【主日礼拝メッセ−ジ要約】 2005年4月3日
メッセージ:高橋淑郎牧師
マルコは、イエスがただ旧約聖書の筋書き通りに淡々と死んで甦られた。弟子たちもまた素直にそのことを受け入れた、などときれいごとでこの福音書を閉じたくなかったのです。この物語は、一度「死」という恐るべき現実の前にわたしたちを引っ張って行こうとしています。愛する者が死んでしまった。この先何を見よというのか、どこへ行けというのか、そういう叫びのようなものが弟子たちの心をかき回し、そして揺さぶります。不信仰という高くて硬い壁を打ち破れないでもがき苦しむ弟子たちの生々しい姿を、「信じなかった」という言葉を繰り返して書き記しながら、わたしたちの脳裡に焼き付けるのです。
この福音書は、愛する者の死を前に立ち尽くし、無力感にさいなまれているわたしたち、その悲しみの中で不信仰に陥り、頑なになってしまった全ての心をもっと大きな力でゆすぶる神の祝福の物語なのです。
主イエスはそんな彼らの、そしてわたしたちの不信仰と頑なな心をおとがめになります。私たちの不信仰はイエスによって責められるべきもの、お叱りを受けるべきものなのです。甘えるわけにはいかないのです。「あなたの不信仰は無理もないことだ。よく分かるよ」などとは決して仰らないのです。しかし、またわたしたちの心が頑なだから、不信仰だからここから出て行けとも言われません。不信仰で心頑なな弟子たちに、復活のからだ、栄光の姿となられたご自身を示し、「全世界に行って、すべての造られたものに、福音を宣べ伝えよ」と送り出して下さるのです。
マルコの福音書の価値はここにあります。弟子たちの不信仰を遠慮なく書きました。てらわず、飾らず、ごまかさないで、ありのままに書き記し、そして著者もまた自分をそこに重ね合わせ、多くの復活の証人と共にこの福音を告げ知らせてくれたのです。もはや死は最後の勝利者ではないのです。信じましょう。感謝しましょう。そして祈りましょう。
メッセージ:高橋淑郎牧師
私たちは三年の歳月を重ねながらマルコによる福音書を読んで参りました(2003年5月18日以来)。先週も申し上げましたが、この福音書は8節で終わっていると言っても良いのです。9節以後は括弧の中に入れられていますので、マルコの筆によって書かれたものというよりは、後世誰かが書き加えたものではないかと言われています。そうかもしれません。そうでないかもしれません。もしかしたらマルコ自身が後年、「実は、あの後、書きたかったことはこれだ」と言うように、書き加えたのではないかと考えることもできます。どんな形であれ、わたしたちは9節以降も神から賜った御言と素直に受け止めて、メッセージを聴き取って行きましょう。
恐ろしがっていたマグダラのマリアを促して、主は泣き悲しんでいる人々のところへ彼女を送り込んで、主イエスの復活を告げ知らせましたが、彼らは信じませんでした。12節はルカ24:13−35の話と符合します。この二人とはイエスが復活された日の午後、エルサレムから11Kmほど西にあるエマオ目指して歩いていた弟子たちのことで、復活のイエスがご自身を現わされたというお話です。その二人がこの嬉しい知らせを伝えるために再びその日のうちにエルサレムに戻って弟子たちに証をしましたが、彼らもやはり信じなかったというのです。
こういう記事を読むと、初代の弟子たちも初めから素直な心で復活のメッセージを受け入れることができなかったことがわかります。彼らはどうして信じられなかったのでしょうか。14節をご覧下さい。「11人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。」とあります。頑ななのです。心が硬いのです。彼らはイエス・キリストを知らない人々ではありません。彼らはイエスを憎んではいませんでした。それどころか、ずっと「イエスと一緒にいた人々」なのです。イエスと寝起きを共にし、言わば同じ釜の飯を食べた仲間なのです。彼らはイエスを愛していました。愛するあまり、イエスが十字架の上で無残にも死んでしまわれた悲しみに打ちひしがれて、そこからなかなか立ち上がれないでいたのです。
イエスは、「悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる。」(マタイ5:4)と言われました。しかし、時には悲しみが、人を心かたくなにする場合があります。皆さんもそういう経験をなさったことはないでしょうか。優しい心遣いが、慰めの言葉がかえってうっとうしくもあり、重荷に感じられることはなかったでしょうか。ことに愛する者の死は遺された者の心を打ちのめします。死の現実の前には全てが空しいのです。マリアが告げようが、エマオからも戻ってきた二人が証しようが、イエスは死んでしまった。この一点に弟子たちの心は凍り付いてしまい、あの瞬間から時間が止まってしまったのです。誰が何と言おうと信じられないのです。
ここには他の福音書のように、主は甦られたと素直な書き方で終われない何かがあるのです。マルコは、マルコ独特の側面からイースター物語をわたしたち読者に伝えようとしています。それは何でしょうか。
マルコは、イエスがただ旧約聖書の筋書き通りに淡々と死んで甦られた。弟子たちもまた素直にそのことを受け入れた、などときれいごとでこの福音書を閉じたくなかったのです。この物語は、一度「死」という恐るべき現実の前にわたしたちを引っ張って行こうとしています。愛する者が死んでしまった。この先何を見よというのか、どこへ行けというのか。そういう叫びのようなものが弟子たちの心をかき回し、そして揺さぶります。不信仰という高くて硬い壁を打ち破れないでもがき苦しむ弟子たちの生々しい姿を、「信じなかった」という言葉を繰り返して書き記しながら、わたしたちの脳裡に焼き付けるのです。
信じなかった人々は他にもいます。最初に「復活の証人」として立てられたマグダラ出身のマリアについて、マルコは敢えて彼女の過去を暴きます。彼女は最初から理想的な弟子ではなかったのです。七つの悪霊に心が縛り付けられていました。ユダヤ人の考えでは七は良くも悪くも完全数です。彼女の過去は完全に悪霊の虜になっていました。彼女を取り巻く世間は彼女を扱いかねて、避けて通るのが精一杯だったでしょう。しかし、イエスだけは彼女に近づき、彼女を正面から受け止めて、彼女を苦しめていたあらゆる悪霊から解放してくださいました。それだけに彼女のイエスに対する感謝と愛は半端ではなかったのです。彼女はイエスが十字架につけられたときもイエスの足元にいました。墓にもついてゆき、葬られる間じっと見つめていました。三日目の朝、誰よりも早くイエスのなきがらに香油を注ごうとして墓にやってきました。だからイエスの甦りの告知を誰よりも先に受けることができたのです。しかし、彼女の心も当初はまだ死の力を前にして勝利するには至っていませんでした。
またエマオ途上の弟子たちも主への愛では誰にも負けない自信があったことでしょう。しかし、彼らもまた死の支配から自由ではありませんでした。そういう意味ではここに紹介されている誰一人、最初から模範的な信仰の人々はいなかったのです。
この福音書は、愛する者の死を前に立ち尽くし、無力感にさいなまれているわたしたち、その悲しみの中で不信仰に陥り、頑なになってしまった全ての心をもっと大きな力でゆすぶる神の祝福の物語なのです。
主イエスはそんな彼らの、そしてわたしたちの不信仰と頑なな心をおとがめになります。私たちの不信仰はイエスによって責められるべきもの、お叱りを受けるべきものなのです。甘えるわけにはいかないのです。「あなたの不信仰は無理もないことだ。よく分かるよ」などとは決して仰らないのです。しかし、またわたしたちの心が頑なだから、不信仰だからここから出て行けとも言われません。不信仰で心頑なな弟子たちに、復活のからだ、栄光の姿となられたご自身を示し、「全世界に行って、すべての造られたものに、福音を宣べ伝えよ」と送り出して下さるのです。
マルコの福音書の価値はここにあります。弟子たちの不信仰を遠慮なく書きました。てらわず、飾らず、ごまかさないで、ありのままに書き記し、そして著者もまたかつて不信仰であった自分をそこに重ね合わせて、多くの復活の証人と共にこの福音を告げ知らせてくれたのです。もはや死は最後の勝利者ではないのです。
信じましょう。 感謝しましょう。 そして祈りましょう。
天の父なる神さま、あなたの御名を心から崇めます。
御言を感謝します。私たちにとってマルコの福音書がどんなに大切なものであるかを今朝、改めて教えられました。あなたはこの福音書を通してわたしたちの頑なな心、不信仰を責めておられるのです。死は最後の勝利者であるという迷信を克服できないでいるわたしたちに、あなたの独り子イエスは復活の事実、栄光のからだを弟子たちにお示しになり、この人々が証して伝えてくれた福音書を初め、新約聖書全体を通して、信じない者にならないで信じる者になりなさいと愛をもってお叱り下さっているのです。主よ、わたしたちは今あなたこそわたしたちの救い主、死の力を打ち破ってくださった永遠の命の主である神と信じます。感謝します。
わたしたちの救い主イエス・キリストの尊い御名によって。アーメン。