【主日礼拝メッセ−ジ要約】                         2005年2月27日

 「十字架につけよ」 
マルコによる福音書15章1−15節
 メッセージ:高橋淑郎牧師  

 

 以前どこの団体か忘れましたが、「DIX」という題の映画の広告チラシが郵送されてきました。日本語で言う「十誡」です。昔、モーセ役のチャールトン・ヘストンとエジプトのファラオ役のユル・ブリンナーが共演した同じ題の映画を見たことがあります。役者は違っても内容に変わりはないでしょうから、わたしは観に行く予定はありませんが、映像を通してみると、確かに聖書を活字だけで読むよりも分かりやすさはあります。十誡とは神から与えられた十の戒めのことで、旧約聖書の出エジプト記という箇所の20章に書かれています。申命記という箇所の5−6章では更に詳しい解説付きで書かれています。映画をご覧になるなら、まず聖書そのものをお読みになることをお勧めします。

 ところで、十誡の中心は唯一の神を愛することと、隣人への真実な愛です。しかし、わたしたちが読んでいるこのマルコによる福音書14:53−15:15に十誡の精神が見られるでしょうか。十誡に「偽証してはならない」とありますが、イエスを訴えた人々はこの戒めを破って次から次へと偽りの証人を立てて偽りの証言をさせています。十誡に「殺してはならない」とありますが、彼らは暴動と殺人の罪で投獄されていたバラバ・イエスを見逃して罪を知らないメシア・イエスに向かって、「十字架につけろ」と狂い叫びました。

 今日の箇所には胸を打つ言葉がいくつも見られますが、その中でも特に、この「十字架につけろ」という群衆の叫びは胸を打つどころか、締め付けられます。ここでユダヤ人は「殺してはならない」という戒めを公然と破っています。彼らは誰を殺そうとしているのでしょうか。神の独り子です。彼らは神の独り子に向かって、「十字架につけろ」と叫んでいるのです。恐ろしい罪です。

 こんなことはまっとうな人間のできることではない、わたしたちは間違ってもこんな叫びを上げることはないと、本当にあなたは言えますか。

  
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【主日礼拝メッセ−ジ】                           2005年2月27日

 「十字架につけよ」 
マルコによる福音書15章1−15節
 メッセージ:高橋淑郎牧師  

 

 イエスに対する死刑判決を言い渡した後も最高法院(最高裁判所)の全体会議が引き続き開かれました。この全体会議は77人の議員を以て構成されるユダヤ最高会議(サンヒドリン議会)と呼ばれるものです。裁判は既に結審したのに、これ以上何を相談するのでしょうか。それはローマの総督ピラトにイエスを引き渡し、彼によって死刑の判決を引き出し、そして執行させるためです。それには決して門前払いされることのない訴状が必要です。ローマはユダヤ古来の律法と宗教には干渉しない政策でしたから、律法が禁じている神への冒_罪では総督に受け付けてもらえません。それで協議の上、反ローマ運動の首謀者としてイエスを訴えることにしたわけです。

 ピラトはイエスが訴え通りの者であるかを確かめようと、「お前はユダヤ人の王なのか」と尋問しました。イエスは一言「そうだ」という意味の答えを返した後は一切無言です。死刑が確定するであろう裁判の席で、これほど物静かな被告人を見たことがなかったのでしょう。総督は不思議に思いました。というより、驚いたと訳す方が正確かもしれません。

 時は過越の祭りの直前です。群衆は慣例に従って囚人をひとり釈放してほしいと願い出ました。そこで、反ローマ暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを引き出してきて−正しくはバラバ・イエスと呼ばれていました(マタイ27:17)−、「ユダヤ人の王(メシア・イエス)を赦してほしいのか」と尋ねました。祭司長たちがイエスを訴えてきたのは妬みのためだと分かっていたからです。しかし、裁判の進め方では祭司長たちの方が一枚上手です。彼らは既にこうなることを予測して根回しよろしく、群衆を説得−これも実は、「扇動して」と訳すほうが正しいのですが−しておいたので、彼らはバラバ・イエスを釈放してほしいと言いました。「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか」と総督が尋ねると、「十字架につけろ」というのです。総督はわが耳を疑ったでしょう。「(彼は」いったいどんな悪事を働いたというのか」と再び民衆に問いかけますと、彼らはいっそう激しくいきり立ち、「十字架につけろ」と叫びました。総督はこの声に負けました。そして民衆を満足させるためにイエスを十字架に引き渡しました。ピラトはローマから派遣された総督で、ユダヤでは最高権力者です。彼のひとことで被告の運命は決まるはずでした。しかし、実際には彼の思うように事を運ぶことができませんでした。群衆の声を無視してイエスを無罪にすることは自分の地位を危うくするという計算が働いたのです。

 主日礼拝の中で「使徒信条」というものを唱和している教会でのことです。ある人が礼拝後、牧師の許に来て、「どうして毎週、毎週『主はポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け』というのですか。ピラトさんがかわいそうです」と尋ねました。牧師は、「『ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け』、というのは、イエスはローマの権力によって裁かれた、その為に苦しみを受け、十字架につけられることになったのだという意味です。確かにイエスが十字架につけられて殺されたのはピラトだけの責任ではありません。ピラトは、わたしたちの代表です」と答えたということです。

 以前どこの団体からか忘れましたが、「DIX」という題の映画の広告チラシが郵送されてきましたので、皆さんの週報ボックスに入れておいたことがあります。日本語で言う「十誡」です。昔、モーセ役のチャールトン・ヘストンとエジプトのファラオ役のユル・ブリンナーが共演した同じ題の映画を見たことがあります。映像を通してみると、確かに聖書を活字だけで読むよりも分かりやすさはあります。十誡とは神から与えられた十の戒めのことで、旧約聖書の出エジプト記という箇所の20章に書かれています。申命記という箇所の5−6章では更に詳しい解説付きで書かれています。映画をご覧になるなら、まず聖書そのものをお読みになることをお勧めします。

 ところで、十誡の中心は唯一神への愛と、隣人への真実な愛です。しかし、わたしたちが読んでいるこのマルコ14:53−15:15に十誡の精神が見られるでしょうか。十誡に「偽証してはならない」とありますが、イエスを訴えた人々はこの戒めを破って次から次へと偽りの証人を立てて偽りの証言をさせています。十誡に「殺してはならない」とありますが、彼らは明らかに罪を犯したバラバ・イエスを見逃して罪を知らないメシア・イエスに向かって、「十字架につけろ」と狂い叫びました。

 今日の箇所には胸を打つ言葉がいくつも見られますが、中でも特に、「十字架につけろ」という群衆の叫びは胸を打つどころか、締め付けられます。ここでユダヤ人は「殺してはならない」という戒めを公然と破っています。彼らは誰を殺そうとしているのでしょうか。神の独り子です。彼らは神の独り子に向かって、「十字架につけろ」と叫んでいるのです。恐ろしい罪です。こんなことはまっとうな人間のできることではない、わたしたちは間違ってもこんな叫びを上げることはないと、本当にあなたは言えるでしょうか。

 1970年代後半のある新聞に、40年前、20年前、10年前の順で世界の出来事を紹介する小さな囲み記事がありました。それによると40年前にオランダのハーグでピラトによるイエスの裁判の正当性を問い直す公聴会が開かれたということです。その結果何が分かったかということまでは書かれていませんでしたが、世の中には敬虔なキリスト者もいるものだなと簡単に読みすごしたものです。しかし、40年前のオランダの情勢を考え直した時、ぎくっとしました。その頃のオランダはナチス ドイツに占領されていたのです。この公聴会が反ユダヤ主義を正当化するためのドイツ側の圧力によるものであったかは明らかではありませんが、ドイツが公然と反ユダヤ主義の大合唱をしていたことを思うと全く無関係とは言えないでしょう。ドイツだけではありません。当時、「イエスを十字架につけたユダヤ人」を非難する声は欧米諸国に満ちていました。

 先ほどピラトをかわいそうと言った人に対して、ピラトはわたしたちの代表ですと答えた牧師の話をご紹介しました。同じことがここでも言えます。時代を超えて、対象を替えて、「十字架につけよ」と叫ぶ声はわたしたちの口にも上るのです。対象を替えてと言いますが、集団で正しい者の口を封じ込めて、一方的に糾弾するようなことがあったとしたら、それは結局イエスに向かって、「十字架につけろ」と叫んでいるのも同じです。この福音書はローマのキリスト者のために書かれたと言われていますが、キリスト者であっても、人は自分を正義の側において対象を責めることがあるのです。「十字架につけろ」と叫んだ群衆の中にあなたも、あなたも、そしてこのわたしも、顔を覗かせているかもしれないのです。

 今日はこの後、「礼拝」について学びますが、たとえばわたしたちバプテストは会衆主義を第一とする共同体ですが、これが民主主義というイデオロギーに姿を変えていく時、数の力で神の僕を圧殺することが起こり得るのです。常に聖書に聴きながら神を畏れることを忘れない共同体、キリストの目線で隣人と関わることを第一とする仙川キリスト教会であり続けたいものです。礼拝こそその原点であります。  祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたの御名を心から崇めます。

唯一真の神を信じ、そのことを世界に誇っていたはずのユダヤ人が、神のみ子を手にかけ、全ては自分の一存でことが決まると自負していたローマの総督が権力を正しく行使することができず、妥協の末に主イエス・キリストを十字架につけてしまいました。

しかし、わたしたちには彼らを責める資格がありません。わたしたちも神さまを信じている。イエス・キリストの救いに与っていると告白しながら、何かの弾みで傲慢になり、自分の正義に酔い、「イエスを十字架につけよ」と叫ぶ側に回っていることがあります。またこの世と歩調をあわせるようにイエスを十字架に引き渡す役割を担っている自分をそこに見ます。いつも数の多さが成否を決めるという迷信からわたしたちを解放してください。何が善であって、何が神の御旨であるかをわきまえ知り、霊と真をもって先ずあなたのみ前にへりくだり、礼拝をささげることから全てを始めさせて下さい。 

イエス・キリストの尊い御名によって。アーメン。


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