【イースター礼拝−メッセ−ジ要約】 2004年4月11日
メッセージ 高橋淑郎牧師
聖書によると人間は神の形に、神にかたどって創造されましたが、人間は神になりたがります。ここに罪があります。今から2千年前に驚くべき出来事が起こりました。神が人となられたのです。「人の子」とは、イエスがご自分を謙った言い回しです。その意味は、「人となった神」、また「人間に仕えるためにこの世にこられた神」ということができます。神の子イエス・キリストがどうして人間の姿をとってこの世にこられたのか、その理由は、「人々の手に引き渡され、殺されるため」(31節)です。神になりたがる人間が、人となった神を手にかけるのです。十字架は人間の罪を象徴しています。しかし、神であるイエスは死に支配されたままではいません。「殺されて三日の後に復活する」と言われます。
神のご本質は愛です。神の愛はこの世の全ての罪びとを無条件で赦し、受け入れたいのです。しかしまた神は聖なる方なので、シミほどの罪と汚れさえ赦すことも見逃すこともできません。「罪の支払う報酬は死」(ローマの信徒への手紙6:23)です。この至高の聖と至高の愛という両面を合わせ持つ神の御心をどうすれば満足させることができるでしょうか。み子を十字架につけることで、神の聖さを満足させました。しかもみ子が十字架に死んでくださったことによってわたしたちは救われました。神は不死の方ですから、三日目に墓の中から甦られました。これによって罪は永遠に滅ぼされました。
もしイエス・キリストがこの世に来てくださらなかったら、わたしたちの心は冷えたままですから、真の愛を知らなかったでしょう。
もしイエス・キリストが十字架に死んでくださらなかったら、わたしたちはいつまでも罪の闇路をさまよい、救いの道を知らなかったでしょう。
もしイエス・キリストが甦ってくださらなかったら、わたしたちは罪びとのままですから、永遠の命と神の国に至る道を知らず、永遠の滅びに堕ち行く者となっていたことでしょう。 主に感謝して祈りましょう。
メッセージ 高橋淑郎牧師
イースターおめでとうございます。わたしたちは人生の節目に、よくこの「おめでとう」という祝福の言葉、或いは挨拶をします。しかし、全ての「おめでとう」は、主イエス・キリストにある復活の命を受けて初めてその意味を理解することができる上に、真実の輝きを増します。肉体の死後天のみ国に行くことが赦されているという確信がその言葉の土台をなしているからです。今日は主イエス・キリストが十字架に死んで墓に葬られて三日目に復活されたことを記念し、喜び、祝う日です。
今日の聖書テキストは、このイエス・キリストからまことの命を賜った親子の物語であります。ここに汚れた霊に苦しめられている子どもとその父親がいます。マタイによる福音書17:14〜20を見ると、子どもはその症状から癲癇(てんかん)という診断が下されています。その上マルコによる福音を見ると、「ものが言えない」という二重の苦しみを負わされています。父親は−3人の弟子を引き連れて山に登ったイエスの帰りを待つ(マルコによる福音書9:2)−「ほかの弟子たち」に息子を助けてほしいと願いましたが、うまく行かなかったようです。それを見ていた律法学者たちとの間に議論が起こりました。父親の心配、子どもの苦しみをよそに、彼らは無意味な議論に時間を費やしています。何とも空しいことです。と、そこへイエスが帰ってこられました。駆け寄る群衆の中にもちろん苦しむ子どもの父親の姿もあります。事情を聞いたイエスは嘆いて言われます、「何と信仰のない時代なのか、いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をここに連れてきなさい。」と。いったい誰をさして言われた言葉なのでしょうか。特定することは難しいですが、しかしまた誰も彼もこの言葉から逃れることはできなかったでしょう。確かにこの世はいつの時代も「信仰のない時代」です。
では、信仰とは何でしょうか。神を信じる者は病気をしないのでしょうか。病を得ることは不信仰なのでしょうか。苦しむ子どもを前にして、ただおろおろと手をこまねくばかりの両親の不甲斐なさを不信仰と言うのでしょうか。癒しの業に失敗した弟子たちの非力さを指しているのでしょうか。苦しむ子どもの為には何もしないで、ただ弟子たちの失敗をあげつらう律法学者たちの冷たい心を指す言葉なのでしょうか。もう一度言います。信仰とは何でしょうか。この命題に対する定義は聖書に記されています。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(へブライ人への手紙11:1)と。聖書が言う「信仰」というギリシャ語の単語には元々「委ねる」という意味があります。病気をしたから不信仰なのではありません。不信仰だから病気になったわけでもありません。イエスが言う不信仰とは、人間の力で何とかしよう、何とかできないものかという思いが一杯で、誰一人として命の主、全能の神に悩みや問題を委ねることを忘れていたのです。祈ることを忘れていたのです。この父親はイエスに対して、「おできになるなら」と言っています。全面的に委ねきれない人間の弱さ、限界を見ます。主イエスの大いなる御業を目の当たりにして驚いた弟子たちは、その後で自分たちの無力さの原因はどこにあるのかと尋ねたとき、イエスは祈りの大切さをお教えになりました。「祈り」とは神への全面降伏の証です。自分の無力さを認めて全能の神に一切を明け渡し、委ねることです。これは世間の一般常識から見て正反対のことです。宗教に関心のない人から見て、クリスチャンが祈る姿は弱さの現れそのものでしょう。人は自分の中に少しでも可能性を残している間は祈ろうとしないからです。宗教を小ばかにする人は、祈ることは問題からの逃避だというでしょう。祈る時間があるなら行動を起こせというでしょう。しかしイエスは、「命の神を信じ、委ねきれない人こそ問題から逃避して、解決への道を自ら塞いでしまっている。祈らない人こそ弱い人間である」と言われます。祈りは怠惰な人間にはできません。なぜなら、祈りを通して全能の神から問題解決のための最も有効な知恵を授かるのです。「主イエス・キリストを恐れることは知恵の初めである)(箴言1:7)と旧約聖書に書かれている通りです。祈りは、牧師やベテランのクリスチャンなど特別な人にしかできないものと思ってはなりません。祈りは全ての人に開かれた神との交わりの道なのだということを忘れないで下さい。昔の敬虔な神の人の言葉に、「祈りによって恩寵の門を叩き、信仰によってその解答を待つ」という言葉があります。あなたも今日から祈ることを始めてください。
31節をご覧ください。ここには、わたしたちの想像を超えた神の経綸が見られます。この世は、人間が神になりたがります。また人間を神として祭り上げる風潮があります。イエス・キリストの時代にはローマ帝国の覇者である皇帝の像が、神として地中海沿岸諸国の至るところに建てられ、崇められていました。今も、東京には明治年間に起こった日露戦争の英雄、乃木希典氏を神として崇める「乃木神社」があります。また第二次大戦時、戦場に散った兵士たちを軍神と崇める「靖国神社」があります。香川県には大平正芳氏を神と崇める「大平神社」があります。太平氏はクリスチャン総理で、わが国では吉田茂氏以来二度目のキリスト教式の国葬までしたはずの人なのですが、地元の人にとってそんなことはどうでもよいことなのでしょう。
しかし、聖書によると、人間は神の形に、神にかたどって創造されたと記されています。全く反対なのです。今から2000年前、もっと驚くべき正反対の出来事が起こりました。神が人となられたという出来事です。「人の子」とは、イエスがご自分を謙って呼ぶ時の、特徴ある言い回しです。その意味は、「人となった神」、また「人間に仕えるためにこの世にこられた神」ということができます。神の子イエス・キリストがどうして人間の姿をとってこの世にこられたのか、その理由は31節に見られる通り、「人々の手に引き渡され、殺されるため」です。神になりたがる人間が、人となった神を手にかけるのです。イエス・キリストが上げられた十字架は、傲慢な人間の罪を象徴しています。しかし、神であるイエスは死に支配されたままではいません。「殺されて三日の後に復活する」と言われます。事実復活しました。
一昨晩お話したように、イエス・キリストはわたしたちの罪のために十字架に死んで葬られましたが、それによってわたしたちの罪は完全に贖われたのです。なぜなら、それが神の永遠の初めからのご計画だったからです。神のご本質は愛です。神の愛はこの世の全ての罪びとを無条件で赦したいのです。受け入れたいのです。しかしまた神は聖なる方なので、シミほどの罪と汚れさえ赦すことも見逃すこともできません。「罪の支払う報酬は死」(ローマの信徒への手紙 6:23)だからです。この至高の聖と至高の愛という両面を合わせ持つ神の御心をどうすれば満足させることができるでしょうか。人間の知恵には限界があります。しかし神にはできます。神には何でもできるからです。神はその独り子をこの世に遣わし、み子を十字架につけることで、神の聖さを満足させました。イエス・キリストが十字架に死んでくださったことによってわたしたちは神との和解の道が開かれました。しかも神は不死の方ですから、三日目に墓の中から甦られました。これによって罪は永遠に滅ぼされ、罪びとが赦される道が開かれました。そこでイエス・キリストのご生涯とわたしたちの運命を重ね合わせて考えて見ましょう。
もしイエス・キリストがこの世に来てくださらなかったら、わたしたちの心は冷えたままですから、真の愛を知らなかったでしょう。
もしイエス・キリストが十字架に死んでくださらなかったら、わたしたちはいつまでも罪の闇路をさまよい、救いの道を知らなかったでしょう。
もしイエス・キリストが甦ってくださらなかったら、わたしたちは罪びとのままですから、永遠の命と神の国に至る道を知らず、永遠の滅びに堕ち行く者となっていたことでしょう。 主に感謝して祈りましょう。
天の父なる神様、あなたの御名を崇め、讃美します。
二重の苦しみに喘いでいた子どもとその親を汚れた霊から解放してくださった主イエスは、今朝、わたしたちのうちにも訪ねてくださり、神の愛、主イエス・キリストの恵み、聖霊の豊かな交わりへと迎え入れてくださいました。あなたが神でありながら人となるまでに謙って下さいましたから、わたしたちはそれによって愛を知りました。あなたがわたしたちを捕らえていた罪から救うためにわたしたちに代わって十字架に死んでくださいましたから、わたしたちはあなたが差し伸べてくださる和解の御手にすがることができました。あなたがはかから甦ってくださったので、わたしたちは罪から救われたばかりか、永遠の命を受け、神の御国に至る道が開かれました。
これより後、わたしたちは生涯をあなたに献げ、あなたの福音を一人でも多くの人々に宣べ伝える奉仕の業につかせてください。
私たちの主イエスの御名によって祈ります。アーメン。