【主日礼拝−メッセ−ジ要約】 2004年4月25日
メッセージ 高橋淑郎牧師
イエスは、「あなたの人生を、火をもって訓練し、清め、塩味のきいたものに造り替えてあげよう。」と言われます。香川県にいるわたしの友人は郊外に山を買い、そこに登り窯を作り、陶芸に打ち込んでいます。ただの土くれもひとたび陶芸師の手で窯に入れられ、高い温度の火で焼かれると、立派な陶器に生まれ変わります。また昨年死去された今野高子姉のお連れ合いは刀鍛冶でした。鉄は火を通すことによって強い鋼に生まれ変わります。地獄に用意されている火は罪びとを焼き尽くす力があります。しかし、この世にあってはキリスト者を蝕む不信仰、不純物、偽善という罪を吹き分ける力があります。この火は神から来る試練、また訓練のことを指しているのです。
食材に塩を加えて火を通すと、まろやかな味を出してくれます。また塩は腐蝕から守る清めの力があります。では、イエスの言う塩とは何を意味しているのでしょうか。それは愛です。神はわたしたちに、アガペーの愛、「神の愛」という賜物を用意して下さっています。この愛という塩味をいっそう麗しいものにする為には試練や訓練という火が必要です。イエスはご自身、十字架という試練の火を潜り抜けて、アガペーという塩味をわたしたち罪びとに示して下さいました。わたしたちもまた世の人に同じ塩味を提供する為には試練の火を通されなければならないのです。わたしたちはこの世にあって、さまざまな試練を経験しますが、そのとき自分だけが不幸だという被害者意識に心乱されてはなりません。イエスは、「わたしの後に従いたい者は、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われました。
「互いに平和に過ごしなさい」、これが今朝わたしたちに与えられた主イエス・キリストからのメッセージです。わたしたちの生活が未信者の躓きとならないだけでなく、イエスに倣うわたしたちの生活を見て、人々が神を崇める者となりますように。わたしたちの内に備えられている神の愛という塩によって豊かな味わいを提供するキリスト者となってください。
メッセージ 高橋淑郎牧師
先週、自分たちの中で一番偉いのは誰かと議論している弟子たちに対して、イエスは幼子のように自分自身を丸ごと神に委ねる謙虚な人こそ神の国にふさわしいと言われたことを学びました。今日はイエスに対する正統派の弟子は自分たちを置いてほかにないという誤った考えを正そうとしておられるイエスに学びましょう。
日本の伝統的な文化の中には流派というものがあります。どんなに実力があっても、家元の許しもなく、その流派の看板を勝手に掲げて人に教えることはできません。あえて強行すると裁判沙汰になることでしょう。ヨハネというイエスの弟子は、イエスの名で力ある業をしている人がいると聞き、その人のもとへ出向いて、「わたしたちに断りもなく出すぎたことをするのはやめなさい」と説得しました。説得が功を奏したのか、失敗したのかわかりませんが、イエスにそのことを報告しました。ところがほめていただけるどころか、意外にもイエスは、「やめさせてはならない」と言われます。
時々クリスチャンでない人から、「キリスト教会にもいろいろなグループがあるそうですが、どうして一つになれないのですか。なろうとしないのですか。同じ聖書を読み、同じ神さまを拝んでいるのならできないはずはないと思いますが」という質問をよく受けます。仰せの通りです。正直、わたしもそう思っていた一人です。キリスト教会ではそれぞれのグループを「教派」と呼んでいますが、確かに日本国内のキリスト教会を見ても、数え切れないほどの教派があります。しかし、わたしはこの箇所を読んで、またそれぞれの教派の現実を思い合わせるとき、これでよいのだという結論に導かれます。「やめさせてはならない」のです。なぜでしょうか。要するにどの教派もイエスのために働いているのです。イエスのために働いている人々がそのすぐ後でイエスの悪口は言えない、それはそうだと思うからです。「キリスト教年鑑」という本があります。そこには各教派の教義やその歴史、所属する各教会の住所、電話番号、信徒数、牧師の名前などある程度のことがわかります。どの教派も自分たちの教義がどれほど優れているか、聖書に忠実であるか、イエスの教えに熱心であるかというようなことを強調しています。同時にまた、各教派とその教会は自覚しています。自分たちが百%正しいとは考えていません。それぞれに不完全な教派であり、教会なのだということを認めています。そういう限界をわきまえながら、自分たちが読んだ聖書理解の範囲の中でキリスト教会としての看板を掲げているのです。本家争いをしている分けではないのです。お互いがお互いの教派の長所を尊重しながら、自分の教派の欠けを補い合って、伝道を続けているのです。むしろ、各教派が無理に一つになろうとすることのほうが危険ではないかとわたしは思うのです。各教会に導かれてそこで信仰に導かれたキリスト者は、その教派の教会を愛し、天に召されるまでのホームとして、忠実に信仰生活、教会生活を送ることが大切です。
今、キリスト教会の現状を例に挙げてお話しましたが、同じことがこの世のあらゆる生活の場にもあてはまります。お互いが自分こそ正統派だといがみ合い、無駄な血を流したり、差別やいじめに走ることは真に愚かであり、それは神の御心を悲しませる以外の何ものでもありません。自分たちとは違う。だから排除するのではなく、違いを超えて互いの長所に学び、欠点を補い合いながら、神と人に仕えてこそ、神にある真の平和が実現するのです。
使徒パウロはコリントの教会に宛てた手紙の中で、次のように書き送っています。少し長いですが、一緒に読んでみましょう。「そこで神は、ご自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるのでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって、『お前は要らない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前は要らない』とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。ひとつの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、ひとつの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。あなたはキリスト教会の体であり、また、一人一人はその部分です。」(コリントの信徒への手紙一12:18〜27 新共同訳聖書 p.316)
イエスのみ言葉が静かに聞こえてきます。「互いに平和に過ごしなさい」、これが今朝わたしたちに与えられた主イエス・キリストからのメッセージであります。
42節をご覧下さい。いつの世にも自分を正当化することで、かえって罪に陥ってしまうことがあります。わたしたちはこれまでの人生を振り返るとき、何と多くの人に躓(つまず)きを与えてきたことかと反省させられます。聖書に書かれている「つまずき」という言葉の語源は「スカンダロス」というギリシャ語で、ここからスキャンダルという英語が生まれました。人は大きな石には躓くことはありません。よけて通ります。しかし、小石には躓きます。目にとまりにくいからです。10年ほど前、わたしの妻は人を送っていった帰り道、薄暗い階段を降りる途中、小石に足元をさらわれたのがもとで、約2ヶ月医者通いをしました。これなどは文字通りの躓きです。しかし、小石に躓いたくらいで新聞記事にはなりません。世間でスキャンダルというとき、それは覚せい剤の誘惑に負けたとか、不純異性行為に走ったとか、贈・収賄事件を起こしたとか言う場合です。かつて牧会していた教会に現役の検事さんがいました。その人から聞いた話によると、覚せい剤でも異性問題でも、汚職事件でもどんなスキャンダラスな事件の当事者でも、最初はほんの小さな石ころ程度にしか見えていないのです。この程度は大丈夫、自分でいつでもブレーキをかけられると思っているうちに、次第に欲望の虜になり、気がついたら取り返しのつかない事態を招いてしまっていたというケースがほとんどなのだそうです。
42節以下は「イエスを信じている名もなきクリスチャンのひとりを躓かせる罪」の大きさについて書かれています。ましてや未信者を躓かせるなどもってのほかです。もちろんこの場合、加害者がクリスチャンであることは言うまでもありません。そしてここに言う躓きとは、人をしてイエス・キリストに対する信仰を捨てさせてしまうほどの罪を言います。「あんな生活態度のクリスチャンがいる教会なら行っても仕方がない。キリストを信じる意味がない」と思わせてしまう罪です。わたしたちの何気ない言動、何気ない視線が、人を躓かせてしまうというのです。躓く罪以上に躓かせる罪の深刻さをわたしたちは心に留めておかなければなりません。両手、両足、両目が揃ったまま地獄に落ちるよりも片手、片足、片目になってもそれで天国に入ることが赦されるなら、その方がよほど幸せだとイエスは言われます。しかし、わたしたちはその一生を終えるまで、残りの手や足や目がそのまま無事でいられるでしょうか。それから先も人を躓かせないでいることができるでしょうか。「切り捨てる」とは、悔い改めるという意味ですが、手も足も全てを切り取り、達磨さんのようになり、両目さえ失っても、果たしてわたしたちは人を躓かせないでいることなどできるのでしょうか。相変わらず多くの人を地獄の道連れにしてしまうかもしれません。地獄って聞くだけで不気味な感じがしますが、いったいどんなところなのでしょうか。イエスの時代、エルサレムの城外にごみ焼却場がありました。そこはヒンノムの谷といわれている所でした。市民のごみがそこに集められて燃やされます。当時エルサレムにどれくらいの数の人が生活していたのかわかりませんが、まだダイオキシン問題が話題に上らない時代ですから、ごみは年中燃やされていたという記録があります。イエスは、「地獄とはちょうどあのようなところだ。そこではひと時も消えることはないばかりか、ごみを燃やす勢いから逃れようとする蛆虫(うじむし)が、炎に呑まれて結局転げ落ちていくように、地獄に落ちた罪びとはもはや救われる望みはなくなってしまうのだよ」と言われます。では、どうすれば、恐ろしい地獄に落とされずにすむのでしょうか。罪から自由でいられるのでしょうか。49節以下をご覧下さい。イエスは、「あなたの人生を、火をもって訓練し、清め、塩味のきいたものに造り替えてあげよう。」と言われます。香川県にいるわたしの友人は郊外に山を買い、そこに登り窯を作り、陶芸に打ち込んでいます。ただの土くれもひとたび陶芸師の手で窯に入れられ、高い温度の火で焼かれると、立派な陶器に生まれ変わります。また昨年2月に死去された今野高子姉のお連れ合いは刀鍛冶でした。鉄は火を通すことによって強い鋼に生まれ変わります。地獄に用意されている火は罪びとを焼き尽くす力があります。しかし、この世にあって神から来る火はキリスト者を蝕む不信仰、不純物、偽善という罪を吹き分ける力があります。この火は神がキリスト者を鍛える為に与える試練、また訓練のことを指しているのです。
食材に塩を加えて火を通すと、まろやかな味を出してくれます。また塩は腐蝕から守る清めの力があります。イエスは、わたしたちに塩味のきいたキリスト者であれと言われます。では、イエスの言う塩とは何を意味しているのでしょうか。それは愛です。神はわたしたちに、アガペーの愛、「神の愛」という賜物を用意して下さっています。この愛という塩味をいっそう麗しいものにする為には試練や訓練という火が必要です。イエスはご自身を十字架に釘付ける最も残酷な試練の火を潜り抜けて、アガペーという塩味をわたしたち罪びとに示してくださいました。わたしたちもまた世の人に同じ塩味を提供するためには神からの試練の火を通されなければならないのです。わたしたちはこの世にあって、さまざまな試練を経験しますが、そのとき自分だけが不幸だという被害者意識に心乱されてはなりません。イエスは、「わたしの後に従いたい者は、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われました。
イエスのみ言葉が静かに聞こえてきます。「互いに平和に過ごしなさい」、これが今朝わたしたちに与えられた主イエス・キリストからのメッセージであります。あなたの生活が未信者のつまずきとなりませんように。むしろ、イエス・キリストに倣うあなたの生活を見て、彼らが神を崇める者となりますように。あなたの内に備えられている神の愛という塩がより豊かな味わいとなるように、イエス・キリストに従う者となってください。
祈りましょう。
天の父なる神さま、あなたのみ名をあがめ、讃美します。
今朝もあなたの尊いみ言葉を感謝します。わたしたちはあなたの御子イエス・キリストに従う者としてこの世から選ばれました。しかし、いつも周りが気になります。自分を正当化しては人を裁きたくなります。しかし、この世の人々はわたしたちの矛盾した生活や、偽善的な行いの為に躓いていることにわたしたちは気がついていませんでした。わたしたちは今朝、このような自己中心の罪を悔い改める一人です。どうかこの週も、あなたのみ言葉を心に深く刻み込ませてください。内に与えてくださった恵みの塩味がわたしたちの生活の隅々に滲み出てくる者となりますように。試練の日々にあっては、愚痴や不満を口にするのではなく、十字架の主を見上げるときとしてください。
私たちの主イエスの御名によって祈ります。アーメン。