【主日礼拝メッセ−ジ要約】                              2005年8月7日

  語らずにいられない 」
使徒行伝4章13〜22節
 
メッセージ:高橋淑郎牧師

 

 ペトロとヨハネを法廷に引き出した人たちは、サンヒドリン議会のメンバーです。尋問の内容を原文に従って読むと、「何の権威によって、まただれの名によってああいうことをしたのか。お前たちが」(7節)となっていて、「お前たち」という呼びかけが最後の方に書かれています。「お前たちのような者が」と軽蔑していることが分かります。しかし、ペトロは聖霊に満たされて、「この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。」と大胆に語りました。二人を無学な普通の人と思っていた議会のお歴々は驚きを隠しません。ペトロの言葉を聴いていると、イエスを十字架につけた議会のメンバーこそ、本当は神に裁かれなければならない者であると言っているのです。彼らは反論したくてもできません。現に癒された人が目の前に立っているからです。事実を目の前にしてそれを否定することは誰にもできません。しかし、残念なことに議会のメンバーは、自分の罪を悔い改めようとはしません。指導的な立場にある人の上にこそ、神の裁きは厳しく臨むというのは、真にその通りです。立場や地位に拘ると、なかなか素直になれないからです。

 ペトロとヨハネを一時退場させた後、彼らはサンヒドリン議会の名によって、神の御心に背く命令をペトロたちに下しました。「今後あの名によって語ることは相成らぬ」という脅し文句です。あの名とはもちろんイエス・キリストの名のことです。しかし、ペトロとヨハネは直ちに、「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」と言い放ち、勇躍議会を去って行きます。

 

 

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【主日礼拝メッセ−ジ】                               2005年8月7日

  語らずにいられない 」
使徒行伝4章13〜22節
 
メッセージ:高橋淑郎牧師
 

 ペトロとヨハネを法廷に引き出した人たちは、サンヒドリン議会のメンバーです。尋問の内容である7節を原文に従って読むと、「何の権威によって、まただれの名によってああいうことをしたのか。お前たちが」となっていて、「お前たち」という呼びかけが最後の方に書かれているのです。少し乱暴な言い方をすれば、「お前たちのような者が」と軽蔑していることが分かります。しかし、ペトロは聖霊に満たされて、「この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。」と大胆に語りました。二人を無学な普通の人と思っていた議会のお歴々は驚きを隠しません。ペトロの言葉を聴いていると、イエスを十字架につけた議会のメンバーこそ、本当は神に裁かれなければならない者であると言っているのです。彼らは面目を失いましたが、反論したくてもできません。現に癒された人が目の前に立っているからです。事実を目の前にしてそれを否定することは誰にもできません。しかし、残念なことに議会のメンバーは、あのペンテコステの出来事の日(2:41)、ペトロのメッセージを聴いた3千人のように、自分の罪を認めて悔い改めようとはしません。指導的な立場にある人の上にこそ、神の裁きは厳しく臨むというのは、真にその通りです。立場や地位にこだわると、なかなか素直になれないからです。ペトロとヨハネに対して、「お前たちの如きが」という軽蔑の心を捨てることができないのです。そして二人を一時退場させて、今後の対策を協議しました。神の前に自分たちがどうすべきかを考える代わりに、二人の処分をどうすべきかと、全く筋違いな議論に時間を費やし、何の解決にもならない結論を引き出しました。聖職者も、いや、聖職者だからこそ犯す罪とはこのことです。

 彼らはサンヒドリン議会の名によって、神の御心に背く命令をペトロたちに下しました。「今後あの名によって語ることは相成らぬ」という脅し文句です。あの名とはもちろんイエス・キリストの名のことです。しかし、ペトロとヨハネは直ちに反論して、「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」と言い放ち、勇躍議会を去って行きます。この言葉は聖書を読むわたしたちにとって溜飲が下がります。

 話はそれますが、その昔、福田赳夫首相が二期目の総裁選挙に臨み、「天の声」を期待していました。ところが、予想に反して大平正芳さんが総裁の座を射止めました。その時福田さんは、「天の声にも、時には変な声がある」と言い残して総理・総裁の座を降りたという逸話があります。最近では、この「天の声」は、官僚から天下った日本道路公団の上層部からも聞こえてきました。関連各業者はこれを最終的、絶対的なものと聴き従い、その結果由々しい談合組織を形成していったのです。

 このように、わたしたち人間のレベルでいう「神の声」とか、「天の声」と呼ばれるものは、逆らうことのできない絶対的権力者の声と理解します。家庭でいえば両親、また国家で言えば、政治家や官僚、教会で言えば、牧師や執事が神の声、天の声を代弁しようとすることがあります。問題は彼らが常に正しい言葉を発しているか、間違った命令や指導をしていないかという点です。指導者自身はそのつもりでしょうが、客観的にそうでない場合もあります。そうした命令に盲従することは簡単です。しかしそれは取り返しのつかない結果を招くことがあるのです。

 ですから、正しく神の声を聴き取ったペトロとヨハネは神の御心に従うために議会の命令を断固拒否しました。議会にとって、これは侮辱以外の何ものでもありません。当時神を畏れるユダヤ人の間では、サンヒドリンはユダヤ教最高議会でした。そこで決定したことは神の声を代弁するものです。民衆は、議会の下す最終決断に従うことが、神に服従することであり、「神の前に正しい」ことだと信じていました。それが当然とされていた時代に、ペトロとヨハネは、あえてこの決議に真っ向から反論します。「何が神の前に正しいことなのか、よく考えてほしい」と。大胆で勇気ある発言です。同時に命がけの発言でした。この瞬間から彼らは、とてつもなく大きな権力に逆らったばかりか、議会の声を神の声と信じている素朴な民衆さえも敵に回す道を選んでしまったのです。

 来週と9月4日、わたしたちの教会は「平和を覚える礼拝」をささげることになっています。旧約時代の預言者たちは、「平和を求めてこれを追え」と言い、イエス・キリストは、「まことに幸いな人生は平和を造り出す仕事に携わることだ」と言われました。平和とは何かを考える時であり、イエスが言われた、「平和を造り出す仕事とは何か」を自分のこととして祈り求める時であります。来週わたしの手元にあるささやかな資料を分級室であるフェロシップホールに展示しておきますので、分級室を益々狭くして申し訳ありませんが、何かの参考にして頂ければと思います。わたしなりに何年もの間、こつこつと集めたもの、見たこと、聴いたことを皆さんにお伝えしないではおれないからです。

 話は横道に逸れましたが、ペトロたちがサンヒドリンの命令にもまさって、神からの生きた証として見たこと、聴いたこととはいったい何でしょうか。イエス・キリストの福音、すなわちイエスの死と復活の事実でした。この世の政治、文化、教育など、あらゆる分野における人生の設計士、建築士が不要なものとして捨てたイエス・キリストを社会の真ん中に据えること、しかも最も大事な要石であることを人々に知らしめ、啓発することであります。

 しかし、いつの時代もこの世の巨大な組織とその権力者は全力を挙げて、イエス・キリストの福音を妨げようとすることでしょう。こうした状況の中で、何が神の御心か、何が神の前に正しいことかを正しく聴き取ることのできる者は誰でしょうか。そしてわたしたちが見たこと、聴いたことを大胆に語る権威は誰によって与えられているのでしょうか。教会を置いてほかにありません。  祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたの御名を心から崇めます。

 ペトロとヨハネは当時のユダヤ教最高権力者の前に引き出されて、イエス・キリストの福音を語ることを禁じられてもなお、何が神のみ前に正しいことかをしっかりと聴き取り、見据えて脅迫に屈することなく語り続けました。

 わたしたちはこうした聖書の一節を読むとき、キリスト教会の成長を妨げようとするサタンの露骨な手段を見ます。そしてそれ以上に聖霊が働き、福音を語る口を大きく開いて下さると言う、大いなる神の力を見ます。

 終末が近いと言われているこの時代、この世の神として君臨するサタンの力が猛威を振るっています。幼子や若者、壮年や高齢者を教会から遠ざけるために物質やさまざまな楽しみごとをもって誘惑しています。教会を守るべき聖職者と呼ばれる者にも権威という魅力を振りまき、性的誘惑をもって死と滅びの罠に陥れようとしています。

 しかし、あなたは主です。全能の神、救い主です。サタンのこうした企てを打ち砕いてくださるお方はあなたを置いてほかにありません。どうか、あなたに仕える神の僕をこうした誘惑の手からお守りください。そして、ひとたび十字架の上に成し遂げて下さった救いの御業、復活のキリストによって賜った永遠の命を語り伝える口を大きく開かせて下さい。救い主イエス・キリストの尊い御名によってお願いします。アーメン。

 


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