【主日礼拝メッセ−ジ要約】                            2005年5月1日

                「 またおいでになる 」

使徒言行録1章6−11節

メッセージ:高橋淑郎牧師

 

 御使は一心に天に上げられるイエスを見つめている11人の弟子たちに、「ガリラヤの人たち」と呼びました。「ガリラヤの人」とは、当時エルサレムに住むユダヤ人から見て、「つまらない人」という軽蔑の意味が込められています。御使の呼びかけもまた「使徒たちよ」ではありません。「主の弟子たちよ」でもありません。「ガリラヤの人たち」なのです。なぜなら、11人の中には、「イエスを知らない」と裏切ったペトロ、出世争いに夢中だったヤコブとヨハネ、復活を疑ったトマスなどがいます。彼らは確かに使徒であり、主の弟子です。しかし、一皮向けば、このように皆つまらない、ガリラヤの人なのです。御使は、天に引き上げられて行くイエスを一心に見つめる、その「ガリラヤの人たち」に向かって言います。「あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」と。

 では、この約束にはどのような意味があるのでしょうか。で、主イエスは次のように言われました。「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行く…。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。」(ヨハネ14:2−3)

 人はこの世に生まれてきて、やがて死んで行きます。では、わたしたちの生と死にはどのような意味があるのでしょうか。イエスがわたしたちの罪の為に十字架に死んでくださったこと、甦られたことを知って、その罪を悔い改め、救いを受け入れるためにあります。また新しい命に与るためです。わたしたちが死ぬのは、救い主イエスの御許に引き上げられて、いつまでもこの方と共にいるためなのです。だからわたしたちの生と死には無駄がありません。

   
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【主日礼拝メッセ−ジ】                           2005年5月1日

                「 またおいでになる 」

使徒言行録1章6−11節

メッセージ:高橋淑郎牧師

 

 今日の聖書は、人が聖霊の導きに従う時、その人生を意義深いものにする二つの約束が与えられていると証言しています。

 第一の約束は、「イスラエルの復興」です。弟子たちには一つの夢がありました。それは、「イスラエルの復興」という神の約束の実現です。確かに旧約聖書には、イスラエルの解放が預言されています(エレミヤ書33:1−9。p.1240)。だから、弟子たちはその日がいつかと心待ちしていました。今はローマの支配下にありますが、神はいつの日か再びダビデの時代のように強い国家、諸外国を支配する民族として復興させて下さると固く信じていました。それで、「イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか。」と尋ねたのです。確かにイスラエルは建て直されなければなりません。「イスラエル」とは、「神の選びの民」という意味です。イスラエルの復興は神の選民のためですから、一見理にかなった質問のように聞こえますが、本当は、「イスラエルのために」ではなく、「神の栄光のために」と尋ねるべきでした。それで主イエスは、「父がご自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。」と言われたのです。

 「リバイバル」という言葉があります。「復興」という意味です。教会がこの言葉を用いる時、それは「信仰復興」の意味です。イエスにとってイスラエルの復興は、政治的な復興ではなく、霊的な復興、すなわち弟子たちが聖霊に力づけられて、全ての人に信仰の覚醒を促す神の証人とされることなのです(これこそエレミヤ書33:1−9の真意です)。

8節をご覧下さい。

 「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。 そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリヤの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」

 エルサレム(「神の平和」という意味)は、ユダヤ人にとって信仰と生活の中心です。しかし、主イエスは、「エルサレムばかりでなく」と言われます。この「ばかりでなく」に深い意味があります。キリスト教会は確かにエルサレムから始まりました。しかしクリスチャンにとってこの都はもはや聖地ではありません。エルサレムから始まって、ユダヤとサマリヤの全土、いや地の果てまで教会は拡大し、成長して行かなければなりません。諸教会はエルサレム教団の一教会ではなく、各個教会であるべきです。これが、「エルサレムばかりでなく」と言う意味なのです。

 既にお気づきの通り、使徒言行録は、この1:8の御言に添って編集されています。以下、@からBがその節目となっています。

@6:7です。イエスが約束して下さったように(1:8)、エルサレムに教会が誕生し、祭司を含めた多くの人々がキリストの救いに与り、教会のメンバーとして加えられていく様子が力強く証言されています。

A9:31です。聖霊は弟子たちを用いて、ユダヤとサマリヤ地方を開拓伝道させ、全土に救われる仲間を増し加えて下さいました。こうしてユダヤとサマリヤを、これまでの対立関係から信仰による和解へと導き、一つのイスラエルとして霊的に復興、統一を成し遂げ、教会の基礎が磐石のものになっていく様子が見られます。

B28:30です。10章からは、ペトロ、パウロを中心に、異邦人伝道が盛んになり、福音はやがて地中海諸国を席巻するに至ります。しかし、この書物を見る限り、福音はまだ、「地の果てまで」届いていません。使徒言行録は28章で一応閉じられていますが、これは未完の書です。初代から今日に至るまでキリスト教会の伝道活動は続いています。29章以後は、今も天において記録され続けていることでしょう。

 

 このように、イエスが与える約束の第一は、血肉によるイスラエル、国家的威信の回復ではなく、全ての人が新しいイスラエル、本当に神の民として、聖霊による信仰の回復を実現してくださることなのです。

 

第二は、「イエスは、…またおいでになる」(11節→ヨハネ14:1−3)という、再臨の約束です。

「イエスは彼らが見ているうちに、天に上げられたが、雲に覆われ(口語訳では「迎えられ」)て、彼らの目からは見えなくなった。」と。

 雲は神の臨在と栄光のしるしです。ここにいう「天」とは物理的な意味の天、宇宙の彼方という意味ではありません。主イエス・キリストの姿は確かに弟子たちの目に、上へと引き上げられていくように見えましたが、霊的な永遠の世界へ引き上げられたという意味です。「雲」は時間の中に生きるわたしたちと、永遠の世界とを仕切るカーテンのようなものです。雲に覆われて昇天なさるイエスは、詩編110:1が言うように、父なる神の右の座につかれたのです。それは、死に打ち勝たれたしるしであり、その支配が永遠であることを象徴するものです。

 弟子たちは、昇天されるイエスを見つめていました。「見つめる」という語は、医者が患者の病状を注意深く「診る」という意味の医学用語です。弟子たちはそのように見つめていました。「しっかり見ておこう。この事実の目撃証人として、わたしたちはここに立たされているのだ」と、そんな責任感が伝わってきます。白い衣を着た二人(天の御使)がそばにいることさえ気付かないほどです。

 御使は、見える世界と見えない世界を往来して神の御心を伝えてくれるメッセンジャーですが、昇天されるイエスを見つめている11人の弟子たちに、「ガリラヤの人たち」と呼びました。「ガリラヤの人」とは、当時エルサレムに住むユダヤ人から見て、「つまらない人」という軽蔑の意味が込められています。御使の呼びかけもまた「使徒たちよ」ではありません。「主の弟子たちよ」でもありません。「ガリラヤの人たち」なのです。なぜでしょう。そこには主を裏切ったペトロ、出世争いに夢中だったヤコブとヨハネ、復活を疑ったトマスらがいます。他の弟子たちも皆、主が十字架に引き渡された夜、主を捨てて逃げ去った人たちだからです。

 教会に集められているわたしたちも同じです。主を知らないと裏切る者、復活を疑う者、仲間から注目されたい誘惑に弱い者、素直になれない者など、神に愛されているという一点を除くと、何も残らない「つまらない人」の集団なのです。御使は、その「ガリラヤの人たち」に向かって言います。「あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」と。かつて、主イエスご自身も言われました。「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行く…。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。」(ヨハネ14:2−3で)

 人はこの世に生まれてきて、やがて死んで行きます。では、わたしたちの生と死にはどのような意味があるのでしょうか。イエスがわたしたちの罪の為に十字架に死んで葬られ、三日目に甦られたのは、わたしたちを救い、永遠の御国に引き寄せるという、神の約束の実現に他なりません。だからわたしたちは、自分の罪を認めて悔い改め、救いを受け入れなければなりません。そうすれば新しい命、永遠の命に与るのです。わたしたちが死ぬのは、救い主イエスの御許に引き上げられて、いつまでもこの方と共にいるためなのです。わたしたちの生と死には無駄がありません。だから、わたしたちもこう祈りましょう。

 「主イエスよ、きてください」(ヨハネ黙示録22:20)と。

 

天の父なる神さま、あなたの御名を心から崇めます。

わたしたちは確かにつまらない者の共同体です。しかし恵み深いあなたは今朝、わたしたちの生と死に神のご計画と約束が備わっていることを教えて下さいました。わたしたちがこの世に生を受けたのは、あなたに忠実な信仰の人として頂くためであります。わたしたちが臨終の床に就くとき、主は「またおいでになって」、平安のうちにこの世から、永遠の御国へと引き上げてくださいます。

この後もあなたを一心に見つめる者、世の人に証する者として下さい。救い主イエス・キリストの尊い御名によってお願いします。アーメン。

 


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