【主日礼拝メッセ−ジ要約】 ―花の日―                      2004年6月13日

 神を信じなさい

マルコによる福音書11章12-14,20-25節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 イエスがイチジクの木の下を通られたのは過ぎ越し祭の数日前のこと、まさに3〜4月の頃でした。小さくても花を咲かせ、実をつけるべきときに、それが一つもないということは、これから先もこの木から収穫を期待することはできないということです。イエスはただ感情に任せて呪ったのではなく、実を成らせるべきときにそれがないということを問題にされたのです。この木はイチジク本来の役目を果たしていないのです。

 これはもしかしたら、わたしたちに対する警告かもしれません。先ほど引用したハバクク書3:17の預言に結びつけるのは穿(うが)ちすぎでしょうか。ヨハネによる福音書15章のぶどうの木のたとえ話にも言われているように、実の成らない枝は切り捨てられます。これを口先だけのクリスチャンに対する警告として受け取るのは聖書の読み込みでしょうか。しかし、これを誰か第三者を想定して読むのではなく、自らを戒め、悔い改める心で読むことは赦されると思います。もし、わたしたちが奇麗ごとは言うけれども、イエスの為に、キリストの教会の為に、世の人々の為に、信仰者として具体的な果を何一つ実らせてない生活を続けているとすれば、わたしたちの永遠の未来はどうなることでしょうか。

 今日、教会から若者や幼子の姿が消えつつあります。サタンは実に巧妙な手口で先ず親や周囲の大人に働きかけて、今は教会に出入りしているときではない。勉強をさせなければ、趣味やスポーツで心と体を鍛えなければ、と土曜日も日曜日も塾やクラブ活動に彼らを駆り立てています。その先に彼らを待っているものは何でしょうか。若者や幼子の魂の悲鳴が聞こえてきます。

 しかし絶望することはありません。山のように動かない大きな問題を前にしてもわたしたちはひるみません。「祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい」と主が約束して下さっています。若者や幼子にみ言葉を伝える機会が全く失われたわけではないのです。「少しも疑わないで」とイエスは言われます。主のいつくしみ深い眼差しが向けられていることを実感できるのです。まず若者、幼子が必ず救われると信じて祈りましょう。そして時が良くても悪くてもみ言葉を宣べ伝えましょう。

 
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【主日礼拝メッセ−ジ】 ―花の日―                      2004年6月13日

 神を信じなさい

マルコによる福音書11章12-14,20-25節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 1856年、アメリカはマサチューセッツ州チェルシーにある一教会の牧師が、教会生活における子どもの位置の重要性を指摘して、6月第二主日に特別礼拝をささげ、この日に献児式、幼児祝福式を挙行すると共に、両親や教会に対して、子どもの養育の責任を再認識するよう訴えたのが最初と言われています。この日、礼拝堂を美しい花で飾り、大人も幼子もこの美しい世界を造ってくださった神さまに感謝の礼拝をささげました。礼拝の後、子どもたちは日曜学校のリーダーに伴われて老人ホーム、病院、警察署(交番)、消防署などにお花を届けて感謝の心を伝えました。それ以来教会は、この日を「子どもの日」また、「花の日」と呼ぶようになったということです。日本の子どもの日は、女の子は3月3日、男の子は5月5日と決められていて、この日、両親や周りの人々はもっぱら子どもにサービスをすることに追われがちです。しかし、教会から始まったこの日は、その反対で、造り主である神さまに感謝することを教える日、神さまが造られたこの世界のために働いている人々に感謝する心を培う日、また奉仕することを喜ぶことを教える日として世界中の教会が6月第二主日を心に刻み込み、実践するに至りました。

 わたしたち仙川キリスト教会においては、特にこの日は大切に扱われなければなりません。今年度の総会で決議した「宣教・牧会方針」を思い出してください。教会のしおりにも掲載されていますが、その中に、「特に明日の教会を担う若者に対する積極的な取り組みこそ焦眉の急である。」とあります。総会に先立つこんだん会では、この「焦眉の急」という表現は、今日あまり聞きなれないので、もっと別の優しい言い方に改めてはどうかというご意見がありました。それを受けてわたしもいろいろ考えてみました。しかし、わたしの様な古いタイプの人間には、今の時代に合う気の利いた言葉は思いつきませんので、敢えてこのままでお許し頂くことにしました。問題は表現の方法ではないのです。今日教会離れが著しい若者や幼子に対する伝道の緊急性をぜひとも教会全体のものとして受け止めて頂きたかったのです。言葉をやさしくすればするほど、その緊張感が薄らいでゆくような危機感を覚えるのです。

 しかしながら、今朝主がわたしたちに与えてくださったみ言葉は、このような時代に生きるわたしたちに大いなる慰めと希望、そして勇気を与えます。今朝はイチジクをめぐるお話です。イチジクを漢字で書くと花のない果実と書きます。「花の日」なのに花のない植物のお話では洒落にもならないと言われるかもしれませんが、イチジクについて詳しい二人の方から聞いたことを受け売りしますと、一人の方のお話では、イチジクにこんな漢字を思いついた人は、きっと植物のことに詳しくない書斎学者であろうと憤慨していました。イチジクにも花を咲かせる時期があるのだそうです。春の雨が降る頃、小枝の先に小さいこぶのようなものがつきます。それが花だそうです。そう言えば、旧約聖書のハバクク書3:17を見ると、「イチジクの木に花は咲かず ぶどうの枝は実をつけず オリーブは収穫の期待を裏切り」という一文があります。神に背く者の不幸な将来を思い、このような植物にたとえて警告している預言の言葉です。神に背く者の現実は花を咲かせることのない、つまり実のならないイチジクと同じだと言っているのです。それで、この機会に聖書の中にいったいどれくらいの頻度でイチジクについて書いてあるかを調べてみました。先ず、アダムとエバが神の戒めに背いた結果、最初に腰を覆うために用いたのはイチジクの葉っぱです。衣服のルーツはイチジクの葉っぱでした。ぶどうとイチジクは、パレスチナ地方では豊かさと平和のシンボルとして愛されました。たとえば、列王記上5:5(口語訳聖書と新改訳聖書は4:25)に、「ソロモンの在世中、ユダとイスラエルの人々は、ダンからベエル・シェバに至るまで、どこでも自分のぶどうの木の下、イチジクの木の下で安らかに暮らした。」とあります。そのほかにも数え切れないくらいイチジクのことが書かれています。

 それでもう一人のイチジクに詳しい方の話を受け売りしますと、大体イチジクは3〜4月頃に小さな青い実ができ始めるそうですが、まだ食べられません。あえて食べるとお腹をこわすそうです。イエスがイチジクの木の下を通られたのは過ぎ越し祭の数日前のこと、まさに3〜4月の頃でした。そのようなときに、イエスはお腹をこわす覚悟でイチジクを食べたいと思うほどお腹をすかせていたということでしょうか。それはともかく、この木にはその青い実さえ、ひとつもなかったのです。そこで腹たち紛れにこの木を呪ったということでしょうか。そうではありません。小枝の先に花を咲かせ、実をつけるべきときに、それが一つもないということは、これから先もこの木から収穫を期待することはできないということです。イエスはただ感情に任せて呪ったのではありません。確かに口に入れることができるほど熟したイチジクのときではないかもしれませんが、それを期待できるものが何一つないということを問題にされたのです。この木はイチジク本来の役目を果たしていないのです。

 これはもしかしたら、わたしたちに対する警告かもしれません。先ほど引用したハバクク書3:17の預言に結びつけるのは穿(うが)ちすぎでしょうか。ヨハネによる福音書15章のぶどうの木のたとえ話にも言われているように、実の成らない枝は切り捨てられます。これを口先だけのクリスチャンに対する警告として受け取るのは聖書の読み込みでしょうか。しかし、これを誰か第三者を想定して読むのではなく、自らを戒め、悔い改める心で読むことは許されると思います。もし、わたしたちが奇麗ごとは言うけれども、イエスの為に、キリストの教会の為に、世の人々の為に、信仰者として具体的な果を何一つ実らせてない生活を続けているとすれば、わたしたちの永遠の未来はどうなることでしょうか。

 話を進めましょう。さて、その翌日、イチジクの木が根元から枯れているのを弟子の一人が発見して、驚きました。しかし、イエスは枯れた木について、なぜそうなったのかについては語らず、つまり、滅びたものについて分析するのでなく、今ならまだ間に合う人々を対象にして、教会が立つべき位置、進むべき方向について希望と慰めと勇気を与えるみ言葉を語って下さいます。

 牧会方針に書きましたように、今日、教会から若者や幼子の姿が消えつつあります。人生のスタートラインにある彼らにとって、神の御前に立つこと、み言葉に聴くことは最も有益なのに、実際には彼らからそのチャンスの芽が何者かの手によって摘み取られつつあるのです。摘み取っているのは外ならぬサタンです。サタンは実に巧妙な手口で先ず親に、また周囲の大人に働きかけて、今は教会に出入りしている時ではない。勉強をさせなければ、趣味やスポーツで心と体を鍛えなければ。と土曜日も日曜日も塾やクラブ活動に彼らを駆り立てています。その先に彼らを待っているものは何でしょうか。若者や幼子の渇ききった魂の悲鳴が聞こえてきます。まさに焦眉の急なのです。自分の眉毛を焦がすほどに魂を滅ぼす危機的な問題が目の前に迫っているのです。

 しかし、絶望することはありません。神は必ずサタンに勝利されるのです。若者や幼子にみ言葉を伝える機会が全く失われたわけではないのです。23節を見てください。口語訳聖書も新改訳聖書も、共に原文に忠実に、「心に(の中で)疑わないで」と訳していますが、新共同訳聖書は、「少しも疑わないで」と意訳しています。リビング バイブルはもっと分かりやすく、「信じて疑わないで」と訳しています。いろいろに訳している聖書のどれを見ても、わたしたちの信仰を支えてくださる主のいつくしみ深い眼差しがわたしたちに向けられていることを実感します。

 問題は山積して、しかも複雑に絡み合っています。何から手をつけたらよいか分かりません。しかし、主の御前に立ち返るとき、わたしたちには先ずなすべきことが見えてきます。祈ることです。形ばかりの祈りではありません。「信じて疑わないで」祈ることです。先ず、「隣人を赦す祈り」から初めましょう。赦し、赦された和解の経験をいただいて、伝道に遣わされて行きましょう。すると、山に向かって、海に飛び込めと命じるほどの確信を主はわたしたちに与えてくださいます。山のように動かない大きな問題、高く分厚い壁のような現実を前にしてもわたしたちはひるみません。「祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい」と主が約束してくださっているからです。

 今朝、わたしはあなたがたにお願いしたいのです。もしあなたが本当に主を愛している、教会を愛している、隣人を愛していると言われるのであれば、水曜日、木曜日の祈り会に来てください。その時間を何にも優先して確保してください。もし、あなたが本気で青少年の救い、迷える魂の救いを願っていらっしゃるのであれば、来て一緒に祈ってください。一人で祈っておられるあなたの祈りを、主は決してないがしろにされません。しかし、主は言われたではありませんか。「二人、または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」と(マタイによる福音書18:20)。もし、祈祷会にどうしても来られない人にはわたしはこの教会に赴任して以来ずっと言い続けていることですが、今日も改めてお約束します。それ以外の日に教会に来てください。或いはわたしをあなたの生活の場に呼んでください。共に祈ろうではありませんか。三つ撚りの縄はたやすく切れないと聖書は言っています。一人よりも二人、三人で主を呼び求めましょう。主御自ら若者を、幼子を、そして隣人をサタンの手から奪い返す手立てを、必ずやそこから教えていただけるのです。  祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。

 時代はますます混迷を深め、闇の部分がいっそう色濃く、そして深まってまいりました。サタンは大胆にもあなたの愛する教会に攻撃を仕掛け、あなたを求める人々の目を曇らせています。若者も幼子もどんどん教会から遠ざかりつつあるこのとき、わたしたちはただおろおろと困惑するばかりでした。状況の変化について行けず、呆然と立ち尽くしているばかりでした。しかし、あなたはこの朝、そのようなわたしたちに力強く語ってくださいます。「少しも疑わず、神を信じて祈り続けなさい。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい」と、すべての解決は祈りにあることを教えて下さいました。壁を打ち破れない原因、リバイバルを妨げているもの、それは世の中のせいでも、時代のせいでもありません。単にわたしたちの不信仰でした。祈りの不足でした。今、わたしたちはその事実を認めてあなたの御前に悔い改めます。この教会をどうぞ祈りの群れとしてください。

主イエス・キリストのお名前によってお願いします。アーメン

 


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