【主日礼拝メッセ−ジ要約】                          2004年5月2日

 二人は一体

マルコによる福音書10章1-12節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 神は最初に「アダマー」(土くれ)から「アダム」(人間)を創造されました(創世記2:7)。幼い子どもが砂場で泥をこねていろいろなものを作るように、神さまは泥人形をお造りになりました。けれどもそれは物言わず、また意思も持たないただの泥人形ではありません。神がその鼻に命の息を吹き入れたとき、人は人として生きる者となりました。人間の素材は土くれですが、その本質は神の愛と命(いのち)を受けた者、唯一この世で神との交わりを許された存在なのです。また神は人を「男と女」に創造されました。最初に男が造られて、次にそのあばら骨のひとつから女が造られました(2:18〜)。その意味は何でしょうか。男は自分の骨肉の一部を割くことによって新しい命を生み出すことができました。これは、やがて神ご自身が、十字架の上でご自分の肉を裂き、わたしたちに復活の命、新しい永遠の命を与えるという約束と深く結びついています。

 ファリサイ派の人々はせっかちに、「離婚が律法に違反することかどうか。罪になるのかならないのか」と、イエスに問います。しかし、イエスは離婚が罪であるとか、罪でないとか言う前に、そもそも夫婦と言うものは神のみ前にどのような関係にあるかを考えなさいと言っておられます。結婚とは、二人がひとつ屋根に住み、共同の生活を営むという以上に、もはや二人ではなく、一体であるという最も大切な基本に立つことであります。男が自分の体の一部を割き与えてこれをパートナーと呼び、お互いは助け合う関係、ベターハーフ、分身なのです。「星の王子さま」の著者であるサンテグジュベリは、「結婚とはお互いに見つめ合う関係ではなく、二人並んで、共通の目標である神を見つめ続けることだ」と言います。夫婦であっても、お互いを見つめ合っているだけでは、欠点ばかりが目に付き、やがて非難の応酬をし始めることでしょう。神が罪深いわたしたちを非難しないで、むしろ十字架の痛みをもってわたしたちを愛し続けて下さるように、この十字架のイエス・キリストを仰ぎ見ることによって、互いに自我をぶつけ合うことから、痛みを分かち合う関係へと清められて行くのです。                   

 
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【主日礼拝メッセ−ジ】                          2004年5月2日

 二人は一体

マルコによる福音書10章1-12節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 今日、結婚を男女の関係に限定してよいのかという問題のほかに、離婚の是非、離婚者の再婚の是非、更には性同一性障害者のケアなどの問題が複雑に絡み合っています。教会としてもこれまでの聖書解釈で良いのかということが問われている時代です。しかし、この世の趨勢(すうせい)がどうであれ、この世を測るたった一つの物差しは聖書であると確信しているキリスト教会、そしてわたしたち仙川キリスト教会としては、その解釈をめぐってあれこれ議論する前に、先ず天地を創造された神ご自身がこの問題に対して何と仰せかということをじっくりと聴くことが大切です。

 ファリサイ派の人々は、イエスに対して離婚の是非をめぐって問いかけました。ご存知かと思いますが、「ファリサイ派」とは、直訳すると「分離派」と言うことができます。分離派といっても、既成の派閥から分離した人々という意味ではありません。むしろその反対で、当時ユダヤ教の本流をなすグループでした。保守的な聖書理解にこだわり、神の御心である「清い生涯」を貫くために、汚れきったこの世から身も心も分離して、ひたすら神への敬虔と従順を誓い、自分たちの信仰の立場を明確にした人々、旗印を鮮明にした人々のことです。これはなかなかできることではありません。世間の人から、「あなたはクリスチャンですってね」とか、「教会に通っておられるのですか」と聞かれて、「えぇ、まあ」などと控えめというか、あいまいな答え方をしてしまいやすいクリスチャンとはえらい違いです。うっかり「そうです」などと答えたら後のいじめが恐いのか、それとも、何かにつけて、「クリスチャンのくせに」とか、「クリスチャンがそんなことをして良いの?」と追及されたくないからという警戒心が働くからかもしれません。ファリサイ派の人々はそうではありません。いつでも、どこでも、「わたしたちに倣う者となりなさい」と、その指導力を発揮しているのです。今の世にあっても見習うべきこの人たちですが、しかしあまり自信がありすぎて、少々脱線してしまうことがあります。今日学ぶ聖書箇所もそのひとつです。ファリサイ派の質問自体は有益です。なにも間違ってはいないのです。しかし、実のところ、彼らは既に答えを知っていました。知っていながらイエスがどういう答えを出すか、イエスにどの程度の聖書知識があるか、試みようとしたのです。イエスは、彼らの心のうちを見抜いておられたので、反対に彼らの聖書に対する姿勢を問い直されました。「モーセはあなたたちに何と命じたか」と。すると彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました。」と即答しました。この場合モーセとはモーセ個人を指すというよりも、モーセが書いたと言われている律法の書、旧約聖書の初めの部分に見られる五つの書物(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)のことです。そこでイエスは離婚の是非を問う前に、神の御心がどこにあるか、それを考えなさいと言われます。わたしたちも順序を追って主のみ言葉に学ぶことにしたいと思います。

 先ず、人間は天地創造の初めから、天地の創り主である神によって「男と女とに造られている」という事実を思い起こしましょう。よい機会ですから、ご一緒にそれについて書かれている旧約聖書の創世記を開いて下さい。2章7節には何と書かれているでしょうか。神は最初に「アダマー」(土くれ)から「アダム」(人間)を創造されました。幼い子どもが砂場で泥をこねていろいろなものを作るように、神さまは泥人形をお造りになりました。けれどもそれは物を言わず、また意思も持たないただの泥人形ではありません。神がその鼻に命の息を吹き入れたとき、人は人として生きる者となりました。人間の素材は土くれですが、その本質は神の命(いのち)を受けた者、唯一この世で神との交わりを許された存在なのです。「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。」(1:27)と書かれてある通りです。ここに言われている「かたどり」は、「イメージ」という言葉が当てはまります。それは、外見のイメージではなく、内面における神のイメージを意味していると言うべきでしょう。神は人間にだけ、自分の意思をもって神の御心を図り知ることのできる力をお与えになったという意味です。また神は人を「男と女」に創造されました。最初に男が造られて、次にそのあばら骨のひとつから女が造られました(2:18〜)。その意味は何でしょうか。男は自分の骨肉の一部を割くことによって新しい命を生み出すことができました。これは、やがて神ご自身が、十字架の上でご自分の肉を裂き、わたしたちに復活の命、新しい永遠の命を与えるという約束と深く結びついています。神がご自分の命を贖い代にしてまでわたしたち人間を愛しておられることを学ばせるために、女を造る手だてとして男のあばら骨を用いてくださったのです。男がえらいから先に造られたのではなく、男はその身を犠牲にする覚悟をもって、パートナーとの関係を築くために造られているのです。主イエス・キリストはこの教えを「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」という言葉で結んでおられます。パートナーとの出会いは、たとえそのプロセスにおいて、人間の選択が優先されるとしても、しかし、その基礎は神による出会い、神による結びつきの賜物であることを忘れてはなりません。

 ファリサイ派の人々はせっかちに、「離婚が律法に違反することかどうか。罪になるのかならないのか」と、イエスに問います。しかし、イエスは離婚が罪であるとか、罪でないとか言う前に、そもそも夫婦と言うものは神のみ前にどのような関係にあるかを考えなさいと言っておられます。結婚とは、二人がひとつ屋根に住み、共同の生活を営むという以上に、もはや二人ではなく、一体であるという最も大切な基本に立つことであります。男が自分の体の一部を裂き与えて、助け合う関係、ベターハーフ、分身なのです。「星の王子さま」の著者であるサン テグジュベリは、「結婚とは男と女がお互いに見つめ合う関係ではなく、二人並んで、共通の目標である神を見つめ続けることだ」と言います。神が十字架の痛みをもってわたしたちを愛し続けてくださるように、夫婦も、この十字架のイエス・キリストを仰ぎ見ることによって、互いに自我をぶつけ合うことから、痛みを分かち合う関係へと清められて行くのです。

 最後に不幸にして離婚という道を選んでしまった場合のことについて主のみ言葉に聴きましょう。日本でもそうですが、昔は男性優位の社会でしたから、どんなにひどい暴力亭主であっても、また働きの悪い亭主であっても妻の方から、「もうお前さんにはついてゆけなくなったので別れます」、ということは許されていませんでした。離縁状はあくまで夫から妻に手渡すことに決まっていました。沖縄の歌に「今更離縁というのなら、元の19にしておくれ」という一節がありますが、このように、離縁状は一見男女の地位を正当化させるためのようでありますが、もとの19に返してもらえないまま、悲しい選択をさせられるとしても、ある意味で、これは当時弱い立場に置かれていた女性を守る律法でもありました。離縁状を突きつける男のほうに高いハードルを設けています。離縁させられた妻は悔しい思いをさせられるのですが、しばらくして素敵な男性が現れて、その人と再婚したいと思ったときに、元の夫から手渡された離縁状を持っていることによって、公に再婚を認めてもらえるということになっていました。離縁状は離婚証明書であり、同時に再婚許可書でもあったことになります。但し、元の夫が未練の余り復縁を願ってもそれは許されないという規定もあります。その上離縁するには社会的同意が必要でした。そんなことは聖書のどこに書いてあるかと言いますと、申命記24:1〜4を見てください。

 「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。その女が家を出て行き、別の人の妻となり、次の夫も彼女を嫌って離縁状を書き、それを手に渡して家を去らせるか、あるいは彼女をめとって妻とした次の夫が死んだならば、彼女は汚されているのだから、彼女をさらせた最初の夫は、彼女を再び妻にすることはできない。これは主の御前にいとうべきことである。あなたの神、主が嗣業として与える土地を罪で汚してはならない。」

 このように原始社会にあって離婚は夫にだけ与えられた一方的な権利で、今の時代の人には到底受け入れられないことです。しかし、女性の社会的人権がほとんど認められていなかった時代の、これはぎりぎり女性を保護する規定でもあったことを見逃すことはできません。男は外で働き、妻は主婦として家の奥にいて、子どもを産み、躾をし、炊事・洗濯・掃除をしておればよいと言われていた時代です。若い人は、「幼にして親に従い、嫁しては夫に従い、老いては子に従う」とか、「女三階に家なし」という言葉をご存じないと思います。とにかく、昔の女性はどこにも自分を主張できる場所はなかったのです。それでも、というかそれだから昔の女性は家という得体の知れないものにしがみつくしかなかったのです。いったん嫁いだ家で甲斐甲斐しく妻として、母としてどれほど尽くしても、「お前に恥ずべき罪がある」とか、「お前が気に入らない」という男の勝手な理屈で一方的に離縁されて、その家をたたき出されてしまった時には、その先どこにも行く宛てはないのです。だからモーセの律法はそのような女性を保護するために、せめて夫に離縁状を書くことを義務付けたわけです。しかも、元の夫はそれほど妻を侮辱していながら、喉もと過ぎると再び未練のために、追い出した元の妻をもう一度呼び戻すなどということは許されませんでした。多分そのような男は世間から相手にされなくなり、誰も縁談を持ってきてはくれなかったことでしょう。

 今日、離婚の是非が問われています。それは、当事者双方の選択であって、第三者の口出しすることではありません。また、離婚をしたこと、離婚後誰かと再婚することについて、それらを罪であるとか、聖書に違反することだなどと言う権利は誰にもありません。場合によっては離婚の決断をした方が、当事者相互これ以上傷つかなくても済むのでは、ということもあるかもしれないからです。イエス・キリストの教えを注意深く読み直しましょう。人は誰かを殺したり、傷つけたり、或いは物を騙し取ったりするから罪びとなのではありません。人は本来罪びとだからそのような行為に走ってしまうのです。同じように、人は離婚するから罪を犯したというよりも、人はもともと自己中心の罪びとだから、再婚という道を選択してしまうのだと言われるのです。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をもは書いたのだ。」とはそういう意味です。このようにイエス・キリストは、離婚自体を罪とは言っておられません。聖書はやむをえないこととしながらも離婚を認めていますし、再婚も条件付ながら認めています。あくまでも当事者がよく祈って決断するしかありません。しかし、繰り返して申し上げますが、基本的には、「神が合わせられたものを、人は離してはならない」という教えを十分に心の中に刻み込んで、どのような道を選ぶべきか、神の御心を求めていただきたいと思います。

祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたのみ名をあがめ、讃美します。

人はあなたの導きのままにさまざまな人生を選び取ります。生涯独身を通すことで純粋にあなたを信じ、あなたに従う尊敬すべき神の人がいます。また結婚の道を選び、家庭を築き、イエス・キリストに出会い、家族の救いのために祈り続けている尊敬すべき信仰の人がいます。また離婚という悲しい経験と痛みを通して、多くの心に傷をもつ人の痛みを我がこととして主にある愛を注いで下さっている兄弟姉妹を見ます。

今朝、わたしたちは離婚の是非をめぐるファリサイ派の人々と主イエス・キリストの議論を通して、いや、主イエスの教えによって人と人との出会いのすばらしさを学ぶことができました。男のあばら骨から女が造られました。それはキリストが十字架の上にご自分の肉を裂き、わたしたちに命を与えるためであったことを学ばせるためでした。結婚はハッピーな毎日を必ずしも約束するものではありませんが、十字架のキリストと共に痛みを分かち合うことによって祝福をいただく道であることをわたしたちは信じます。どうか、いろいろな道を歩むすべての人生をあなたの愛でひとつに解け合わせてください。

私たちの主イエスの御名によって祈ります。アーメン。

 


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