【主日礼拝メッセ−ジ要約】 2005年2月20日
大祭司は祭司長、長老、律法学者たちを招集して最高法院(最高裁判所)を開廷しました。これは、実際には初めから結論ありきの裁判です。大祭司は裁判官としてイエスを死罪にする決め手となる証言を引き出そうとするのですが、どれもこれも一致しません。そこでイエスご自身から不利な証言に対する反論の機会を与えて、そこから何か糸口をと思いましたが、イエスは沈黙したままです。大祭司はついに最後の手段として、「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と尋問しました。この時、イエスは初めて口を開き、「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る」とお答えになりました。大祭司はこれを聞いて襟を正すこともしないで、反対に、「神への冒_罪に当たるが諸君はどう思うか」と死刑の表決を誘導し、確定しました。
一方この裁判を庭先で見ていたペトロに向かって、突然大祭司のお手伝いさんは言いました。「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」と。この言葉を聞いてペトロは何と答えたでしょう。「そうです。わたしはいつもイエスと一緒でした」と答えたでしょうか。本当はそう答えるべきでした。なぜなら、福音書の中で彼ほどイエスと一緒にいる時間の長い弟子はいませんでした。しかし、彼は、「違う」と答えてしまいました。そうです。「違った」のです。彼はイエスと一緒にいたと思い込んでいただけで、本当はイエスの御心から遠く離れてしまっていたのです。鶏の声を聴いて泣き崩れた時、ペトロは初めて分かったのです。「自分は何とイエスから遠い者であったことか」と。わたしはイエスの一番弟子だとか、イエスのためなら死ぬこともできると思っていたときこそ、本当はイエスの御心を何一つ理解しようとしていなかったと、心のそこから悔い改めたのです。それがあの涙だったと言えます。ペトロにとってこの涙が本当の意味で信仰の原点となったのです。
大祭司は最高法院(最高裁判所。祭司長、長老、律法学者たち)を招集しました。これは初めから結論ありきの裁判です。大祭司はイエスを死罪にする決め手となる証言を引き出そうとするのですが、どれもこれも一致しません。そこでイエスご自身から不利な証言に対する反論の機会を与えて、そこから何か糸口をと思いましたが、イエスは沈黙しています。大祭司はついに最後の手段として、「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と尋問しました。この時イエスは初めて口を開き、「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る」とお答えになりました。大祭司はこれを聞いて襟(えり)を正すかと思えば、反対に衣を裂き、「この発言は神への冒_罪に当たるが諸君はどう思うか」と、死刑の表決を誘導し、確定しました。あまりにも良い加減な裁判です。死刑囚とされたイエスに向かって、人々は唾を吐きかけ、目隠しをして殴りつけて、「言い当ててみろ」と平手で打つなど、息つく暇もないほど次から次へと侮辱を加えました。
それにしてもイエスはどうしてこういうひどい目に遭わなければならなかったのでしょうか。いったい何をしたというのでしょう。何もしておられません。主イエスは何も悪いことはしておられないのです。この後ローマの総督ピラトの許へ身柄を送られて正式な裁判が始まりますが、ピラトもまたイエスに何の落ち度もないことを認めたし、それでもイエスを極刑にと望むユダヤ人の心にあるのは、イエスに対する「ねたみ」のためだと見抜きました(マタイ27:18)。妬みは恐ろしい罪です。妬みは理性を失わせ、残酷な暴力の淵へと人を引きずりこむ力を持っています。
イエスがどれほど聖いお方であるか、またどれほど愛のお方であるか、二心の無いお方であるか、冷静に観察すれば誰の目にも明らかなはずです。しかし、嫉妬心は人の目を曇らせてしまいます。ねたみの前にはどんなに正しい行いも、清らかな言葉と愛の眼差しを向けられてもその心は益々冷えて行くのでした。
三浦綾子さんの作品の一つに、「氷点」という小説があります。あの作品の中でも、人間の心の奥深くに潜んでいる決して融けない氷点という罪、嫉妬心があることを教えています。
最高法院の罪は、民衆の心が自分たちよりもイエスに傾いていくことへの妬みにありました。この罪が神のみ子イエスを十字架につけてしまいました。実に悪魔的な行為です。悪魔はいつも、神よりも自分の前に人をひざまずくようにと強要します。今日(こんにち)も世界中のあちこちでイエスはありとあらゆるところで不当な差別を受け、侮辱を受け、この世の間違った法律の下で裁かれ、有罪判決を受けて、何百回と投獄され、何十回と処刑されているのです。しかし、聖書にはこの世の終わりの日、神によって、「最後の審判」が下されると預言されています。そのとき、その法廷に引き出されるのは果たしていったい誰でしょうか。
一方、この裁判の間、ペトロは何をしていたでしょうか。彼は夕食の席でイエスから、「あなたがたは皆わたしにつまずく」と言われたとき、「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」(14:30−31)と断言しました。ところが、この様子を窺(うかが)っていたペトロは、大祭司の庭でお手伝いさんや、そこに居合わせた人々から二度も三度も、「あなたもナザレのイエスと一緒にいた。…お前はあの連中の仲間だ。言葉の訛りで分かる」と追及されたら、彼は否定します。するとすぐ鶏が鳴きました。ペトロは二度目に鳴く鶏の声を聴いて、はっとしました。イエスのお言葉を思い出したからです。マタイ福音書やルカ福音書では、「外に出て、激しく泣いた」(マタイ26:75、ルカ22:62)とありますが、マルコ福音書ではその場で泣き崩れたように書いています。わたしは両方とも正しいと思います。鶏の鳴き声を聞いてイエスのお言葉を思い出したペトロはその場に泣き崩れ、やがて居たたまれなくなって外に出て泣き続けたのでしょう。「あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と自信に満ちた模範生ペトロはどこへ行ってしまったのでしょう。しかしよく考えると、彼が自分の信仰に絶対の信頼を寄せていたあの時こそ、本当はイエスから遠く離れていたのかもしれません。あのお手伝いさんはペトロに向かって言いました。「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」と。この言葉を聞いてペトロは何と答えたでしょう。「そうです。わたしはいつもイエスと一緒でした」と答えたでしょうか。本当はそう答えるべきでした。なぜなら、福音書の中で彼ほどイエスと一緒にいる時間の長い弟子はいませんでした。しかし彼は、「違う」と答えてしまいました。残念ながら、「違った」のです。彼はイエスと一緒にいたと思い込んでいただけで、本当はイエスの御心から遠く離れていたのです。鶏の声を聴いて泣き崩れた時、ペトロは初めて分かりました。「自分は何とイエスから遠い者であったことか」と。わたしはイエスの「一番弟子」だとか、イエスの為なら死ぬこともできると思っていたのは間違いで、本当はイエスの御心を何一つ理解しようとしていなかったのです。彼はそのことに気付いたとき、心の底から悔い改めました。それがあの涙だったと言えます。ペトロにとってあの涙が本当の意味で信仰の原点となったのです。
ここでもう一度ペトロの裏切りを考えましょう。彼は主イエスの警告を上の空で聞き、自分がどれほどイエスを深く愛しているか、どうかわかってほしい、それしか頭になかったのです。言い換えると、主の御言よりも自分の感情に酔ってしまっていました。ペトロは確かにイエスを愛していました。しかし、その愛も主の御言に養われる謙虚さを失った時、「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた」という問いかけの前に吹っ飛んでしまいました。ここにペトロの弱さがありました。ペトロの罪は、結局はイエスよりも自分を第一にする弱さにありました。
わたしたちは今朝、イエスを裁く人々の罪を通して、今日(こんにち)いかに多くの人がイエスを裁き、イエスを十字架に釘付けてきたことかを学びました。それだけではありません。イエスの弟子を自任するわたしたちもまた彼らに負けず劣らず、イエスを裏切り、イエスの御心を痛める者であったのだと思い知りました。そうです。この世界は揃いもそろって底知れぬ罪の渦の中にもがいています。
今朝、あなたは自分が何者であるか、これでお分かりになったはずです。同時にそのあなたのために神が何をしてくださったということもお分かりになったはずです。どうか、今こそその罪を悔い改め、神のみ前に立ち帰り、イエス・キリストを信じる者となってください。 祈りましょう。
天の父なる神さま、あなたの御名を心から崇めます。
今朝、わたしたちはユダヤ最高法院が主イエス・キリストを裁いた罪を、また弟子のペトロがイエス・キリストを知らないと公言した罪を学びました。しかし、振り返ってみると、これこそわたしの現実の姿であると知りました。わたしはかつて、聖書に逆らうこの世の基準でしか生きていませんでした。また、あなたの弟子とされた今も、「あなたもあのナザレのイエスと一緒だった」と指された時、あなたを知らないと何度口走ってしまったことでしょう。しかしあなたはこんな者の為にもみ子イエスを与え、十字架の上に一切の罪を贖いとってくださいました。感謝します。
わたしたちは自分の弱さの中で、あなたがいかにわたしにとって近いお方であるかを知りました。どうか、「あなたもナザレのイエスと一緒でしたね」と言われたとき、「はい」と答えることができる者、あなたの前にへりくだり、あなたに従い行く者としてください。
イエス・キリストの尊い御名によって。アーメン。