【主日礼拝メッセ−ジ要約】                      2004年7月11日

  神を試みる罪

マルコによる福音書12章13-17節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 この世には巧妙に仕掛けられた罠があり、二つの選択肢しかないような問いかけをしてきます。教会をとるのか家庭円満をとるのか、仕事を優先するのか教会の奉仕を優先するのか、社会問題に取り組むのが正しいのか、それとも礼拝や祈祷会を第一とすべきかと言うような選択を迫られると、わたしたちはつい慌ててAとかBとか答えてその後の信仰生活を危うくしてしまいます。Aを選んだら、本当にBを否定してしまうことになるのか。反対にBを選んだら、本当にAを否定してしまうことになるのか、両方が生かされる道は本当にないのか。悪魔は神の次に賢い者です。彼は神をも試みる大胆不敵な者です。最初からわたしたちの信仰生活、教会生活を破壊する目的でどちらに答えても不利な問いかけを用意しているのです。ここに聖霊による知恵が求められるのです。

 使徒パウロも、「キリスト者は天に故郷を持つこの世の旅人のような者であるが、世に生かされている間、この世の模範となり、王や支配者のために祈る者であれ、この世の政府を敬え」(ローマ13章、外)と教えています。これが皇帝のものを皇帝に返すキリスト者の生き方です。しかし、それは良心を売り渡すということではありません。主は、「神のものを神に返しなさい」と教えます。当時の流通貨幣には皇帝カイザルの肖像と銘が刻まれていました。全てが皇帝の支配とその権威の下にあることを証明するためにです。しかし、聖書は言います。「初めに、神は天地を創造された。・・・我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう」(創世記1:1、27)と言われました。

 ローマの皇帝は貨幣に自分の肖像を刻みつけて世界を自分のものにしようと試みました。しかし、神は人間そのものをご自分の形に似せてお造りになられたのです。つまり、人間は神の肖像と銘を刻み込まれたものとして造られ、この世に生かされているのです。世界は誰のものでもない、神のものです。

 

 
福音メッセージ一覧へ戻る


【主日礼拝メッセ−ジ】                       2004年7月11日

  神を試みる罪

マルコによる福音書12章13-17節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 ファリサイ派とヘロデ派とは面白い取り合わせです。彼らをイエスの許に派遣した「人々」とは、11:27の「祭司長、律法学者、長老たち」のことと想像できます。その中でも特に、祭司長は神殿を代表するサドカイ派に属している人々で、比較的ヘロデ派に近いグループということができます。この人々は聖書の読み方において、その生き方においてもきわめて現実的で、体制に従う人々です。彼らは領主ヘロデと、事実上イスラエルを支配しているローマの力を利用しながらうまく立ち回る与党の立場にありました。一方律法学者は会堂を代表する人々で、ファリサイ派の人々に属しています。彼らはサドカイ派と反対に理想に燃えていました。聖書を文字通りに信じ、異邦人ローマの支配に抵抗する野党の立場にありました。このように立場の全く異なる二つのグループですが、イエスを亡き者にしたいという思いでは一致していましたから、それぞれの中から知恵の回る、そして言葉巧みな精鋭をイエスの許に送り込み、言葉の罠にはめようとしたわけです。彼らはイエスの許に来るや、さっそく、「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。」と切り出しました。一見丁重で、相手を高く評価しているように思わせる言葉遣いです。しかし、ルカによる福音書はこの人たちのことを「正しい人を装う回し者」と言っています(20:20)。確かに言葉は丁重です。嘘はありません。しかし後に続く質問の前置きという意味でこの挨拶を読み直してみると、鋭いとげが隠されています。毒を含んでいると思わずにいられません。彼らは「先生、あなたは神の前でも、自分にも、まただれに対しても真実で裏表のない方、また人の顔色を見ないで神の道を教えることのできる方です。だから、逃げないで答えてください・・・。」と言っているのです。言葉は丁寧でも、またその言葉に嘘がないからといって、それが必ずしも誠実であるということにはならない場合もあるのです。確かに「正しい人を装う回し者」にふさわしい底意地の悪い質問で、問題の核心に迫ります。「ところで、皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか。適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか。納めてはならないのでしょうか。」と。慇懃無礼に予め退路をふさいでおき、しかも逃げ道のない選択を迫るという巧妙で手のくんだ質問の仕方には舌を巻きます。

 当時のユダヤ人は最低3種類の納税義務を課せられていました。ひとつは「神殿税」、残りふたつはローマ帝国に納める「所得税」と「人頭税」です。特に人頭税は所得のあるなしにかかわらず、男子は12〜65歳、女子は14〜65歳までを対象にしていました。ルカによる福音書2:1以下に皇帝アウグストが全世界の人口調査を命じたとありますが、その目的は人頭税を徴収するためのものでした。

 もし、イエスが「納税しなくてよろしい」と答えると、ヘロデ派の人々は、「お恐れながら」と、その筋に訴えるつもりです。しかし、もし「納税するのは市民として当然の義務だ」と言えば、選民イスラエルの敵、ユダヤ人に対する裏切り、律法に違反する者として、イエスは市民の手で石打ち刑にされるでしょう。どちらに答えても、彼らを遣わした人々は、自分の手を汚さないで、イエスを処刑することができるのです。主イエスには彼らのそうした下心が見えていたのです。

 わたしたちも不用意に教会から一歩外に足を踏み出したら、この世の仕掛けた巧妙な罠にはまる危険があります。この世はAとB、二つの選択肢しかないような問いかけをしてきます。じっくりと考える暇も与えられず、即答を迫られることがあります。教会をとるのか家庭円満をとるのか、仕事を優先するのか教会の奉仕を優先するのか、社会問題に取り組むのが正しいのか、それとも礼拝や祈祷会を第一とすべきかと言うような選択を迫られると、わたしたちはついあわててAとかBとか答えてその後の信仰生活を危うくすると言うことがあります。Aを選んだら、本当にBを否定してしまうことになるのか。また、反対にBを選んだら、本当にAを否定してしまうことになるのか、両方が生かされる道は本当にないのか、ここに聖霊による知恵が求められるのです。この世は悪魔の支配下にあります。悪魔は神の次に賢い者です。悪魔は神をも試みるほど大胆不敵です。最初からわたしたちの信仰生活、教会生活を破壊する目的でどちらに答えても不利な問いかけを用意しているのです。わたしたちの浅知恵で彼らに勝てるはずはありません。

 まず、イエスがどのような答え方をなさったか学ばなければなりません。わたしたちの主イエスは最良、最適、最高の答え方をされました。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と。すると、質問者はイエスの見事な答えに驚き入ったということです。わたしたちは確かに皇帝のものを皇帝に返さなければなりません。キリストはご自分の弟子たちについて、「あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。」(ヨハネによる福音書15:19)と言い、同時に、「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪いものから守ってくださることです。」(ヨハネによる福音書17:15)と天の父なる神に執り成してくださっています。このイエスの執り成しに支えられて、使徒パウロも使徒ペトロも、「キリスト者は天に故郷を持つこの世の旅人のような者であるが、この世に生かされている間、キリスト者こそ、この世の模範となり、王や支配者のために祈る者であれ、この世の政府を敬え」(ローマの信徒への手紙13章、フィリピの信徒への手紙3:20、ペトロの手紙一2:11〜17)と教えています。これが皇帝のものを皇帝に返すキリスト者の生き方です。

 しかし、それは良心を売り渡すということではありません。主は、「神のものを神に返しなさい」と教えておられます。当時の流通貨幣には皇帝カイザルの肖像と銘が刻まれていました。人々がこの貨幣をもって売り買いするとき、その商品は言うに及ばず、貨幣を用いる人間を含める全てが皇帝の支配とその権威の下にあることを証明するわけです。しかし、聖書は言います。「地とそこに満ちるもの 世界とそこにすむものは、主のもの。」(詩編24:1)と。いや、「地とそこに満ちるもの」だけではありません。聖書66巻の冒頭に、「初めに、神は天地を創造された」(創世記1:1)と証言しています。更に、神は、「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう」(創世記1:27)と言われました。ローマの皇帝はコインに自分の肖像を刻みつけて世界を自分のものにしようと試みました。しかし、神は人間そのものをご自分の形に似せてお造りになられたのです。つまり、わたし自身が神の肖像と銘を刻まれたものとして造られ、この世に生かされているのです。世界は誰のものでもない、神のものです。わたしたちはこの世にあって、この世の行政府と法律に従って生きて行く者です。それはキリスト者といえども例外ではありません。しかし、この世が神のものを無視して、それさえも皇帝のものというとき、教会ははっきり「ノー」と言わなければなりません。

 たとえこの世が神を試みるようにキリスト者に挑みかかり、皇帝か、キリストかと二者択一を迫るときが来ても、わたしたちは確信を持って、「皇帝のものを皇帝に、神のものを神に返しなさい」と神からのメッセージを取り次ぐ者でなければなりません。  祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。

今朝もあなたのみ言葉を心から感謝します。この世は主イエスをさえ試みるほどの知恵をもって、わたしたちキリストの教会に対して、実に巧妙に言葉の罠をかけ、皇帝のものと神のものの二者択一を迫ります。どちらか一方に答えなければならないように語りかけてきます。しかも、そのどちらに答えてもわたしたちの信仰が土台から覆させられるものなのです。どうか、あなたを試みるほどの知恵で戦いを挑んでくる者たちの脅迫に狼狽させられることのない者としてください。わたしたちの知恵ではなく、十字架に死んで甦ってくださった主イエス・キリスト、平和と慰め主、御霊なるキリスト、あなたの独り子であるキリストが語られるみ言葉のみを取り次ぐ者としてください。

主イエス・キリストのお名前によってお願いします。アーメン


福音メッセージ一覧

集会案内

質問・メール

キリスト教イロハ

聖書を読む