【主日礼拝メッセ−ジ要約】 2005年2月6日
12人の1人であるユダが近づき、「先生」と声をかけるや、接吻しました。よりにもよって主イエスに選ばれた弟子が、そのご恩も忘れて裏切ろうとしているのです。出会いの挨拶、別れの挨拶など挨拶にもいろいろな形があります。今日でも国によってお互いにハギング(抱擁)しながら、相手の首に接吻する挨拶の仕方がありますが、しかし、ユダがイエスにしたこの挨拶ほど悲しいものはありません。また会いましょうという希望を込めた挨拶ではなく、まさしく「決別の挨拶」、永遠の別れとなってしまいました。イエスの瞳は悲しみの涙で光っていたのではないでしょうか。その時イエスは、「ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか」(ルカ22:48)と言われたほどです。
ユダはその後イエスが十字架につけられると知ったとき、後悔のあまり、受け取った30枚の銀貨を返しに行きました。しかし金を返せば済む問題ではないはずです。一方イエスが逮捕された時、弟子たちは皆蜘蛛の子を散らすように三々五々逃げて行き、要領の悪い一人がまとっていた布を掴まれて、慌てて裸のまま逃げて行ったという逸話まで紹介されています。聖書は言います。イエスを裏切ったのはユダ一人ではない。全員が共犯者なのだと。こういう人たちが後に教会を建て上げる伝道者として用いられて行くことになるのです。しかし、ユダひとり、孤独な死の道を選んでしまいました。
後悔や反省で留まっていてはなりません。悔い改めることが必要です。悔い改めとは、生き方を百八十度転換することです。自己中心の生き方をやめてイエス・キリストを心の王座に明け渡すことです。
共犯者である弟子たちのほとんどは、後に悔い改めて立ち返りました。ユダひとり後悔したまま、しかし最後までイエス・キリストの御許に立ち返ろうとしなかったのです。あなたはいかがでしょうか。
昨年の11月14日以来、おおよそ2ヶ月ぶりにマルコによる福音書からのメッセージです。その間クリスマスに関する聖書、また2005年の歩み出しに必要と思われる聖書を読んでいる内に、こんなに長い間隔が空きました。皆さんが忘れるのも無理はないと思います。この福音書の14章42節までどんなメッセージだったかを知りたい方でインタネットを開くことのできる方は教会のホームページにストックされている「福音メッセージ」のコーナーをご利用ください。パソコンをお持ちでない方はわたしの方で必要な箇所をコピーして差し上げることができます。遠慮なくお申し出下さい。
さて、「イエスがまだ話しておられると、……」から始まる今日の箇所は非常に緊張させられます。イエスはゲッセマネと名づけられたオリーブやぶどうの木が植わっている畑の一角で天の父なる神から賜る十字架という苦しみの杯を前にして一生懸命祈っておられたのに、8人の弟子は畑の入り口の方で、側近の3人の弟子たちはイエスからそう遠くない距離で揃いも揃って眠りに落ちていたのです。ですから話しておられたというよりも、叱っておられたのかも知れません。
そこへ12人の1人であるユダが近づき、「先生」と声をかけるや、接吻しました。よりにもよって主イエスに選ばれた弟子が、そのご恩も忘れて裏切ろうとしているのです。出会いの挨拶、別れの挨拶など挨拶にもいろいろな形があります。今日でも国によってお互いにハギング(抱擁)しながら、相手の首に接吻する挨拶の仕方がありますが、しかし、ユダがイエスにしたこの挨拶ほど悲しいものはありません。また会いましょうという希望を込めた挨拶ではなく、まさしく「決別の挨拶」、永遠の別れとなってしまいました。イエスの瞳は悲しみの涙で光っていたのではないでしょうか。その時イエスは、「ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか」(ルカ22:48)と言われたほどです。
僅かな小競り合いはあったものの、イエスは無抵抗のまま捕えられました。小競り合いというのは弟子の一人が剣を抜いて役人の一人の耳を切り落としたことです。その時イエスは自分を捕まえている人の手を振り解くようにして、切られた人の耳に触れて癒し、「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。わたしが父にお願いできないとでも言うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」(マタイ26:52−54、ルカ22:51)と言い、また「わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる」(ヨハネ10:18)と言われました。このようにイエスが無抵抗のまま逮捕されたのは、旧約聖書に預言されている御言に従って十字架への道を自ら歩み出すためであったことが分かります。
役者は台本どおりに演じますが、ただそれらしく演じれば良いのです。しかしイエスは芝居の役者のようにただそれらしく演じるのではなく、聖書と言う台本のままに生と死を全うされました。罪なきお方が十字架に死ぬことがどういうことなのか分からないわたしたちに対する、これが答えなのです。確かに旧約聖書をお芝居の台本に見立てて初めから終わりまで読むと、主人公が生涯を掛けて人を愛し貫き、しかも十字架に死なねばならないこと、しかし三日目に復活することなど全てわかります。更に主人公がどうしてイエスなのかも分かるのですから、旧約聖書って面白い書物であり、またミステリアスな書物です。
新約聖書を読むと、イエスは確かに旧約聖書に預言されている通り弟子の裏切りに遭い、十字架の死と復活を遂げるのです。このように旧約聖書と新約聖書を通して読むと、もう一つの大切な真理が見えてきます。それは、わたしたち人間は自分の決意や努力ではどうしようもなく罪深い者であり、その罪を未解決のままでは神が定めた終わりの日、最後の裁きによって永遠の滅びに堕ちて行かなければならないのです。
聖書はその全巻を通して教えています。わたしたちを裁くことのできる神だけが、同時にわたしたちを救うことができるのだと。どうやって私たちを救って下さるのでしょうか。神は最後の審判に先立ってわたしたちを救う弁護者を立てて下さいました。この世でも弁護士の資格を得るにはいろいろな条件が求められますが、一番基本の条件はその人自身、犯罪歴があってはならないということです。罪を知らない神の子イエスだけが罪人であるわたしたち人間の弁護を引き受けて、神の御前にその罪を赦して頂くことができる大きな働きをして下さいました。いったいこの世に弁護士自身が犯罪者に代わって罪の裁きを受けて死んだという出来事があったでしょうか。主イエス・キリストを別にして誰もいません。このお方だけが私たちの罪を全部引き受けて、罪の象徴である十字架に死んで下さいました。それによってわたしたちは救われたのです。
しかし、今その救いを可能にする十字架への第一歩を踏み出すに当たってユダの裏切りを見る主イエスの御心は張り裂けるほどであったでしょう。誰がこのような役割をユダに演じさせたのでしょうか。神でしょうか。神は人を罪に陥れたり、誘惑する方ではありません。ユダ自身です。ひとえにサタンの誘惑に乗ったユダの責任です。もっともユダはその後イエスが十字架につけられると知った時、後悔のあまり、受け取った30枚の銀貨を返しに行きました。金を返せば済む問題ではないはずです。神の御前に立ち返るべきでした。「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします」(コリント7:10)と、聖書にあるとおりです。
イエスが逮捕された時、弟子たちは皆蜘蛛の子を散らすように逃げて行き、要領の悪い一人がまとっていた布を掴まれたのか、裸のまま逃げて行ったという逸話まで紹介されています。聖書は言います。イエスを裏切ったのはユダ一人ではない。全員が共犯者なのだと。こういう人たちが後に教会を建て上げる伝道者として用いられて行くことになるのです。しかし、ユダひとり、孤独な死の道を選んでしまいました。
失敗は後悔を生みます。悪いことではありません。しかしそれで全てが解決するわけではありません。後悔は時に人を絶望的にしてしまうことさえあるのです。反省も良いことです。しかし反省の仕方にも色々あります。あるクリスチャン検事さんから聞いた話ですが、犯罪者の中には取調べを受けながら、しきりに反省をする人がいるそうです。犯した罪そのものの反省ではなく、なぜあの時目撃されてしまったのか、どうしてあそこで証拠を残してしまったのかと悔やんでいるのです。
後悔や反省をするだけでは解決になりません。悔い改めることが必要です。悔い改めとは、生き方を百八十度転換することです。自己中心の生き方をやめてイエス・キリストに心の王座を明け渡すことです。人は罪を犯すから罪人ではなく、罪人だから罪を犯すのです。問題は罪の性質である自分の弱さ、卑怯さと正直に向き合って神に告白し、救い主イエス・キリストの下に駆け寄ることです。これを悔い改めと言います。
共犯者である弟子たちのほとんどは、後に悔い改めて立ち返りました。ユダひとり後悔したまま、しかし最後までイエス・キリストの御許に立ち返ろうとしなかったのです。
あなたはいかがでしょうか。イエス・キリストと永遠の「さよなら」にならないために、この世に生かされている今を神から与えられた救いのチャンスとして、悔い改めませんか。 祈りましょう。
天の父なる神さま、あなたの御名を心から崇めます。
わたしたち教会は主イエスによってこの世から選び出された者ですが、実に卑怯で弱く、失敗を重ねている罪人の集まりであることを告白します。そんなわたしたち罪人の為に十字架に死んで甦って下さったイエス・キリストによって救われている群れでもあることを思い、あなたに心からの感謝と讃美を献げます。
しかしこの世にはあなたを救い主であることを知らない人が大勢います。その人たちがあなたと「永遠のさよなら」をすることになる前に、あなたの御言を届け、悔い改めに導くものとして、この教会を用いてください。 イエス・キリストの尊い御名によって。アーメン。