【主日礼拝−メッセ−ジ要約】 2004年3月28日
メッセージ 高橋淑郎牧師
主イエスが行かれる所には救いを必要とする人で満ちています。45節以下において、主の弟子たちがガリラヤ湖の真ん中で逆風に阻まれて苦悩している姿を学びました。プロの漁師達でさえ、かつては漁場として何度も往復したあの慣れ親しんだはずの湖ですが、時間によっては立ち往生してしまうことがあるのです。主はそのような彼らを見てすぐに近づき、その恐れを取り除きましたが、それはここ53節以下に登場する人々の状況をわたしたち読者に伝える前置きのようなものではなかったでしょうか。ゲネサレトの町に住む多くの人々もまた人生の逆風に阻まれてこぎ悩んでいる人々なのです。逆巻(さかま)く風の中、ガリラヤの湖上を踏み越えて弟子たちに近づいて下さった主は、今ゲネサレトの町でさまざまに苦しむ人々のもとへ、ご自分の方から出向いて下さいます。ちょっと読んだだけだと、イエスが一見魔術師のように描写されていますが、そうではなく、主は、主にすがる者を決して空しく追い返す方ではないということを著者は言いたいのです。
皆さんの中にも悲しみや苦しみ、或いは人に言えない悩みが少なからずあることでしょう。いつもの生活をいつものように送っていたのに、突然その生活のリズムが狂い始めることがあります。まさにわたしたちの人生にそのような逆風が吹き込むのです。わたしたちは今までの経験で乗り切ろうとあらゆる努力をします。けれども舟が同じところをぐるぐる回るだけで一向に前進しなかったように、わたしたちの生活も空しくどうどう巡りを繰り返すのです。このままだとわたしたちの人生は破船してしまいます。転覆してしまいます。しかし心を静めて下さい。主はその嵐を踏み越えてあなたのすぐ傍に近づき、そのまま通り過ぎようとしておられます。意地悪でそうされるのではありません。あなたの祈り、この方以外に救いはないという真実な叫びを待っておられるのです。主に救いを求めるなら、主は喜んで必要な助け手となって下さいます。今こそ、その全てを洗いざらい祈り求めようではありませんか。主イエスはきっと、あなたの霊と心とからだを支えて、解決の道を開いて下さいます。主にある新しい命と希望、神と共にある平安な人生が与えられるのです。
メッセージ 高橋淑郎牧師
2月中頃のことです。教会のHPを開き、いろいろなコーナーを眺めて楽しんでいました。最後に、「福音メッセージ」のメッセージ主題一覧表を見て驚きました。マルコによる福音書6章45〜56節を読み落としていたのです。もしかしたら皆さんは既に気付いておられたかもしれませんが、わたしはその時まで全く気付かずにいたのです。それで今朝はそのことを皆さんにお詫びすると共に、8章まで読み終えた所でまだ読んでいなかった箇所をご一緒に読むことにしたいと思います。
イエスは5千人を越える人々に5つのパンと2匹の魚をもって養われた後、弟子たちを強いて船に乗せ、向こう岸に向けて先に行かせました。「強いて」という言葉に引っかかりを感じます。どうして弟子たちを無理やり船に乗せたのでしょうか。一つには伝道旅行で疲れている弟子たちに対する主のご配慮です(31節)。もうひとつは山へ退き、静かに天の父との交わり、祈りのときを持つためであります(46節)。福音書にはイエスが独りになって祈っておられる姿をよく見かけます。主の大いなる御業は静かな祈りの中から生まれてくるのです。「忙しいから祈る」と言った人がいます。わたしたちも主の弟子として、祈りの大切さを学ぶ者でありたいものです。
その間どれくらいの時間が流れたのでしょうか。夕方弟子たちを乗せた船は湖の真ん中にありました(47節)。夕方と言うのですから午後4時か5時過ぎくらいでしょうか。真夏なら午後7時でも夕方と言ってよいかも知れませんが、祈り終えて沖合を眺めたのが夜明け頃です。午前4時か5時でしょうか。実に10時間前後、弟子たちは逆風に悩まされて向こう岸にたどり着けないでいたのです。イエスはその弟子たちを見て、すぐに嵐を踏み越えて近づき、船に乗り込むと、たちまち風は凪になり、すぐに向こう岸に到着しました。弟子たちは心の中で非常に驚きました。マタイは驚いただけでなく、「本当に、あなたは神の子です」と言って拝んだと記しています(14:33)。マルコもまた、イエスが真に神の子であることを、それに続く一つのエピソードを紹介し、証言しています。
弟子たちが向こう岸について、「船をつないだ」(53節)という説明が書かれています。ガリラヤ湖周辺に生きる彼らにとってはごく日常的なことであり、わたしたちもあまり気にしないで読み過ごしてしまうのですが、よく見るとわざわざ「船をつなぐ」という、福音書中ここにしか見られない説明の仕方に、かえって興味をそそられます。この何気ない書き方の中に、主イエスは何度となく弟子たちを伴い、この船でガリラヤ湖周辺を巡回伝道なさっているのだということが分かります。非常にエネルギッシュなイエスの姿が思い浮かびますが、これはその一こまの出来事です。主は群衆の必要に応えて、次々と癒しの御業を成し遂げました。その町の名前はゲネサレト、またはキンネレトとも言います。キンネレトとは楽器の、「琴」という意味があります。旧約時代からガリラヤの湖はこの町の名に因んでキンネレト湖という名でも親しまれていたそうです。わたしたちが今読んでいる新共同訳聖書巻末に編集されている聖書地図の頁(「6 新約時代のパレスチナ」)には見られないのですが、詳しい聖書地図を見ますと、ガリラヤ湖西岸のティベリアスからカファルナウムへと湖に沿って北上しますと、ほぼ真ん中の湖がふくらんでいるあたりにゲネサレト(キンネレト)という肥沃な土地があります。確か45節ではガリラヤ湖東岸デカポリスの港町から北のベトサイダに向けて船出したはずなのに、着いた所は西岸の町ゲネサレトというのは少しおかしいように思えますが、先週8:27以下を読んだときに申し上げましたが、著者マルコはここでも別々にあった二つの出来事を、共通した教えとしてひとまとめに書いているので、少しも矛盾しません。では、何が共通しているのでしょうか。53〜56節をじっくり読み直してみましょう。
主イエスが行かれる所には救いを必要とする人で満ちています。先ほど主の弟子たちがガリラヤ湖の真ん中で逆風に阻まれて苦悩している姿を学びました。プロの漁師達でさえ、かつては漁場として何度も往復したあの慣れ親しんだはずの湖ですが、時間によっては立ち往生してしまうことがあるのです。主はそのような彼らを見てすぐに近づき、その恐れを取り除きましたが、それはここ53節以下に登場する人々の状況をわたしたち読者に伝える前置きのようなものではなかったでしょうか。ゲネサレトの町に住む多くの人々もまた人生の逆風に阻まれてこぎ悩んでいました。逆巻(さかま)く風の中、ガリラヤの湖上を踏み越えて弟子たちに近づいて下さった主は、今ゲネサレトの町でさまざまに苦しむ人々のもとへ、ご自分の方から出向いて下さいます。ちょっと読んだだけだと、イエスが一見魔術師のように描写されていますが、そうではなく、主は、主にすがる者を決して空しく追い返す方ではないということを著者は言いたいのです。
今朝、このみ言葉を読んでおられる皆さんそれぞれの中にも悲しみや苦しみ、或いは人に言えない悩みが少なからずあることでしょう。いつもの生活をいつものように送っていたのに、突然その生活のリズムが狂い始めるといった経験をすることがあります。まさにわたしたちの人生に逆風が吹き込むのです。わたしたちは今までの経験で乗り切ろうとあらゆる努力を惜しみません。けれども舟が同じところをぐるぐる回るだけで一向に前進しなかったように、わたしたちの生活も空しくどうどう巡りを繰り返すだけということがあります。このままだとわたしたちの人生は破船してしまいます。転覆してしまいます。しかし心を静めて下さい。主はその嵐を踏み越えてあなたのすぐそばに近づき、そのまま通り過ぎようとしておられます。もどかしいことですが、主はわたしたちの現状を見ておられるのに、すぐには救いの手を伸ばしてくださいません。「それはあまりにも意地の悪いことではないですか」と、恨みのひとつも言いたくなります。しかし、その傲慢さこそ砕かれる必要があるのです。「神であるならわたしたちが何も言わなくても救ってくださるのが当然ではないか」というのは筋違いです。主はわたしたちの傍らにあってじっと耳を傾けておられるのです。これまで神を求めず、自己中心に生きてきた罪を悔い改めるあなたの祈りを、この方以外に救いはないという真実な叫びを待っておられるのです。謙って主に救いを求めるなら、主は喜んで助け手となって下さいます。今こそ全てを洗いざらい祈り求めようではありませんか。主はきっと、あなたの霊と心とからだを支えて、解決の道を開いて下さいます。主にある新しい命と希望、神と共にある平安な人生が与えられるのです。
ここに一人の讃美歌作者を紹介しましょう。その名はジェレマイアー・E.ランキンと言う人です。1882年に教団讃美歌405番の「神共にいまして」を作った人です。更に6年後、当時多くの人々が空しく、そして暗い日々を過ごしていることに心痛めて、「神に祈り求めてこそ平安があり、慰めがある」と呼びかけるように、聖歌707番を作詞しました。
- 1.心に もだえあらば イェスに話せ イェスに話せ
- 悲しみ 憂いあらば イェスに話せよ
- (おりかえし) イェスに話せ よき友なる イェスに話せよ
- 思案せずに何事をも イェスに話せよ
- 2.涙の せき来るとき イェスに話せ イェスに話せ
- 隠せる罪を持たば イェスに話せよ (おりかえし)
- 3.恐れに 囲まれなば イェスに話せ イェスに話せ
- 明日の日 気にかからば イェスに話せよ (おりかえし)
- 4.死ぬるに 安きなくば イェスに話せ イェスに話せ
- 惑える その心を イェスに話せよ (おりかえし)
この讃美歌に促されるように、林久美という女性が書いた「名前」という題の神への祈りの詩があります。数年前にもこの講壇からご紹介したことがありますが、今朝もう一度お読みしたいと思います。
「名 前」
- わたしの名前は久美 父がマルコによる福音書(*)にある
- 「タリタ・クミ」をとって つけてくれました。 いつか天国の門を
- くぐるとき イエスさまご自身が 「タリタ、クミ」と言われましょう
- その時再び生き返り 自由な体になるのです。
- 2千年前の女の子のように
- わたしは体が不自由です でも わたしは知っています
- 神のお力でいつか自由に なれることを・・・・ (林久美)
(*) マルコによる福音書 5:41。 但し、新共同訳聖書では「タリタ、クム」
祈りましょう。
天の父なる神様、あなたの御名を崇め、讃美します。
この世には思いがけない逆風のために、人生の海路をこぎ悩んでいる人がいます。しかし、あなたはそのような人々の助け手として、独り子をお遣わしになり、嵐を踏み越えて親しく近づき、「安心しなさい。恐れることはない。わたしである」と御声をかけてくださいます。弟子たちはこの御声によって救われ、勇気付けられました。ゲネサレトの町に苦しむ人々も癒されました。主の御声はまた時を越え、所を越えて響き渡り、ジェレマイアー・E.ランキンさんと林久美さんという2人の詩人にも祈る勇気を与え、また世の多くの人々に、祈ることによって得られる平安を証する者となりました。今朝、わたしたちの耳にもあなたの御声は届きました。わたしたちもまたあなたに祈る勇気を頂きました。
私たちの主イエス・キリストの御名によって感謝します。アーメン。