【主日礼拝−メッセ−ジ要約】 2004年3月14日
メッセージ 高橋淑郎牧師
フィリポ・カイサリアの地方は風光明媚な土地である一方、この世の支配者たちの汚れた手の中に置かれていました。主イエスはそのような悪しき騒音の中で、「あなたは、わたしを何者だというか。」と問われたとき、ペトロもまたこの世の支配者を崇める人々の声にかき消されまいとして決然と、「あなたは、メシアです。」と答えました。これを聖書では信仰告白といいます。
皆さんには毎日曜日この礼拝堂に来て、本当に聴き取らなければならない言葉があります。それは、「あなたはわたしを何者だというのか」という主イエスの問いかけです。この問いかけをあいまいにしたままここを去ることは、あなたにとって決して祝福につながりません。ペトロの、「あなたは、メシアです」と言う答えですが、実際には、「あなたはメシア、生ける神の子です。」ともう少し長いことが分かります(マタイによる福音書16:16)。こんな言葉は人間に対して言えるものではありません。言われた方も畏れのあまり縮み上がってしまいます。イエスこそ唯一のメシア、キリスト、救い主という意味だからです。あの時背後に流れ落ちる滝の音で主イエスの御声が途切れ途切れに聞こえたかもしれません。しかし、ペトロをはじめ弟子たちはそのような音に惑わされず、しっかりと聴き取り、はっきりと告白しました。
今日、あの滝の音にもまさって世のさまざまな知恵や文化や経済活動という誘惑の響きが鳴り響く中で、教会が伝える神のみ言葉のメッセージもかき消されそうになります。しかし、あなたは決してイエス・キリストのみ声を聴き漏らさないのです。その証拠にあなたは今この会堂のベンチに座っておられます。だから今勇気を出して、あなた自身の口から、「イエスこそわたしの救い主、生ける神の子です。あなたを信じます」と告白なさることを心からお勧めしたいのです。この方だけがあなたの人生に意味を与え、生きる希望を与え、命を与えて下さる唯一の神だからです。
メッセージ 高橋淑郎牧師
今朝はガリラヤ湖北岸の町ベトサイダから更に北にあるフィリポ・カイサリヤの地方へ行く途中で行われた、主イエスと弟子たちの対話を通して学びたいと思います。ベトサイダからいったいどれくらい離れたところにこの町はあるのでしょうか。わたしたちが今手にしている聖書は新共同訳という聖書ですが、この聖書はとても親切で細やかな配慮がなされています。聖書の区切り毎にタイトルをつけて大体の内容を把握しやすいように編集してくれています。また後ろの方には聞きなれない名称や事柄などを五十音順に説明してくれています。更にありがたいことには聖書の時代に用いられていた重さの単位や長さの単位、また貨幣価値などについても一覧表をつけてくれていますから、初めて聖書を読む人には分かりやすく、なじみやすいのではないでしょうか。もうひとつ言うと、地図があります。
わたしたちの国の日本地図でも、昔と今ではずいぶん呼び名が違っている町や村があります。先日新宿に出かけ、都庁に行きました。用事を済ませて久しぶりなので、最上階の展望台に上ってみました。天気は良かったのですが、あいにく霞がかかっていて遠くの景色がよく見えません。でも、フロアーの真ん中に、江戸時代の地図があるのを発見しましたので、それを見ることにしました。今からわずか数百年前に過ぎないのに、東京の地名がところどころこんなにも違っているのかと驚いたり、感心しながら眺めていると、たまたま私の隣に立っておられたかなりの年配の男性が、そんなわたしの表情を見て取ったのか、江戸時代の地名の縁(ゆかり)のようなものを一つ一つ丁寧に説明してくださいました。ありがたいことでした。
では、今から2000年前のパレスチナ一帯の地名は今とどう違っているのでしょうか。ついでですから聖書の地図を見ることにしましょう。後ろにある「6.新約時代のパレスチナ」の地図を開いてください。南の方からヘブロン、ベツレヘム、エルサレム、エリコ、ナザレ、ティベリアス、ベトサイダなどは今もその名の通りですが、トラコン最北の地、フィリポ・カイサリアの地名は、今はもうありません。この町は領主フィリポV世がローマの皇帝の象徴である「カイザル」にあやかり、それに自分の名を続けて、命名したことに由来します。ベトサイダから約35kmはあるかと思います。今日読む聖書の箇所はそのフィリポ・カイサリアに向かう途中の話です。
歩きながらでしょうか、休息をとっているときでしょうか、主イエスは弟子たちに尋ねて、「人々は わたしのことを何者だと言っているか」と言われます。すると弟子たちは答えて、「世間はあなたのことをバプテスマのヨハネとも、エリヤとも、或いは預言者のひとりだとも噂しています」と言いました。ここで、聖書のことをあまりご存じない方のために少し説明しますと、バプテスマのヨハネという人は、人々に神のみ言葉を語り、誰の心にも潜む神への反抗と傲慢から来る不信という罪の現実に気付かせて悔い改めに導き、バプテスマを授けていましたが、つい先ごろ時の支配者ヘロデの手にかかり殉教したばかりの預言者です(マルコ1:2〜11、6:14〜29)。エリヤというのは、紀元前9世紀ごろ北イスラエル王国時代に活躍した実に偉大な預言者です(列王記上17章〜列王記下2章)。「預言者のひとり」というのは特定しがたいのですが、定冠詞がついているところを見ると、当時の人々なら、「ああ、あの預言者のことか」とわかったのではないでしょうか。たとえばモーセのことかもしれません。イザヤやエレミヤといった偉大な預言者かもしれません。いずれにしても、世間のイエスに対する評判は押並べて良いものでした。これで満足するかと思っていると、主は突然目の前の弟子たちに向かって、「それでは、あなたがたはわたしを何者だというのか。」と問いかけるのです。先ほど主イエスとその一行が目指す地をフィリポ・カイサリアの町で、その名は今はないと申し上げましたが、現在はバニアスと呼ばれています。というより元々こう呼ばれていたのです。わたしはまだイスラエルを旅行したことがないので、用意してきた写真を見ながら皆さんとご一緒にこのあたりの地理を眺めてみたいと思います。ひとつは滝のようなものの上のほうに泉が見えます。向こう側のほうにヘルモンという高い山があり、その雪解け水が地下を通ってここに湧き出てきます。もうひとつの写真は、この泉から滝となって滔々と流れ落ち、ヨルダン川の水源のひとつとなっているのです。これほどの豊かな自然の恵みを、時の権力者が見逃すはずがありません。水を制する者は国を制すると言います。ローマの皇帝も、この地の領主もこの豊かな水源に目をつけてその下流全域を支配しようとしました。ヘロデはエドム人の血を引きながら民族的コンプレックスを解消するために、すなわちユダヤ人に受け入れられたいためにユダヤ教に改宗していました。その彼がここにローマの皇帝が崇拝する神々の神殿を建設しました。フィリポ・カイサリアの地方はただ風光明媚な土地であるばかりか、この世の支配者の汚れた手の中に置かれていたのです。
主イエスがそのような町に向かって歩きながら、弟子たちに対して、「あなたがたはわたしを何者だというのか。」と問い、ペトロがすばやく、「あなたは、メシアです。」と答えたことには深い意味があります。大阪の箕面市には幅といい、落差といい、見事な滝があります。関東地方にも華厳の滝や白糸の滝やそういう有名な滝が沢山あります。このような滝のそばで会話しようと思えば、どうしても大きな声が必要です。主イエスとペトロのやり取りはこの滝の音にかき消されまいと、知らない人なら喧嘩をしているのではと思うほど、身を乗り出して口を大きく開け、あるいは耳をそばだてながらの対話ではなかったかと思うのです。それ以上に、ここは地上の権力者がその支配力を誇示するところです。主イエスはまさに地上の権力者の大言壮語を黙らせるみ声で、「あなたは、わたしを何者だというか。」と問われ、ペトロもまたこの世の支配者を崇める人々の声にかき消されまいと大きな声で、しかも決然と、「あなたは、メシアです。」と答えたのであります。これを聖書では信仰告白といいます。皆さんは、毎日曜日この礼拝堂に来て、誰から何を聞いておられるのでしょうか。礼拝の中心をなすものは何でしょうか。そう、メッセージです。言葉です。聖歌隊や牧師のメッセージを聴くために、あなたがたはここにおられるのです。しかし、もっと厳密に言うなら人間の言葉ではありません。聖歌隊が歌うメロディーにうっとりするのも良いでしょう。それは聖歌隊にとって、もっと練習に励もうという謙虚さと熱心さを助長することになります。牧師の語るメッセージに一生懸命耳を傾ける皆さんの姿勢は、語る牧師の準備と祈りを更に密度の濃いものにすることでしょう。
ところで今皆さんがそこに座っておられる本当の目的は聖歌隊や牧師を育てることにあるのではありません。もちろん育てて頂けるわたしたちは幸せです。けれども何度も申し上げますが、それが毎日曜日開かれている礼拝の、究極の目的であってはならないのです。皆さんがそのベンチにあって本当に聴き取らなければならない言葉があります。それは、「あなたはわたしを何者だというのか」という主イエスの問いかけです。この主イエス・キリストの問いかけをこそ。あなたが本当に聞き耳を立てて聴かなければならないのです。聖歌隊の合唱を聞いている分には、「上手だ。下手だ」と批評しておればよいでしょう。牧師の語るメッセージを一人の人間のお説教として聞く分には、「今日は良かった。今日はあまりぴんと来なかった」と批評しておればよいでしょう。しかし聖歌隊にしろ、牧師にしろ、この所から取り次ぐメッセージは、究極的には神の言葉なのです。あなたはそのベンチに座って、主イエス・キリストからの問いかけを受けておられるはずなのです。問いかけられていることには答える責任があるはずです。主イエス・キリストは毎週毎週、あなたに問いかけておられます。「あなたはわたしを何者だというのか」と。言葉を変えて言うなら、「あなたにとって、わたしはどういう存在であるのか」と問われているのです。この問いかけに答えないまま、あいまいなままでここを去ることは、あなたにとって決して祝福に繋がらないのです。今あなたもペトロのように、「あなたは、メシアです」と答えるべきです。実はマタイによる福音書16:16によると、ペトロの告白の言葉はもっと長いことが分かります。この際ですから引用しますと、「あなたはメシア、生ける神の子です。」と言いました。こんな言葉は人間に対して言えるものではありません。言われた方も畏れのあまり縮み上がってしまいます。あなたもイエスに対してこのように告白すべきです。なぜなら、イエスこそあなたにとって唯一のメシア、キリスト、王だからです。このお方だけがあなたの人生に意味を与え、生きる希望を与え、命を与えて下さる唯一の主だからです。
あの時背後に流れ落ちる滝の音で主イエスの御声が途切れ途切れに聞こえたかもしれません。しかし、ペトロをはじめ弟子たちはそのような音に惑わされず、しっかりと聴き取り、はっきりと告白しました。
今日、あの滝の音にもまさって世のさまざまな知恵や文化や経済活動という誘惑の響きが鳴り渡る中で、教会が伝える神のみ言葉のメッセージもかき消されそうになります。しかし、あなたは決してイエス・キリストのみ声を聴き漏らさないことでしょう。その証拠にあなたはそのような誘惑の渦巻く中から、轟音鳴り響く誘惑の音に負けることなく、今この会堂のベンチに座っておられるのです。だからこそ今勇気を出して、あなた自身の口から、「イエス・キリストはわたしにとって唯一の救い主、生ける神の子です。あなたを信じます」という告白をなさることを心からお勧めしたいのです。 祈りましょう。
天の父なる神様、あなたの御名を崇め、讃美します。
今日のみ言葉を感謝します。フィリポ・カイサリアに向かう途上、主イエスが問いかけられたみ言葉に弟子たちは即座に、そして明確に答えました。こんなにも短く、そして適切な信仰の告白がほかにあるでしょうか。あなたは今もこのベンチにある一人一人に問いかけておられます。どうか、ここにあるすべての愛する人たちに、ペトロと同じ短く、そして適切な信仰の告白へと導いてあげてください。
私たちの主イエスの御名によってお願い致します。アーメン。