話した通りです。ヘロデについてはこと細かく説明するまでもないでしょう。神を畏れる思いもないのに、権力を維持するためには宗教さえも利用する人です。「まだ悟らないのか」と叱られて、弟子たちは初めて、ファリサイ派の人々やヘロデのパン種とは、彼らの教えに警戒せよと戒められたのだということを悟りました(マタイによる福音書16:12参照)。
パンを程よく膨らませ、味わいのあるものにしてくれるパン種(イースト菌)はわたしたちにとってありがたい存在です。しかし、神を恐れない人の指導、宗教の名において誤った選民意識に立つ人々の指導というパン種は非常に有害です。27日付朝日新聞の天声人語の中に、詩人谷川俊太郎氏の言葉が紹介されていました。「ひとをにくんだり、さべつしたり、むりに言うことをきかせようとしたり、じぶんのこころに戦争につながるそういう気もちがないかどうか。じぶんの気もちと戦争はかんけいないと考えるかもしれないが、それでは戦争はなくならない」と。わたしたちの中にも憎しみや差別という戦争に結びつく心はないでしょうか。主はわたしたちに言われます。「目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。まだ悟らないのか」と。
祈りましょう。
天の父なる神様、あなたの御名を崇め、讃美します。
み言葉を感謝します。今朝、わたしたちはファリサイ派の人々、ヘロデの偽善というパン種に気をつけなさいという主イエスの警告をいただきました。確かにわたしたちの中にも人を憎む心、差別する心が働きます。表面は笑顔をつくり、きれいな言葉を使いますが、心の中には苦い言葉や思いが過ぎります。神に従う心とこの世に従う心を使い分ける偽善、聖書に書かれていることを巧みに婉曲して自分本位の解釈でごまかそうとする偽善が働きます。主よ、どうかわたしたちをそのような誘惑からお守りください。時が善くても悪くてもあなたを第一とする生活を実践するものとしてください。
私たちの主イエスの御名によってお願い致します。アーメン。