【主日礼拝メッセ−ジ要約】 2005年4月24日
旧約聖書『ダニエル書』(全12章)を毎月1回1章づつ取り上げていきます。
1.時代背景−紀元前(BC)年:
1 イスラエルの歴史は、神のアブラハムへの約束から始まり、紀元前1445年、モーセの指導の下エジプトの地から解放されます。その後、民はヨシュアの指導の下、カナンの地に入ります。その後、士師時代を経て、紀元前1043年にサウルが王になり、国家は、繁栄を誇ります。しかし民の不従順のために南北に分裂します。南王国は、強国バビロンの支配を許し、民は捕虜となり、バビロンに連れて行かれます。ダニエルは、南王国出身でバビロンに連れて行かれた若き預言者です。異国の地で、神様の言葉を預かったダニエルの預言が書かれているのが『ダニエル書』です。
2.まず「決心」ありき−。
バビロンのネブカドネツァル王は、イスラエル人の中から、宮廷に仕える少年を選び、宮廷の肉類と酒を毎日彼らに与え、自分に仕えさせるように仕向けます。この中にダニエルがいます。ダニエルは宮廷の肉類と酒で自分を汚すまいと決心し、自分を汚すようなことはさせないでほしいと侍従長に願い出て、聞き入れられます。宮廷の肉類と酒は、律法で禁じられた物と考えられます。キリスト者になると何か食べられない物があるということはありません。重要なのは、神様の御言葉を守り、妥協しないとダニエルが「決心」し、神様が守って下さったということです。神を第一とする「決心」が重要な第一歩です。
3.決意を支えて下さる主イエス−。
神を第一とする「決意」が揺らぐのも人間の現実の姿です。弱さを知りつつ、困難に打ち勝ち、復活された主イエスが、私達の決意を支えて下さるのです。
「勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33)
旧約聖書『ダニエル書』(全12章)を毎月1回1章づつ取り上げていきます。
1.時代背景−紀元前(BC)年:
イスラエルの歴史は、神のアブラハムへの約束から始まります。
そして、紀元前1445年、モーセの指導の下エジプトの地から解放されます。
民はヨシュアの指導の下、カナンの地に入ります。その後、師士時代を経て、紀元前1043年にサウルが王になり、国家は、繁栄を誇ります。
どこの国でもそうですが、繁栄すると自分たちが神となり、民は、律法で禁じれらている偶像礼拝に陥り、結局、イスラエルは南北に分裂します。
南王国は、強国バビロンの支配を許し、民は捕虜となり、バビロンに連れて行かれます。
ダニエルは、南王国出身でバビロンに連れて行かれた若き預言者です。異国の地で、神様の言葉を預かったダニエルの預言が書かれているのが『ダニエル書』です。
そのような背景を理解した上で、ダニエル書を読んできたいと思います。
また、今日の聖書箇所から、私達は、
(1)信仰生活には、信仰生活を守っていくという私達の決心がスタート地点であること。(2)信仰の決断を助けてくださる神様。
(3)信仰生活を邪魔するあらゆる誘惑に勝利された主イエスについて、御言葉に聞いてきたいと思います。
時代背景をおおまかに捕らえた上で、さっそくダニエル書1:1から読んでいきたいと思います。
1.バビロン王ネブカドネツァルの支配戦略
- 1:ユダの王ヨヤキムが即位して三年目のことであった。バビロンの王ネブカドネツァルが攻めて来て、エルサレムを包囲した。
- 2:主は、ユダの王ヨヤキムと、エルサレム神殿の祭具の一部を彼の手中に落とされた。ネブカドネツァルはそれらをシンアルに引いて行き、祭具類は自分の神々の宝物倉に納めた。
→ 南ユダ王国は、呆気なく、バビロンの王ネブカドネツァルによって支配されます。
次に、支配者バビロン王ネブカドネツァルが、どのようにイスラエルの人々を支配していったのかが書かれてあります。
ネブカドネツァルという人物が、ダニエルをはじめ、イスラエルの人々を巧妙に支配していくかを読む取ることができます。
- 3:さて、ネブカドネツァル王は侍従長アシュペナズに命じて、イスラエル人の王族と貴族の中から、
- 4:体に難点がなく、容姿が美しく、何事にも才能と知恵があり、知識と理解力に富み、
- 宮廷に仕える能力のある少年を何人か連れて来させ、カルデア人の言葉と文書を学ばせた。
- 5:王は、宮廷の肉類と酒を毎日彼らに与えるように定め、三年間養成してから自分に仕えさせることにした。
- 6:この少年たちの中に、ユダ族出身のダニエル、ハナンヤ、ミシャエル、アザルヤの四人がいた。
- 7:侍従長は彼らの名前を変えて、ダニエルをベルテシャツァル、ハナンヤをシャドラク、ミシャエルをメシャク、アザルヤをアベド・ネゴと呼んだ。
ネブカドネツァルの行った巧妙な支配の方法を整理したいと思います。
a) 4:体に難点がなく、容姿が美しく、何事にも才能と知恵があり、知識と理解力に富み、宮廷に仕える能力のある少年を何人か連れて来させ、カルデア人の言葉と文書を学ばせた。
→カルデア人とは、バビロンの国民のことで、つまり、バビロンの言葉と文書を学ばせた。
b) 6:この少年たちの中に、ユダ族出身のダニエル、ハナンヤ、ミシャエル、アザルヤの四人がいた。
7:侍従長は彼らの名前を変えて、ダニエルをベルテシャツァル、ハナンヤをシャドラク、ミシャエルをメシャク、アザルヤをアベド・ネゴと呼んだ。
→バビロンの言葉と文書を学ばせるだけでなく、ダニエルをはじめ4人の少年の名前を変更させます。
日本が、かつて朝鮮半島を支配した時も、同じ方法が取られました。
韓国・朝鮮の人々に日本語教育を強制し、名前も日本名に変更させたのです。
昨今、歴史教科書が問題になっていますが、日本がそのようなことをしたことすら教えられていないことにアジアの人々が怒るのも当然だと思います。
c) そして、ネブカドネツァル王がもっとも巧妙だと思える作戦が、「5節」です。
5:王は、宮廷の肉類と酒を毎日彼らに与えるように定め、三年間養成してから自分に仕えさせることにした。
→つまり、3年間おいしい食事と酒を与えて、彼らを支配しようとしたのです。
もし、私が、ダニエルの立場であったらどうだろうかと考えました。
毎日3年間、おいしい食事と酒が朝・昼・晩と出されたら。
ましてや、ダニエル達は、16−17歳の食べ盛りの少年達です。
私なら、情けないのですが、いとも簡単に「いやー、バビロン最高!」「こんな捕虜生活なら、大歓迎!」「南ユダ王国なんか戻りたくない」「ネブカドネツァル王、万歳!」となっていると自信を持って言えます。
2.ダニエルの対応
しかし、ダニエルはどうしたでしょうか。
8:ダニエルは宮廷の肉類と酒で自分を汚すまいと決心し、自分を汚すようなことはさせないでほしいと侍従長に願い出た。
バビロンの宮廷で出された肉類は、イスラエルの律法では禁じられていた物であったものであることが分かります。
イスラエルの律法の食物規定は、申命記14:3以降にあります。
- 申命記14:3−8
- 3:すべていとうべきものは食べてはならない。
- 4:食べてよい動物は次のとおりである。牛、羊、山羊、
- 5:雄鹿、かもしか、子鹿、野山羊、羚羊、大かもしか、ガゼル。
- 6:その他ひづめが分かれ、完全に二つに割れており、しかも反すうする動物は食べることができる。
- 7:ただし、反すうするだけか、あるいは、ひづめが分かれただけの動物は食べてはならない。らくだ、野兎、岩狸。これらは反すうするが、ひづめが分かれていないから汚れたものである。
- 8:いのしし。これはひづめが分かれているが、反すうしないから汚れたものである。これらの動物の肉を食べてはならない。死骸に触れてはならない。
このように細かい食物規定が、今のユダヤ教にも引き継がれているのです。
一度、食物規定を詳しく読んだ時に、気づいたことがあります。
それは、「反すうしない(よく噛まない)動物は食べてはいけない」ということです。
豚などは、反すうしないでそのままガツガツと食べるので、よく消化されずに、からだに病原菌がたまりやすい傾向があります。
一方、牛など、何度も反すうする動物は、十分な消化によって病原菌がたまりにくい傾向があります。
ですから、律法は反すうする動物を食べてもいいと規定している。一つの知恵です。
昨今は、BSE問題で牛が危険ですが、これは肉骨粉など牛のえさが牛自身であることに由来するからです。同種の動物が同種の動物を食べることは、ちょうど人間が人間の肉を食べると似ており、危険であることは、私達は本能的に気づくべきです。
それでは、キリスト者になったら、肉類は食べていけなということはありません。
新約の時代に生きる私達に、食べてならない物は特に規定はありません。
- マタイ18:17−20
- 17:すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。
- 18:しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。
- 19:悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。
- 20:これが人を汚す。しかし、手を洗わずに食事をしても、そのことは人を汚すものではない。」
汚れの原因は、動物の肉そのものではなく、私達の腹の中−心−にあるものが自分や隣人を汚していると、主イエスは語るのです。
さて、律法で禁止された肉や酒類が出されたダニエルはどうしたでしょうか。
8:ダニエルは宮廷の肉類と酒で自分を汚すまいと決心し、自分を汚すようなことはさせないでほしいと侍従長に願い出た。
→ネブカドネツァル王の侍従長に律法で禁じられた肉類を食べないことを伝えます。
9:神の御計らいによって、侍従長はダニエルに好意を示し、親切にした。
→侍従長は、理解を示しつつ、次のような心配をします。
10:侍従長はダニエルに言った。「わたしは王様が恐ろしい。王様御自身がお前たちの食べ物と飲み物をお定めになったのだから。同じ年ごろの少年に比べてお前たちの顔色が悪くなったら、お前たちのためにわたしの首が危うくなるではないか。」
→しかし、ダニエルは次のように語ります。
- 11:ダニエルは、侍従長が自分たち四人の世話係に定めた人に言った。
- 12:「どうかわたしたちを十日間試してください。その間、食べる物は野菜だけ、飲む物は水だけにさせてください。
- 13:その後、わたしたちの顔色と、宮廷の肉類をいただいた少年の顔色をよくお比べになり、その上でお考えどおりにしてください。」
- 14:世話係はこの願いを聞き入れ、十日間彼らを試した。
→そして、どうなったか。
- 15:十日たってみると、彼らの顔色と健康は宮廷の食べ物を受けているどの少年よりも良かった。
- 16:それ以来、世話係は彼らに支給される肉類と酒を除いて、野菜だけ与えることにした。
- 17:この四人の少年は、知識と才能を神から恵まれ、文書や知恵についてもすべて優れていて、特にダニエルはどのような幻も夢も解くことができた。
ダニエルは、律法で禁じられた肉や酒類を食べずに済みました。
また、このことを通して周囲の理解と協力、そして尊敬を得ることもできたのです。
3.自分の弱さ・強みを知っていたダニエル−
16:それ以来、世話係は彼らに支給される肉類と酒を除いて、野菜だけ与えることにした。
→ダニエルが、律法で禁じられた肉や酒類を食べずに野菜だけで生きていけるようになりました。(ベジタリアンでなければならないということではない)
17:この四人の少年は、知識と才能を神から恵まれ、文書や知恵についてもすべて優れていて、特にダニエルはどのような幻も夢も解くことができた。
→もし、ダニエルが、妥協して、神様からの命令に背いたらどうだったでしょうか。
彼の優れた知恵や才能、幻や夢も解く力は失われたと考えられます。
<事例> よく、クリスチャンになるとお酒やタバコは飲めなくなると誤解している人が多くいます。正確には、お酒やタバコが不要になってくるのです。
なぜなら、聖書を読み、祈る生活はお酒やタバコでは得られないすばらしいものがあるからです。でも、そんなキリスト者もお酒に酔ってしまえば聖書を読んだり、祈ったりすることができなくなります。神様からの恵みから急速に遠ざかってしまうからです。
お酒に負けてしまう自分を知っている、お酒だけでなく、信仰生活において自分の弱さを知るということは、神様に救いを求める契機ともなるのです。
もし、自分はあらゆる誘惑に、罪に勝利できると奢った瞬間、自分が神になり、堕落が始まるからです。
つまり、成熟したキリスト者とは「自分の弱さと強みをキチンと把握している者」と言えるます。
ダニエルも、自分の弱さ、強み−知恵や才能、幻や夢も解く力−を知っていた人物であったと言えます。
だからこそ、ダニエルは宮廷の肉類と酒で自分を汚すまいと決心し、自分を汚すようなことはさせないでほしいと侍従長に願い出たのです。
2.ダニエルの「決心」
でも、ダニエルは、特別な人。生まれながらに強い意志があったからできたのだと考える人がいます。自分にはとてもダニエルのようにはいかない。
果たしてそうでしょうか。8節をご覧下さい。
8:ダニエルは宮廷の肉類と酒で自分を汚すまいと「決心」し、
(1)まず、ダニエル自身が「決心」したということです。
だれかに言われたからではない。ダニエル本人がが「決心」したということです。
口語訳では「心に思い定めた」訳されていますが、こちらの方が原典に近い訳だと言えます。
心をあるものを−神様−に集中させるという意味が「心に思い定める」にはあります。
自分の「想い」を、「弱さ」を、神一点だけに集中させる「決心」に対して、神様はどう働かれたでしょうか。
9節をご覧下さい。
9:神の御計らいによって、侍従長はダニエルに好意を示し、親切にした。
侍従長は、異邦人で、ダニエル達イスラエル人の信じている神様を知りません。
神様は、異邦人の侍従長に、神様は働きかけられたのです。
私達の神様は、神様を信じない人にも働きかける神なのです。
そして、その後、どうなったでしょうか。
- 9:神の御計らいによって、侍従長はダニエルに好意を示し、親切にした。
- 10:侍従長はダニエルに言った。「わたしは王様が恐ろしい。王様御自身がお前たちの食べ物と飲み物をお定めになったのだから。同じ年ごろの少年に比べてお前たちの顔色が悪くなったら、お前たちのためにわたしの首が危うくなるではないか。」
- 11:ダニエルは、侍従長が自分たち四人の世話係に定めた人に言った。
- 12:「どうかわたしたちを十日間試してください。その間、食べる物は野菜だけ、飲む物は水だけにさせてください。
- 13:その後、わたしたちの顔色と、宮廷の肉類をいただいた少年の顔色をよくお比べになり、その上でお考えどおりにしてください。」
- 14:世話係はこの願いを聞き入れ、十日間彼らを試した。
- 15:十日たってみると、彼らの顔色と健康は宮廷の食べ物を受けているどの少年よりも良かった。
- 16:それ以来、世話係は彼らに支給される肉類と酒を除いて、野菜だけ与えることにした。
状況が、大きく変化しました。
この状況変化を起こしたのは神様でありますが、すべての始まりは、周囲に妥協せず、神様に心に思い定めるというダニエルの「決心」が第一歩にあったからなのです。
神様は、私達の御心にあった「決心」を聞いてくださり、支え、導いて下さるのです。
4.自由意志との関連
(1)だったら、神様は、最初から、人間に強い意志(決心)を与えて下さればよかったのにと考えてしまいます。
それは、ちょうどアダムとイブの物語でも言えます。エデンの園の真ん中に善悪を知る木を植えなければ、人類に罪が入ってこなかったのにと考えるのです。
神様は、善悪を知る木だけでなく、人間に「自由意志」を与えられたということを忘れてはいけません。
神様は、人間を創造されましたが、人間を神のロボットのように創造したのではないのです。
「自由意志」を持ったからこそ、人間が人間らしく生きることができるのです。
ですから、善悪を知る木から食べないという選択の「自由」がアダムとイブにはあったのです。
(2)ダニエルも宮殿で出された肉や酒を飲み食いするという選択肢はありました。
しかし、ダニエルは自分の自由意志を神様に向けるようにしたのです。
そして、神様が侍従長を変え、ダニエル達が野菜だけで元気でいられるように導いて下さったのです。
すべては、ダニエルの「決心」が出発点なのです。
1.私達の決心
私達はだれしも、ダニエルのように神様に祝福された者になりたいと願うのは当然です。
また、それが、ダニエルだけに与えられたものではないことを見てきました。
重要なのは、私達が妥協せず、神を中心とした生活を歩むと「決める」ことです。
決めなければ何も始まらないのです。
なぜなら、私達は、神様のロボットではないからです。
私達に与えられた「自由意志」をどう用いるか決めなければ何も始まらないのです。
<事例>
今朝、私達はこのように礼拝に出席しています。
神様が、私達一人一人を招いて下さっていることは大前提です。
そして、同時に私達が、「礼拝に行く」と決めたから、ここにいるのも事実です。
「礼拝は、信仰生活の要」と考えても、「礼拝に行く」と決めなければ、私達はここにいないのです。
もちろん、病気やお仕事の都合で礼拝に行きたくても、来れらない方もいらっしゃるのも事実です。そういた方も覚えて祈るの私達の重要な役割です。
でも、祈りながらも、私達は、諦めている部分もあるのかも知れないのです。
もし、「礼拝を諦めない」、「妥協しない」と「決心」したらどうなるでしょうか。
祈祷会に参加するのも可能性が思い浮かびます。
では、祈祷会も礼拝も参加できない時はどうするのか。もちろん、仕事も辞められません。そんな八方ふさがりの時、どうするか。
いくら忙しいと言っても、1日24時間の中に、空いた時間があるはずです。
その空いた時間には、牧師に、家庭で、教会で一対一でもいいから、祈り、御言葉を聞く、ミニ礼拝を開いてもらうのはどうでしょうか。
一人一人の魂が神様から離れないように導くのが「真の牧会」だと信じるからです。
2.決心のレベル
「決心」するとは、「心に思い定める」とはこのことなのです。
礼拝を守ることは神様の御心にあっています。
人間的には不可能に見えても、実は人間の側で、諦め、妥協して、わずかな可能性すら求めることを辞めているとしたら……。
私達は、自分ではちゃんと「決めている」ようで、実は無意識に「決めていない」のではないでしょうか。
神様の御心にあった決断を、神様は決して妨げるようなことはなさりません。
なぜなら、神様は、侍従長を支配したように、すべてを支配される方だからです。
- 8:ダニエルは宮廷の肉類と酒で自分を汚すまいと決心し、自分を汚すようなことはさせないでほしいと侍従長に願い出た。
- 9:神の御計らいによって、侍従長はダニエルに好意を示し、親切にした。
すべては、私達ひとりひとりの「決心」が出発点なのです。
そうは、言っても、人間は弱いものです。限界があるのも事実です。
だからこそ、天の父なる神様は主イエス・キリストをこの地上に送って下さったのです。
主イエスは、神でありながら、人間としてもこの地に生まれました。
病める人と共に、弟子と共に、人間の弱さを頭ではなく、まさに体で実感されました。
荒れ野での悪魔からの激しい誘惑にも会いました。
ぎりぎりのところで、誘惑に勝利されました。
十字架に架かるという決断も、苦しみが伴いました。
「父よ、できることなら、この杯(十字架)を取り除いて下さい、しかし、私の願いどおりではなく、御心ままに」(マタイ26:39)
主イエスは、天の父なる神様の御心が実現する方向に自分の心の思いを定められたのです。
主イエスは、天の父なる神様の御心を第一にすると「決心」して、十字架への道を歩まれたのです。
天の父なる神様の御心は、イエスの十字架の死で終わりませんでした。
天の父なる神は、主イエスを復活させたのです。
そして、天の父なる神様の右の座に座らせ、教会の頭となるという新しい「状況」が用意さていたのです。
主イエスも、「十字架に架かる」という「決心」をされたこそ、復活されたと言えます。
私達の弱さを十分にご存じでいながら、誘惑に勝利し、復活され教会の頭となられた主イエスは、次のように語ってくださっています。
- ヨハネによる福音書16:33
- 33:「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。
- あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。
- わたしは既に世に勝っている。」
この御言葉を通して、誘惑に負け、勝手な理由をつけて、決断できない私達のために、主イエスが、次のように語っているようでならないのです。
「あなたは、罪赦された。もはやあなたと天の父なる神との間を隔てるものはない。
なぜなら私が、あなたがたの道となって、あなたと天の父なる神との間は結んだのだから。」
「あなたは、神様の御心がなるようにと決心していい。すべては私が支配しているのだから」
ダニエルのすべての出発点は、妥協せず、神の御心を優先するという「決心」からでした。
私達の出発点も、同じです。
私達には、「決心」を支えて下さる復活の主−イエス・キリストが今も生きています。
私達には「決心」を支えて下さる御言葉−聖書があります。
私達の「決心」を支えて下さる教会の頭はイエス・キリストです。
私達の「決心」を支えて下さる教会の兄弟姉妹の祈りもあります。
私達は、なんと恵まれた者なのでしょうか。
あとは、私達ひとりひとりが妥協しないと「決心」するだけなのです。
「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。
わたしは既に世に勝っている。」 祈ります。
<祈り>
天の父なる神様、あなたは、私達が神の御心からはずれないために、この地上に主イエスを送り、御言葉を与えて下さり、そして主イエスを頭とする教会を与えて下り、その元に兄弟姉妹が集めて下さいました。
主よ、あなたの御心が、何であるかを、私達ひとりひとりに示して下さい。
主よ、あなたの御心が、何であるかを、仙川教会に示して下さい。
そして、あなたの御心が、何であるかがすでに明確であれば、私達が「決断」していく勇気を私達に与えて下さい。
私達は、今、あなたの御心が実現するように「決心」します。
私達は、今、あなたの御心が実現するように第一歩を踏み出します。
あなたが、共にいて下さるように。
この祈りを私達の救い主、イエス・キリストの御名で祈ります。 アーメン。