【主日礼拝メッセ−ジ要約】 聖霊降臨記念礼拝 2005年5月15日
「聖霊の満たし」
メッセージ:高橋淑郎牧師
今日はペンテコステの出来事(聖霊なる神が地上に降り、キリスト教会を生まれさせて下さった)を記念し、祝う日です。
「突然、激しい風が吹いてくるような音が聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」と書かれています。
まず、弟子たちは聖霊の降臨を響きで感じました。聖霊は静かに降られたのではありません。激しい風のように凄まじい勢いで臨まれました。 次に弟子たちは、炎のような舌をもって、一人一人の上に丁寧にとどまって下さるのをその目に目撃し、体験しました。「風」も「炎のような舌」も、聖霊ご自身を指すのではなく、聖霊降臨に伴うしるしですが、その意味は重要です。旧約聖書の時代から神は折りにふれて風のような勢いで人々に臨まれました。炎は神に仕える者の罪を清め、舌は神の言葉を賜る預言者として立てられたことを意味しているのです。
こうして弟子たちは「霊」、すなわち聖霊が語らせるままに、他の国々の言葉で話し出しました。話の内容は何かというと、11,12節にそれを聞いた人が次のような感想を漏らしています。
「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な御業を語っているのを聞こうとは」と。
「神の偉大な御業」とはイエス・キリストの十字架による贖いの死と復活と御昇天のことです。それによって人類の罪は赦され、清められ、永遠の命を与えられ、神の国への道が開かれたのです。
今やわたしたちはそれを信じるだけで救われるのです。神がこのようにわたしたちを救うすべての段取りをつけてくださったからです。
神は今日あなたにも救いの御手を伸べ、バプテスマへと導いてくださいます。救いの道、永遠の命に至る道はすでに開かれています。あなたが今成すべきことは、お近くの教会に行き、御言に耳を傾け、ただ神の御手にすがり、イエス・キリストを信じて救いを受け入れること、バプテスマを受けること、これだけでよいのです。
メッセージ:高橋淑郎牧師
今朝はペンテコステと言い、聖霊が地上に降り、キリスト教会を生まれさせて下さったことを記念し、祝う日として礼拝をささげています。
主イエス・キリストの使徒であったのに、その戦列から落ちてしまったイスカリオテのユダに代わってマティアという弟子が12人目の使徒の仲間入りをしました。こうして主イエスが約束された聖霊を迎える準備ができたところで、弟子たちはなおも祈りつつその日に備えていました。
ついに約束の日は満ちて、五旬祭の日、聖霊が弟子たちの上に臨まれました。それにしても聖霊はどうして五旬祭の日に降臨されたのでしょうか。偶然だったのでしょうか。そうではありません。聖霊はイエスの死と復活に続いて、その復活から五十日目をあえて選び、この日降臨されたのです。
ユダヤ人にとって初夏の「五旬祭」は、春の「過越の祭り」と秋の「仮庵の祭り」の間に行われるユダヤ三大祭の一つで、この日は敬虔なユダヤ人は、国内に住んでいる人はもちろん、諸国に散らされている人々も、エルサレムの宮に集まって礼拝をささげるのです。過越の祭りに続いて多くの国々から、故郷に帰ってきたユダヤ人が集まっているこの日を選んで聖霊は弟子たちの上に降臨されたのです。
聖霊は目に見えない神ですから、この方が弟子たちの上に降られた状況を説明するのに、この書の著者は弟子たちの体験をもとに、こう書き記しています。
「突然、激しい風が吹いてくるような音が聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」と。
まず、弟子たちは聖霊の降臨を響きで感じました。聖霊は静かに降られたのではありません。激しい風のように凄まじい勢いで臨まれました。 次に弟子たちは、聖霊の降臨を炎のような舌という、同じように激しさを備えながら、しかし一人一人の上に丁寧にとどまって下さるのをその目に目撃しました。「風」も「炎のような舌」も聖霊ご自身を指すのではなく、聖霊降臨に伴ったしるしですが、その意味は重要です。旧約聖書の時代から神は折りにふれて風のような勢いで人々に臨まれました。炎は神に仕える者の罪を清め、舌は神の言葉を賜る預言者として立てられたことを意味しているのです。
さて、聖霊がこのようなしるしを伴って弟子たちの上に降られた事によって、彼らの変化には著しいものがあります。約2ヶ月前、主イエスが復活されたのに、まだ半信半疑でユダヤ人を恐れ、鍵をかけて部屋に閉じこもっていたあの時(ヨハネ20:19)とは全く違って、今では確信に満ちて堂々としています。聖霊に満たされたからです。この聖霊の満たしこそ主イエス・キリストが約束された聖霊によるバプテスマを意味します(1:5)。何度もいうことですが、バプテスマとは、「浸める」という意味です。弟子たちは「悔い改めのバプテスマ」を受けていましたが、この時、「父と子と聖霊の御名による永遠の命に与るバプテスマ」、キリストの証人として派遣されるバプテスマを授かったのです。弟子たちが、この聖霊によるバプテスマを授かったことにより、彼らを通して、また今日まで連綿と続く水のバプテスマ、父と子と聖霊の名によるバプテスマもまた、信仰生活の出発点、福音の使者として遣わされる派遣式という意味を持っているということができます。わたしたちが父と子と聖霊の名によって水に浸められる時、当然のことですが、水はからだに満たされます。同時にわたし自身が聖霊に受け入れられ、聖霊もまたわたしの内に満ちておられることを言うのです。
こうして弟子たちは「霊」、すなわち聖霊が語らせるままに、他の国々の言葉で話し出しました。話の内容は何かというと、11,12節にそれを聞いた人が次のような感想を漏らしています。
「『彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な御業を語っているのを聞こうとは。』人々は皆驚き、とまどい、『いったい、これはどういうことなのか』と互いに言った。」
「神の偉大な御業」とはイエス・キリストの十字架による贖いの死と復活と御昇天のことです。それによって人類の罪は赦され、清められ、永遠の命を与えられ、神の国への道が開かれたのです。今やわたしたちはそれを信じるだけで救われるのです。神がこのようにわたしたちを救うすべての段取りをつけてくださったからです。弟子たちはこの偉大な神の御業を御霊に導かれるまま、居合わせた人々が聞き分けることのできるほかの国々の言葉で告げ知らせました。これを宣教と言います。
彼らは力を受けると、キリストの福音を語りながら家から出て行き、神殿の中庭まで進み出ました。五旬祭を祝うためにエルサレム市内にいた人々はこの物音を聞きつけて集まってきました。かれらの国や地域の名も紹介されています。パルティアはカスピ海南方の山岳地帯にある国です。メディアとはペルシャのことです。エラムはペルシャ湾に注ぐチグリス下流にあり、現在のイラクとイランに接する国。メソポタミアは世界三大文明の中でも最古の町です。カパドキヤ、ポントスとアジア、フリギヤとパンフィリアは小アジアの国々で、今のトルコ共和国の領土です。クレネはエジプトとリビアの間の国。更にローマ、クレタ島、アラビアからも来ています。地中海を囲んでこれほど広範囲の国々から寄留のユダヤ人達、或いはユダヤ教に改宗した人々がエルサレムに来ていました。数えると15の国と地域からこの五旬祭を祝い、神に礼拝をささげるために集められていました。そして彼らはこの日、漏れなく自分たちの住んでいた国の言葉でイエス・キリストの福音を聞くことができたのです。その内3千人の人々はイエスをキリスト、救い主と信じてバプテスマを受けました。使徒パウロが、またそのほかの使徒たちがこれらの国へ出かけていって福音を伝える以前に、既にキリスト者が与えられていた地方が沢山あったことが分かります。教会さえできていたかもしれません。まさに聖霊の働き以外の何ものでもありません。
このように聖霊降臨の出来事によって、聖霊に満たされた弟子たちが、世界中に主イエスの福音を伝え、キリストの教会を形成するために遣わされる力の源となりました。では、聖霊の体験はこの弟子たちだけに与えられたものなのでしょうか。そうではありません。先ほども申し上げましたとおり、初代の弟子たちを通して、その後も連綿と続けられてきた父と子と聖霊の名による水のバプテスマをもって、それに与った全ての人の上にも聖霊は注がれているのです。満たしてくださる方がわたしたちのうちに満ち満ちてくださっているのです。
神は今日あなたにも救いの御手を伸べ、バプテスマへと導いて下さいます。救いの道、永遠の命に至る道はすでに開かれています。あなたが今成すべきことは、近くの教会に行き、礼拝をささげること、御言に耳を傾け、ただ神の御手にすがり、主イエス・キリストを信じて救いを受け入れ、バプテスマを受けること、これだけでよいのです。祈りましょう。
天の父なる神様、あなたの御名を崇め、讃美します。
今も生きて働いておられる聖霊なる神よ、あなたは初代の弟子たちの上に降ってくださったように、今も教会を通してイエスを救い主と信じる者にバプテスマの恵みを体験させ、父と子と聖霊の御名によって、一人一人の上に満ち満ちてくださいます。
どうか主よ、求道中の全ての者にあなたを信じ、救いを受け入れる決断、バプテスマを受けたいとの願いを起こさせてください。
また、今御前にある兄弟姉妹の上に、あなたの救いを、聖霊に満たされた恵みを証する力を注いでください。
主イエス・キリストの御名によってお願い致します。アーメン。