【主日礼拝メッセ−ジ要約】                          2004年3月21日

 引き下がれ

マルコによる福音書8章31-38節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 イエスはペトロの告白を受けて口外を戒めた上で、まもなくご自分を待ち受けている厳しい道について、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている。」とお話になりました。聖書が預言しているメシアのこれが真実の姿であると言われるのです。それはペトロのイメージしているメシア像とあまりにもかけ離れているからです。それで、ここは年長者としての責任感からでしょうか、弟子たちを代表してイエスをわきへお連れして、諫め始めました。

 しかしイエスはそのペトロに対して、「サタン、引き下がれ!」と厳しくお叱りになりました。「サタン」とは悪魔の別名で、「敵対する者」と言う意味があります。これはわたしたち人間が決して口にできない言葉です。つい先ほど立派な信仰告白をしたペトロに対して、今は悪魔呼ばわりなさるのです。もちろん主はペトロ本人をそのように名指したわけではありません。むしろ、「神のことを思わず、人間のことを思う」ように、ペトロの心を唆して神に敵対させようとするサタンに向かって言われたのです。またイエスは、「引き下がれ!」と言われます。前に立ちはだかって諫めようとするペトロに対して、「わたしの邪魔をするな、後ろに回れ」と言うのです。後ずさりするだけで満足しません。「わたしの後ろに回れ」とお命じになります。わたしたちは、イエスの前に立ちはだかって、「あなたがわたしのメシア、キリストなら、ああするべきだ。こうあるべきだ」と注文をつけるのではなく、イエスの後ろに回って、イエスに従う者でなければならないのです。イエスに従う道は決して平坦ではありません。

 キリストの弟子とは、主の前に立ちはだかるように、自分勝手にキリストに対して、教会に対してイメージを作ってしまうのではなく、いつでもどこでも、そしてどんな場合でもイエス・キリストの後ろから付き従って行く人なのです。イエス・キリストの後からついて行く者は、自分を捨てることが求められます。自分を捨てるという意味は、自分の全人格を放棄するという意味ではありません。自分の経験や知識、人生観にこだわるのでなく、いつでも、どこでも、どんな場合でも神に従うことを第一にする人のことです。

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【主日礼拝メッセ−ジ】                         2004年3月21日

 引き下がれ

マルコによる福音書8章31-38節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 この世の宗教はご神体とかご本尊というように礼拝の対象を必要とします。あるいは教祖の生まれた土地や世を去ったところを聖地として崇めることもします。フィリポ・カイサリアの地にはローマ皇帝の像をご神体と崇める神殿が建てられていました。そのようなところで、主の弟子ペトロはイエスに対して、「あなたは、メシアです。」と告白しました。口語訳の言葉を借りて言うと、「あなたこそ、生ける神の子キリストです。」と告白しました(マタイによる福音書16:16)。「メシア」とはヘブル語、「キリスト」とはギリシャ語ですが、日本語では「王」、「支配者」という意味です。この世を支配者する二人の名がつけられた町、しかもそこにはローマの皇帝を祭る神社があり、多くの人が、恐らく半ば強制的に参拝させられていたと思われるその所で、ペトロは、「(他の誰でもない)あなたこそ」と力を込めて告白しました。大変勇気のいることです。イエスはその告白を多とし、ペトロの上にご自身の教会を建てると言われました(マタイ16:17〜19)。但し、これはローマ・カトリックが主張しているように、ペトロという一人の人間を特別扱いした約束の言葉でも、況やペトロを初代の法王として任命したことを意味するものでもありません。

 イエスはペトロの告白を受けて口外を戒めた上で、まもなくご自分を待ち受けている厳しい道について、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている。」とお話になりました。聖書が預言しているメシアのこれが真実の姿であると言われるのです。長老、祭司長、律法学者といえば、当時宗教的、政治的、社会的にイスラエルを代表する指導者です。神に選ばれた民、イスラエルがそれに相応しくあるために何が必要であるかを教える人たちです。そのような人たちから捨てられ、ついには殺されると聞いてペトロは驚きました。こんなことがあってはなりません。それはペトロのイメージしているメシア像とあまりにもかけ離れているからです。それで、ここは年長者としての責任感からでしょうか、弟子たちを代表してイエスをわきへお連れして、諫め始めました。「諫める」と訳されている言葉ですが、内容的には「勧告する」、「非難する」、「叱る」と言うような意味です。マタイによる福音書16:22を引用すると、その時ペトロはイエスの前に立ちはだかり、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と諫めました。最近は若い人がわきへお連れするどころか、人前も憚らず平気で年長者に向かい、叱りつけるような言い方をする人が多くなりました。ペトロがイエスをわきへお連れしたのは、せめてもの敬意の現れです。

 しかしイエスはそのペトロに対して、「サタン、引き下がれ!」と厳しくお叱りになりました。「サタン」とは悪魔の別名で、「敵対する者」と言う意味があります。これはわたしたち人間が決して口にできない言葉です。つい先ほど立派な信仰告白をしたペトロに対して、今は悪魔呼ばわりなさるのです。もちろん主はペトロ本人をそのように名指したわけではありません。むしろ、「神のことを思わず、人間のことを思う」ように、ペトロの心を唆して神に敵対させようとするサタンに向かって言われたのです。ある人が、「サタンは眠れる信者にではなく、熱心な神の人にこそ入り込み、その心を支配して誘惑し、やがてその人を用いて教会を餌食にする」と言いました。確かに教会はいつもサタンの巧妙な手口によって揺さぶりをかけられているのです。

 「引き下がれ!」とイエスは言われます。前に立ちはだかって諫めようとするペトロに対して、「わたしの邪魔をするな、後ろに回れ」という命令を意味する言葉です。昔は殿様が、「下がりおろう!」というと、家臣は驚愕して土下座のまま後ずさりしました。イエスは後ずさりするだけで満足しません。「わたしの後ろに回れ」とお命じになります。わたしたちは、イエスの前に立ちはだかって、「あなたがわたしのメシア、キリストなら、ああするべきだ。こうあるべきだ」と注文をつけるのではなく、イエスの後ろに回って、イエスに従う者でなければならないのです。イエスに従う道は決して平坦ではありません。もう一度31節から読み直して見たいと思います。わたしたちの主はイスラエルの指導者達から排斥されて殺されるのですが、三日目に復活されます。そして32節には「しかも、そのことをはっきりとお話になった」とあります。ここに言う「はっきりと」とは、「あからさまに」とか、「公然と」と言う意味ですが、これは世界で初めて民主主義を確立させたギリシャ人ならではの発想から生まれた言葉だと言われています。神学生時代、実践神学を教えていた先生から、「牧師はひとたび講壇に立ったなら、御霊による『発言の自由』を頂いているのであるから、人の顔色を見たり、その場の雰囲気に合わせたりするような話し方をしてはならない。人の顔色を見たり、その場の雰囲気に飲まれたりするような話し方は、すでにメッセージとは言えない」と言われたことがあります。ここで言われている「はっきり」とはそのような重さを持つ言葉なのです。

 更に34節を見ましょう。そこにはいつの間にか群衆の存在があります。マタイによる福音書では弟子たちにのみ語っておられるはずなのに、ここでは群衆にも教えておられるのです。これはマルコによる福音書特有の編集の結果と読むことができます。他のところで語られた教えをここでひとまとめにしているのかもしれません。著者マルコがこのような編集をしたのには、たぶんマルコの牧会する教会のメンバーに対して、「イエスの教えは12弟子のみならず、すべてのキリスト者に与えられたものだ」と言いたかったのではないでしょうか。イエスの歩まれる道はまた全てのキリスト者の歩む道でもあるというのです。主イエスがお立てになる教会は趣味の会ではありません。同好会でもクラブでもありません。いやになったらさっさとやめてしまうことができるような集まりであってはならないのです。「わたしはイエスさまを信じるが、教会に行きたくない」というような人は、主が喜ばれるキリストの弟子ではないのです。キリストの弟子とは、主の前に立ちはだかるように、自分勝手にキリストに対して、教会に対してイメージを作ってしまうのではなく、いつでもどこでも、そしてどんな場合でもイエス・キリストの後ろから付き従って行く人なのです。イエス・キリストの後からついて行く者は、自分を捨てることが求められます。自分を捨てるという意味は、自分の全人格を放棄するという意味ではありません。自分の経験や知識、人生観にこだわるのでなく、いつでも、どこでも、どんな場合でも神に従うことを第一にする人のことです。また、イエスは他人の十字架を負えとは言われません。自分に与えられる十字架を負えといわれます。確かにそれは軽いものではないでしょう。大抵の場合抛り出してしまいたくなることの方が多いもの、それが十字架という試練の道です。社会の状況次第ではその為に命を捨てることさえ覚悟しなければなりません。親の為に、隣近所の為に負わされていると思っている重い十字架ですが、ふと前を見ると、この世のために、わたしたちの罪のためにゴルゴダの丘へとおぼつかない足取りで、もっと重い十字架を背負ってくださっているイエス・キリストの背中が見えてくるのです。そうすると、自分が背負っている十字架はほかの誰のためでもなく、本当は自分の罪のためであったことを、わたしたちは自覚させられるのです。その時初めて自分に与えられた十字架を負いつつイエス・キリストに従うことによって本当の命を得ることができると、約束しておられる主イエス・キリストのみ言葉がわたしたちの心に甦ってくることでしょう。主こそご自分のためにではなく、わたしたち全ての罪びとの為に、わたしたち全ての罪びとに代わって十字架を負い、十字架にかけられて死にました。そして主は三日目に死の淵から甦られました。死に打ち勝たれたイエスだからこそ、このようなとても重い意味を持つ約束をしてくださるのです。

 35節以下に、「自分の命」という言葉が繰り返されています。いったい、「生」と「死」の間にはどれくらいの距離があるのでしょうか。幼い頃は人が死ぬという現実を考えもしません。少年期から青年期に入ると少しは考え始めますが、まだその距離は遠く、おぼろげです。しかし、だんだん年齢を重ねるにつれて、死が現実のものとして目の前に迫っているのを感じます。しかし、よく考えて見ましょう。人は全てこの世に生を受けた瞬間から、死の世界に向かってカウントダウンを始めているのです。病気で死ぬか、事故で死ぬかの違いがあるだけです。即ち命は自分のものであって、実は自分のものではないことが分かります。「命」という聖書の言葉は、「息」という意味を持っています。また、「神の息」とも、「神の霊」とも言います。聖書はわたしたちが生きているのは、神の息、神の霊を注がれたことによると証言しています。聖書を小ばかにして自分の為にひたすら生きている人は神を見失い、神の愛も、恵みも分かりません。自分の為に生きている人は、ひたすら命を浪費しているのです。生かされているという自覚がありませんから、他者に対しても冷淡になってしまいます。聖書はこれを罪と言います。しかし、イエスがそのような罪びとのために死んで下さったことを信じることができたとき、わたしたちは命の意味とその尊さをはっきりと知ることができるのです。わたしたちは神さまの恵みの中で生かされています。ですから、わたしたちはこの地上に生を受けている以上、自分の為ではなく、自分のために死んで甦って下さった方のために生きるようにと造られていることを忘れてはなりません。今から後、わたしたちはイエス・キリストの前に立ちはだかることをやめ、引き下がって主イエス・キリストの背中を見つめつつ、この方にのみ従う者となりましょう。   祈りましょう。

 

天の父なる神様、あなたの御名を崇め、讃美します。

 今日のみ言葉を感謝します。わたしたちは神の作品なのに、いつの間にか、この世にあって目にする全てを自分の手の中に入れることに懸命になり、自分のお金、自分の家、自分の車と何でも自分のものにしないで気がすみません。全てはあなたから賜ったものであることを忘れたとき、自分の意に反する教えをするイエス・キリストの前に立ちはだかって、主をさえ教えようという傲慢な人間に成り下がってしまいました。主よ、これまでの罪をお赦しください。あなたの前に立ちはだかるのでなく、わたしの罪のために十字架を負い、罪深いわたしのような者の命を買い戻すために、ご自分の命を代価として十字架に死んで甦られたイエス・キリストの背中をしっかりと見ながら、後に従う者としてください。

私たちの主イエスの御名によってお願い致します。アーメン。


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