【主日礼拝メッセ−ジ要約】−父母の日記念日−                          2004年5月9日

 子どものように

マルコによる福音書10章13-16節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 子どもは生まれながらには知恵も力も財産など何一つ所有していません。全てを神の賜物として、周りの人々に守られてこそ生きて行けるのです。子どもは無意識に自分の内に誇るべき何一つ持たない者であることを認めています。それを無意識の謙遜と呼ぶことができます。そのような幼子の謙遜、神と両親に対する全き信頼こそ神の国にふさわしいと主は言われます。「主の祈り」の中に、「み国を来たらせたまえ」という一節があります。み国とは天国、神の国のことですが、イエスはわたしたちに「天国へ行けるように」祈れとは言わず、「天国が来ますように」という祈りをささげなさいと教えます。天国はもちろん死後の世界と考えることは間違いではありません。しかし、死ななければ天国に行けるかどうかわからないのではなく、今日ただいま、天国の一国民にしていただけるチャンスが既に与えられているのです。神の国とは、「神が支配される領地」という意味です。それは空の上にあるのではなく、この地上に既に実現しています。今あなたが神の支配を受ける決心をすることです。イエスを救い主と信じ、イエスこそ聖なる愛をもってこの世を支配する方、真に王の王、キリストとして受け入れ、従うことを決心したとき、あなたはその瞬間から神の国に属する者、あなたのうちにみ国が来たということが証明されるのです。わたしたちに主の祈りが与えられているのは、毎日この祈りをささげることによって、わたしたちの力ではなく、神の全能の力によってこの世の悪しき誘惑に勝利する道が開かれるのです。主イエスは子どもたちを腕に抱き、その頭の上に手を置いて言われます。「『み国を来たらせたまえ』という主の祈りの生きたお手本こそ、あなたの目の前にいる子どもたち一人一人だよ」と。

 今日は「父母の日」を覚える礼拝です。神から託された子どもたちを神の御心に沿って養育しておられる世の親たちに、一輪のカーネーションの花とエールを贈るだけではなく、神の家族の一員であるわたしたち全てが同じ思いで子どもたちに接し、子どもから学びつつ神の御国がわたしたちの内に成るようにと心を合わせて共に祈る日であります。               

 
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【主日礼拝メッセ−ジ】−父母の日記念日−                          2004年5月9日

 子どものように

マルコによる福音書10章13-16節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 今日はあちらこちらでお母さんに差し上げるカーネーションを手にしている人が多いことと思います。また6月第3の日曜日を「父の日」として両親に感謝する習慣があります。

 母の日は世界中の人々に覚えられています。ご承知のとおり、母の日はアメリカ合衆国東海岸のある町に住む一少女、アンナ・ジャーヴィスが母親の召天記念日の礼拝にカーネーションの花を携え、教会の人々にプレゼントしたことに始まります。やがて全米で、そして全世界の教会がこの日を「母の日」と定めました。しかしわたしたち仙川キリスト教会では、数年前から今日を「母の日」としてではなく、「父母の日」として礼拝をささげています。この日を「母の日」と定める動機となった出エジプト記20:12(旧約聖書 p.126)のみ言葉を思うと、「父母の日」とするのが自然だという結論に達したからです。皆さんとご一緒に読みましょう。

 「あなたの父(ちち)母(はは)を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられた土地に長く生きることができる。」

 

 さて、今日与えられたみ言葉もまた父母の日にふさわしい教えと言うことができます。イエスに触れて頂きたいという願いをもって子どもたちを連れてきた人々の話です。この出来事がいつのことなのか詳しいことはわかりません。12節までの離婚問題をテーマにしたイエスとファリサイ派の人々の議論に一区切りが着いた直後のことなのか、それとも別の日の出来事なのかわかりません。いずれにしても結婚の意味についてお教えになったすぐ後に子どもたちを祝福されたイエスのお姿を学ぶことは意義のあることです。

 「イエスに触れていただくために、人々が子どもたちを連れてきた」という書き出しで物語は始まります。ここで、「人々」とは恐らくその両親だと思われます。アンナ・ジャーヴィスのカーネーションが「母の日」のきっかけになりましたが、当時はアメリカでさえまだ女性の社会的地位は低いものでした。「母の日」は、その意味で女性の社会的地位の向上と人権啓発の糸口になったと言えます。ましてや2000年も昔のイスラエル社会では女性と子どもたちはほとんど顧みられることはありませんでした。特に子どもたちは家の中ではともかく、社会的には邪魔な存在でした。主の弟子たちにとっても子どもに対する認識は似たようなもので、神聖な時間を子どもに奪われたくなかったのです。それで親たちを叱って、その場から遠ざけようとしました。しかしその様子を見ていた主イエスは珍しく感情をあらわにして憤り、「子どもたちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」と言いながら、子どもたちを抱き上げ、手を置いて祝福されたということです。

 今も昔も大人は自分の都合で時に子どもたちを可愛がり、時に邪険に扱いがちです。しかし、9:37に続いてここでも、子どもたちは決して邪魔な存在ではなく、むしろ、「子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と言われた主のみ言葉が聞こえてきます。確かに両親を初め、大人は子どもに多くのことを学ばせる義務があります。知的な教育だけでなく、情操教育、特に見えざる神に対する畏敬の心を養わなければなりません。同時に大人は、子どもたちから同じくらい、多くのことを学び取らなければなりません。

 子どもは生まれながらには知恵も力も財産など何一つ所有していません。全てを神の賜物として、また彼を取り巻く人々に守られてこそ生きてゆけるのです。子どもはただ無条件にそれらのものを受けています。自分のうちに誇るべき何一つ持たない者であることを彼ら自身認めています。それを無意識の謙遜と呼ぶことができます。そのような幼子の謙遜、神と両親に対する全き信頼こそ神の国にふさわしいと主は言われます。わたしたちは毎週の礼拝の中で「主の祈り」をささげていますが、その中に、「み国を来たらせたまえ」という一節があります。み国とは天国と言うこともできます。イエスはわたしたちに「天国へ行けますように」祈れとは言わず、天国が来ますようにという祈りをささげなさいと教えます。天国はもちろん死後の世界と考えることは間違いではありません。しかし、死ななければ天国に行けるかどうかわからないのではなく、今日ただいま、天国の一国民にしていただけるチャンスが既に与えられているのです。神の国とは当たり前のことですが、「神が支配される領地」という意味です。それは空の上にあるのではなく、この地上に既に実現しています。わたしが、あなたが、神の支配を受ける決心をすることです。イエスを救い主と信じ、イエスこそ聖なる愛をもってこの世を支配する方、真に王の王、キリストとして受け入れ、従うことを決心したとき、あなたは今この瞬間から神の国に属する者、あなたのうちにみ国が来たということが証明されるのです。わたしたちに主の祈りが与えられているのは、毎日この祈りをささげることによって、わたしたちの力ではなく、神の全能の力によってこの世の悪しき誘惑に勝利する道が開かれるのです。主イエスは子どもたちを腕に抱き、その頭の上に手を置いて言われます。「『み国を来たらせたまえ』という主の祈りの生きたお手本こそ、あなたの目の前にいる子どもたち一人一人だよ」と。

 

 今日は「父母の日」を覚える礼拝です。神から託された子どもたちを神の御心に沿って養育しておられる世の親たちに、一輪のカーネーションの花とエールを贈るだけではなく、神の家族の一員であるわたしたち全てが同じ思いで子どもたちに接し、また子どもから学びつつ神の御国がわたしたちの内に成るようにと心を合わせて共に祈る日であります。

 「子どもたちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」と主は言われます。わたしたちはご両親の思いに反して、子どもたちがまだ小さいことを理由に、祝福の基であるイエスから遠ざけてはいないでしょうか。子どもたちの声をただ騒がしいという理由で退けていないでしょうか。一方で子どもたちに真理のみ言葉を語りながら、もう一方で騒がしいとか、うるさいという理由で彼らを主イエスから遠ざけ、自ら御国の一員に成る道を見失うことにならないように、失格者とならないように心したいものです。

 

八木重吉の詩集の中に次のような一節があります。

 「さて、あかんぼうは なぜに あん あん あん あん なくんだろうか 

  ほんとうに うるせいよ あん あん あん あん あん あん あん あん 

  うるさか ないよ うるさか ないよ

  よんでるんだよ かみさまをよんでるんだよ 

  みんなもよびな あんなに しつっこくよびな」

 

祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。

「子どもたちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」とあなたは言われました。

わたしたちは毎週ここに来て、あなたからの祝福を受けるために礼拝をささげていますが、いつの間にかそれをわたしたち大人だけのものと誤解して幼い子どもたちをあなたから遠ざけて祝福への道を閉ざしていたかもしれません。自分本位の罪をお赦しください。あなたは傲慢なわたしたちに、子どもたちから学べと教えてくださいます。全てが受身の子どもたち、自分を受け入れてくれる者に何の疑いもなく委ねている子どもたちの従順さこそわたしたち大人が見失っていたものでした。御国を来たらせた前と祈るわたしたちに、子どもたちの姿はこの祈りの意味を学ばせてくれる何よりの教材でした。わたしたちこそ、周りからどんなに妨げられようと、あなたの御名をしつっこくよび求める者でありますように。

私たちの主イエス・キリストの御名によってお願いします。アーメン。

 


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