【主日礼拝メッセ−ジ要約】ダニエル書連続講解説教−第3回 2005年6月26日
「我ら、金の像を拝まず 」
1.燃え盛る炉に投げ込まれたダニエルの同志三人
ネブカドネツァル王は大きな金の像を造り、人々にその金の像を拝むように命じます。しかし、ダニエルと一緒に南ユダ王国から連れてこられたシャドラク、メシャク、アベド・ネゴの三人は、断固して金の像を拝みませんでした。
なぜなら、偶像を拝むことは、十戒(出エジプト記20章)で禁じられていた重要な律法だったからです。これに対して、ネブカドネツァル王は激怒し、
三人を衣服を着けたまま縛り、燃え盛る炉に投げ込みます。その時、ネブカドネツァル王は、三人と「もう一人」が、火の中を自由に歩いているのが見ます。しかも何の害も受けていません。特に、「四人目の者」は神の子のような姿をしていました。これに驚いた王は、3人を炉の中から出すように命じます。
2.いろいろな偶像
ところで、私達の周囲には多くの偶像が溢れています。仏像、仏壇も偶像です。また、見ない偶像として、お金、地位、名誉もあります。偶像に心が支配されていることを「偶像礼拝」と言います。どんな偶像も、それが宗教心から来ている、いないに関わらず、人間が必要とした結果、人間の側が造ったものです。私達が生まれる前からいらっしゃる神を無視して、自分に都合のいい神を造ってしまうほど、人間は「自己中心性」という罪を抱えているのです。
3.火の中に自ら入って下さる神の子キリスト
では、偶像ではない「真実の神」とはどんなお方なのでしょうか。先ほど、炉の中に入れられたのは三人でしたが、炉の中には、四人目の者−神の子−が
いました。この四人目の者−神の子−こそキリストです。キリストは、自ら火の中に入って下さり、偶像礼拝の罪と闘い、私達を守って下さる方なのです。偶像自身が、私達の身代わりとなって自ら火の中に入ってくれるでしょうか。
「世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、私たちは知っています。」(コリントの信徒への手紙一8章4節)
「我ら、金の像を拝まず 」
ダニエル書第3章に入ります。
ダニエル書第3章のテーマは「偶像礼拝」です。
ネブカドネツァル王は巨大な金の像を造ります。
王は、その金の像を拝むように人々に命じますが、ダニエルの友人は命令を拒否します。
拒否したダニエルの友人たちは、高温の炉の中に入れられますが、全く無事であった。
私達は、ダニエル書第3章から、
1.「偶像礼拝」とはどういうことなのか。2.なぜ人間は、「生きている神」ではなく「偶像」に頼ってしまうのか。
3.偶像には救いはなく、生ける神だけに救いがあること
について、御言葉に聞いていきたいと思います。
第3章の概観
1.なぜネブカドネツァル王は巨大な金の像を造ったのか。
1:ネブカドネツァル王は一つの金の像を造った。高さは六十アンマ、 幅は六アンマで、これをバビロン州のドラという平野に建てた。
ネブカドネツァル王は、高さは六十アンマ−27メートル−ビル8階から9階の金の像を造りました。
なぜ、ネブカドネツァル王は、このような大きな金の像を造ったのでしょうか。
それは、前の2章37節−38節が契機になっています。
2:37:王様、あなたはすべての王の王です。
天の神はあなたに、国と権威と威力と威光を授け、
2:38:人間も野の獣も空の鳥も、どこに住んでいようとみなあなたの手にゆだね、このすべてを治めさせられました。
すなわち、あなたがその金の頭なのです。
しかし、金の頭の像は、この後、木っ端微塵に破壊されます。
2:34:見ておられると、一つの石が人手によらずに切り出され、その像の鉄と陶土の足を打ち砕きました。
2:35:鉄も陶土も、青銅も銀も金も共に砕け、夏の打穀場のもみ殻のようになり、風に吹き払われ、跡形もなくなりました。
その像を打った石は大きな山となり、全地に広がったのです。
ダニエルは、金の頭の像が呆気なく破壊されると確かに預言しました。
しかし、王様は「あなたがその金の頭です」だけを聞き有頂天になります。
そして、頭だけでなく、全体が金の像を造られせたのです。
私達は、さすがにネブカドネツァル王のように金の像は造らないでしょう。
しかし、預言の言葉、聖書の御言葉を自分の都合よく聞く傾向がないでしょうか。
自分に都合のいい御言葉しか聞かない。
裁きの御言葉は極力避ける。
これを「御言葉のつまみ食い」と言います。
聖書は、聖書全体から読んでいかなければならないのです。
2.金の像を拝むように命令するネブカドネツァル王
次に、ネブカドネツァル王は、自分の造った金の像拝むように命じます。
そして、拝まない者は、燃え盛る炉に投げ込まれると言うのです。
4:伝令は力を込めて叫んだ。「諸国、諸族、諸言語の人々よ、あな たたちに告げる。5:角笛、横笛、六絃琴、竪琴、十三絃琴、風琴などあらゆる楽器による音楽が聞こえた
なら、ネブカドネツァル王の建てられた金の 像の前にひれ伏して拝め。
6:ひれ伏して拝まない者は、直ちに燃え盛る炉に投げ込まれる。」
7:それで、角笛、横笛、六絃琴、竪琴、十三絃琴の音楽が聞こえて くると、諸国、諸族、諸言語の人々は皆ひれ伏し、ネブカドネツァル王の建てた金の像を拝んだ。
何もネブカドネツァル王だけではありません。
時の権力が、偶像を政治的・軍事的に用いるのは歴史の常です。
これと似た状況が、過去に朝鮮半島でありました。
日本は、神社を数多く建て、韓国・朝鮮の人々に拝むように強制したのです。
もちろん、拝まされた人々の中には、キリスト者も多くいました。
出エジプト記20:4〜5で、神は、神以外の偶像を拝むことを禁じています。
偶像礼拝は、精神的にも、極めて屈辱的な苦痛です。
このような歴史があるため、韓国、中国の国民は靖国神社に対して反対をするのです。
3.偶像礼拝を断固拒否するダニエル達
では、ダニエル達はどうしたでしょうか。
今回は、ダニエルといっしょに連れてこられた残り3人(シャドラク、メシャク、アベド・ネゴ)が標的となります。
12:バビロン州には、その行政をお任せになっているユダヤ人シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの三人がおりますが、この人々は御命令を無視して、王様の神に仕えず、
お建てになった金の像を拝もうとしません。」
−偶像礼拝を禁じている南ユダ王国出身の3人にとっては、当然のことです。
13:これを聞いたネブカドネツァル王は怒りに燃え、シャドラク、メシャク、アベド・ネ ゴを連れて来るよう命じ、この三人は王の前に引き出された。14:王は彼らに言った。「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴ、
お前たちがわたしの神に仕えず、わたしの建てた金の像を拝まないというのは本当か。
15:今、角笛、横笛、六絃琴、竪琴、十三絃琴、風琴などあらゆる楽器の音楽が聞こえる と同時にひれ伏し、わたしの建てた金の像を拝むつもりでいるなら、それでよい。
もしも拝まないなら、直ちに燃え盛る炉に投げ込ませる。
お前たちをわたしの手から救い出す神があろうか。」
3人は次のように答えます。
16:シャドラク、メシャク、アベド・ネゴはネブカドネツァル王に答えた。「このお定めにつきまして、お答えする必要はございません。
17:わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救ってくださいます。
18:そうでなくとも、御承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、
お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません。」
19:ネブカドネツァル王はシャドラク、メシャク、アベド・ネゴに対して血相を変えて
怒り、炉をいつもの七倍も熱く燃やすように命じた。
私達も同じ状況追いつめられても、ダニエル達のように答えるでしょうか。
18:そうでなくとも、御承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません。」
私なら、きっと妥協して事をやり過ごすでしょう。
3人は、燃えさかる炉の中に放り込まれます。
20:そして兵士の中でも特に強い者に命じて、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴを縛り上げ、燃え盛る炉に投げ込ませた。
21:彼らは上着、下着、帽子、その他の衣服を着けたまま縛られ、
燃え盛る炉に投げ込まれた。
22:王の命令は厳しく、炉は激しく燃え上がっていたので、
噴き出る炎はシャドラク、メシャク、アベド・ネゴを引いて行った男たちをさえ焼き 殺した。
23:シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの三人は縛られたまま燃え盛る炉の中に落ち込 んで行った。
これで終わりかと思いきや、ところが、ところがです。
24:間もなく王は驚きの色を見せ、急に立ち上がり、側近たちに尋ねた。「あの三人の男は、縛ったまま炉に投げ込んだはずではなかったか。」
彼らは答えた。「王様、そのとおりでございます。」
25:王は言った。「だが、わたしには四人の者が火の中を自由に歩いているのが見える。
そして何の害も受けていない。
それに四人目の者は神の子のような姿をしている。」
なんと彼らは、燃えさかる炉の中を歩いているではありませんか。
そして、ネブカドネツァル王は次のような行動を取ります。
26:ネブカドネツァル王は燃え盛る炉の口に近づいて呼びかけた。「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴ、いと高き神に仕える人々よ、出て来なさい。」
すると、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴは炉の中から出て来た。
27:総督、執政官、地方長官、王の側近たちは集まって三人を調べたが、
火はその体を損なわず、髪の毛も焦げてはおらず、
上着も元のままで火のにおいすらなかった。
なんと、彼らは燃えさかる炉の中から、何事もなかったかのごとく生還したのです。
4.ダニエル達の神を讃えるネブカドネツァル王
28:ネブカドネツァル王は言った。「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの神をたたえよ。彼らは王の命令に背き、体を犠牲にしても自分の神に依り頼み、自分の神以外には いかなる神にも仕えず、拝もうともしなかったので、この僕たちを、神は御使いを送って救われた。29:わたしは命令する。いかなる国、民族、言語に属する者も、
シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの神をののしる者があれば、
その体は八つ裂きにされ、その家は破壊される。
まことに人間をこのように救うことのできる神はほかにはない。」
ネブカドネツァル王は、ダニエル達の「生ける神」を讃えて第3章は終わります。
偶像に頼る人間像
1.いろいろな偶像
第3章は、金の像に代表される「偶像」および「偶像礼拝」がテーマです。
(1)私達の周りには偶像−目に見える偶像−が多くあります。
仏像、仏壇、お地蔵など、日本は八百万の神で溢れています。
(2)目で見ることのできない「偶像」もあります。
お金、地位、名誉なども偶像といえます。
なぜなら、偶像とは神様ではなく、人間が造ったものだからです。
お金、地位、名誉を求め、崇拝し、支配されている人がなんと多いことでしょうか。
確かにお金は必要ですが、人間が作ったものに過ぎないお金に支配される必要はないはずです。
(3)人間関係においても、あるべき姿を押しつけることも「偶像化」と言えるでしょう。
戦前の天皇も、完全に神格化、偶像化されていました。
戦後、人間宣言をされましたが、一番ホッとしたのは、ご本人ではないでしょうか。
人間関係において、「あるべき姿」を押しつけることは、相手にとっては迷惑であり、苦痛でもあるのです。
結婚相手に対してもそうです。子供に対してもそうです。
夫や妻、子供を偶像化まではしなくても、あるべき姿を押しつけてしまう。
人間関係の悩みのほとんどが、大なり小なり相手を偶像化することによって起こると言っても過言ではありません。
本当は、自分が変わらないと相手は変わらないのです。
このように考えますと、私達の周囲には偶像が溢れているだけでなく、私達自身の中に周囲の物や人を偶像化してしまう性質があることが分かります。
2.キリスト者であれば安心か。
それでは、キリスト者になれば、偶像礼拝をしなくてもすむとは限りません。
私達は、偶像でなく、「生ける神」を信じると表明して信仰生活を送っています。
しかし、現実の信仰生活は山あり谷ありです。
特に「愛の神」という言葉が一人歩きして、自分に都合のいい神を造り上げてしまう傾向があります。
辛いことがあったり、自分の思い通りいかな時「愛の神なのに…」と呟いてしまう。
私達は、自分がいつの間にか、生ける神を自分の都合のいい神にしてはいないか、自己点検する必要があるのです。
3.なぜ人間は偶像に頼るのか。
それでは、私達は、意識するしないに関わらず、なぜ偶像に頼る傾向があるのでしょうか。
私は、大きく2つあると考えます。
(1)偶像は分かり易いということです。
別な言い方をすれば、「自分で調べなくて良い」「楽である」ということです。
「これが神様です」と言われ、金ぴかの像を見せられれば、ありがたい気分になります。
「神がどんな方か」をわざわざ知る必要がありません。
金の像を見れば分かった気になるからです。
「知る」ということは「愛する」といことにつながります。
「アダムは妻エバを知った」(創世記4:1)
知るということなしに、愛すことはできません。知るためには、エネルギーと時間がかかるのです。
もちろん、聖書に書いてある神を知ったからと神のことが分かり、神を愛しているということにはなりません。
聖書を通して分かることは、神様が偉大な方であるということです。ですから、偶像とは次元が違うのです。
(2)偶像は自分の都合で変更が可能だということです。
日本は八百万の神で溢れています。縁結びの神様がいるかと思えば、縁切りの神様もいる。
でも、よく考えて下さい。
これらの神が、一見すると主導権を握っているかに見えます。
しかし、実は、人間の側が主導権を握っているのです。
希望する学校に入学できれば、学問の神様は不要になります。
このように偶像は、自分の都合で利用(採用)したり、捨てたりと変更が自由自在です。
4.主導権を握っていたがる人間
では、なぜ、人間は常に主導権を握っていたがるのでしょうか。
それは、自分に役に立つものは利用し、役に立たないものは切り捨てる。
自分が常に世界の中心でありたい、自分が神でありたいという「自己中心性」の罪
−原罪−があるからです。
私達は「自己を絶対化」するからこそ、偶像を造り上げてしまうのです。
私達は「自己を絶対化」するからこそ、人間関係もおかしくなってしまうのです。
私達は「自己を絶対化」するからこそ、神も隣人も愛せなくなってしまうのです。
偶像を信じるか、それとも生ける神を信じるか
さて、ダニエル書3章24節を見て下さい。
24:間もなく王は驚きの色を見せ、急に立ち上がり、側近たちに尋ねた。「あの三人の男は、縛ったまま炉に投げ込んだはずではなかったか。」
彼らは答えた。「王様、そのとおりでございます。」
25:王は言った。「だが、わたしには四人の者が火の中を自由に歩いているのが見える。
そして何の害も受けていない。
それに四人目の者は神の子のような姿をしている。」
すでに、お気づきかと思いますが、燃え盛る炉に入れられたのは3人です。
しかし、王は炉の中にもう1人−神の子−がいるのが見えたのです。
まさに、この神の子こそ、「生ける神の子キリスト」です。
私は、炉の中に入れられた3人が無事であったことは奇跡だと考えます。
しかし、もっと重要なことは、キリストが自らが燃えさかる炉の中に入って下さったということです。
偶像が自ら火の中に入ってくれるでしょうか。
偶像が自ら火の中に入り、苦難を共に担ってくれるでしょうか。
偶像は、所詮、燃え尽きてしまうだけです。
偶像が、私達の身代わりになってくれるでしょうか。
偶像自らが、進んで積極的に、私達の罪の身代わりになってくれるでしょうか。
生ける神の子キリストは「私が死ぬから、あなたは生きなさい」と天の父が与えた燃え盛る炉である−十字架−に自らあえて架かって下さったのです。
偶像は、「復活」するでしょうか。
偶像は、私達に「永遠の命」を与えてくれるでしょうか。
私は、このダニエル書3章を通して
ヨハネによる福音書3:16の意味を改めて深く味わったのです。
16:神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
17:神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって
世が救われるためである。
−「そうだ、そうだこの御言葉の通りだ」と改めて信じることができたのです。
私達は、身代わりとなって十字架に架かるほど、激しく愛してくれる「生ける神」を信じていきたい。
偶像ではなく、「生ける神の子キリスト」を信じていきたい。
朽ちていく偶像ではなく、「永遠に生ける神の子キリスト」を信じていきたい。
そして、私達は、パウロと同じことを確信を持って語ることができるのです。
「世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています。」(コリントの信徒への手紙一8:4)
祈ります。
<祈り>
御在天の父なる神様、あなたは偶像ではなく生ける神であります。
しかし、私達人間は、愚かにも、偶像を神として、安心してしまいます。
あなたが偶像ではなく、まさに生ける神であることを知らせるがためにあなたは、
この地上に生ける神の子キリストを送って下さいました。
偶像は、私達の身代わりにはなってはくれません。
しかし、生ける神の子キリストは、身代わりとなって十字架に死んで下さいました。
偶像は、決して復活しません。
しかし、生ける神の子キリストは、確かに復活して、教会の頭として今も生きて下さっています。
偶像は、決して永遠の命を与えてくれません。
しかし、生ける神の子キリストは、信じることによって永遠の命を与えて下さります。
主よ、私達が、偶像に惑わされることなく、あなだけを見上げながら生きていくとができるように私達の信仰を強めて下さい。
この祈りを、生ける神の子−イエス・キリスト−の御名でお祈りします。 アーメン。