【主日礼拝メッセ−ジ要約】                      2005年8月21日

 「 愛 の 一 致 」
使徒行伝4章32-37節
 
メッセージ:高橋淑郎牧師
 

 今日の聖書から、キリストの教会は、愛の一致に満たされた群れであることを知ることができます。お金のある人はある中から、不動産に恵まれている人はその一部を、しかし目に見える金品を何一つ持たない人も卑屈にならず、自分にできることで精一杯主なる神とキリストの教会に仕えている、これが、「心も思いも一つにしていた」と、著者をして言わせる愛の一致に恵まれたエルサレム教会でした。「一人も貧しい人がいなかった」とは、別の角度から見ると、教会全体が主イエス・キリストに対する感謝と、互いを受け入れ、赦(ゆる)し合う豊かな信仰で満たされていたからだ、ということができるのではないでしょうか。一人ひとりがイエス・キリストに出会い、救いを受け入れると、こんなにも変るものかと驚かされる記事です。

 今日人々の生活は本当に忙しくなりました。一週間のうち、教会に来て礼拝をささげるための1時間を確保することさえ、なかなか困難だと言われています。10数年前、ある教会のメンバーがアメリカのある雑誌に面白い記事があったと紹介してくれました。それは、一人の人の平均寿命を70年として、人間はいったいどんなことに、どれくらいの時間を必要としているかを調査した結果、食事にかける時間が7年間、娯楽に10年間、仕事に20年間、顔を洗ったり、服を着替えたりに6年間、おしゃべりに4年間かけているそうで、それを合計すると69年になり、教会に来て礼拝をささげるのに、70年の生涯のうち、たった1年間かけているだけだということが分かったということです。これはあくまで、単純計算で、しかも、比較的教会に来るのが当たり前という生活をしている家庭を対象に調査した結果だと断った上で、礼拝にかける時間が、おしゃべりにかける時間のおおよそ4分の1という現実をどう思うかという問いかけで結ばれていました。あなたはこのことをどう思われますか。

 

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【主日礼拝メッセ−ジ】                      2005年8月21日

 「 愛 の 一 致 」
使徒行伝4章32-37節
 
メッセージ:高橋淑郎牧師

 

 今読んでいただいた聖書は生まれたばかりのキリスト教会の麗しい様子を描いたものです。2:43−47をもう少し詳しく書いたものと言ってよいと思います。中にはこれを「原始 キリスト教 共産主義生活」と呼び、共有財産制度こそ理想の教会形成であるという人がいますが、それは誤解です。

 「一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、全てを共有していた」(32節)というのは、全信徒の持ち物を何もかも売り払った結果ということではなく、自発の献げ物に対して、「早い者勝ち」とか、「これはわたしだけのもの」という利己心がなかったという意味です。また、「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった」(34節)というのは、金持ちばかりの教会だったというのではなく、各自手にある金品を惜しみなく、教会を通して神にささげ、教会はそれを必要に応じて、貧しい人々に援助したということです。使徒パウロは、コリントの教会に、困窮しているエルサレム教会への援助を奨励する手紙の中で、「あなたがたの現在のゆとりが彼らの欠乏を補えば、いつか彼らのゆとりもあなたがたの欠乏を補うことになり、こうして釣り合いがとれるのです。」(コリント8:14)と書いていますが、それはこの初期のエルサレム教会の姿に学んだものと言えます。

 もう一つ重要なことは、教会員になったからといって、決して強制的に全財産を献金もしくは献品させられてはいません。それは、来週読む箇所に関係しますが、ペトロはアナニヤという教会のメンバーに対してこんなことを言っています。「売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思い通りになった」(5:4)と。確かに今日の箇所だけを読むと、教会には献げられた物や金が溢れているように見えますが、教会のメンバーの大半は、食うや食わずの貧しい人が多かったのです。総合的に見れば、教会財政は決して潤沢ではありませんでした。現に伝道の第一線に立つ使徒ペトロは、あの40年以上歩けずに物乞いをしていた男性に対して、「わたしには金や銀はない」(3:6)と言っていることからも分かります。ここに見られるバルナバのような人は例外中の例外でしょう。ペトロや他の教会員が、バルナバの大胆な献身と、謙虚な信仰姿勢に感動して、このエピソードを後々まで語り継いだものと考えるべきでしょう。

 そこで、キリスト者としてよい模範を示したバルナバこと、ヨセフについてもう少し聖書を見て行きましょう。この人は「レビ人」でした。ユダヤ人はもともと宗教的には、「神に選ばれた者」という意味を持つイスラエル民族ですが、この民族は同じ先祖を頂く12部族で構成されていました。彼らは部族ごとに、神に仕える使命と役割を与えられていましたが、レビ人はその一部族として、特に礼拝を司る立場にあり、イスラエルの中でもとりわけ神中心、聖書中心の生活を心がけていました。そうした部族の一人として生まれ育った彼ですから、イエス・キリストによって救われ、バプテスマを受けて教会の仲間入りを果たした喜びは人一倍大きいものがあったのでしょう。かつて主イエスは、喜びをもって御自分に仕えた人を祝福してこう言われました。「だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」(ルカ7:47)と。この言葉の正しい意味は、文語訳聖書を見るともっと分かりやすいのですが、「罪が増し加わったところに恵みも増す」(ローマの信徒への手紙5:20)という御言葉に共通するもので、罪が深刻であればあるほど、それを赦されたときの喜びは大きく、赦し、救ってくださった方に対する感謝の表し方も尋常ではありません。しかし、罪の自覚が薄い人は、それを赦されたという自覚も乏しいので、イエスを信じるには信じても、その喜びも小さく、従って感謝も十分ではないという意味なのです。バルナバはどんな罪を犯した人か分かりませんが、赦された、救われたという喜びが人一倍大きいものでしたから、どうすれば神に感謝を言い表すことになるだろうか、彼なりに考え、祈った結果、自分にできる精一杯の証をしたということではないでしょうか。多額の献金や目に付く奉仕をしたから、神に祝福され、他の教会員の模範になったというのではありません。そのことは来週学ぶことにしましょう。ただ言えることは、これもイエスのお言葉ですが、「宝のあるところにあなたの心もある」(マタイ6:21)ということを忘れてはなりません。

 お金のある人はある中から、不動産に恵まれている人はその一部を、しかし目に見える金品を何一つ持たない人も卑屈にならず、自分にできることで精一杯主なる神とキリストの教会に仕えている、これが、「心も思いも一つにしていた」と、著者をして言わせる愛の一致に恵まれたエルサレム教会でした。「一人も貧しい人がいなかった」とは、別の角度から見ると、教会全体が主イエス・キリストに対する感謝と、互いを受け入れ、赦し合う豊かな信仰で満たされていたからだ、ということができるのではないでしょうか。一人ひとりがイエス・キリストに出会い、救いを受け入れると、こんなにも変るものかと驚かされる記事です。

 もう一つ見逃してならないことは、この教会の麗しさは、金や物だけでなく、時間という貴重な財産も、神へのささげ物として分かち合っていたということです。

 今日人々の生活は本当に忙しくなりました。一週間のうち、教会に来て礼拝をささげるための1時間を確保することさえ、なかなか困難だと言われています。10数年前、ある教会のメンバーがアメリカのある雑誌に面白い記事があったと紹介してくれました。それは、一人の人の平均寿命を70年として、人間はいったいどんなことに、どれくらいの時間を必要としているかを調査した結果、食事にかける時間が7年間、娯楽に10年間、仕事に20年間、顔を洗ったり、服を着替えたりに6年間、おしゃべりに4年間かけているそうで、それを合計すると69年になり、教会に来て礼拝をささげるのに、70年の生涯のうち、たった1年間かけているだけだということが分かったということです。これはあくまで、単純計算で、しかも、比較的教会に来るのが当たり前という生活をしている家庭を対象に調査した結果だと断った上で、礼拝にかける時間が、おしゃべりにかける時間のおおよそ4分の1という現実をどう思うかという問いかけで、結ばれていました。あなたはこのことをどう思われますか。

 今朝与えられた聖書テキストに加えて、もう一度2:46−47を読んでみましょう。「そして毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」  祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたの御名を心から崇めます。

 今朝、わたしたちは愛と信仰によって一つとされ、恵まれ、豊かにされた初代キリスト教会の姿を学びました。これは昔のこと、こういうこともあったかもしれないと、聖書を読み過ごすことは簡単です。しかし、あなたはこの朝、この初代の教会の姿を通して、わたしたちに欠けているもの、私たちにとって教会とは何かをその基本から教えてくださったのだということを思うとき、見過ごすべきではありませんでした。

 今の時代にこそ、初代のあの愛と一致のエネルギーが必要だということ、礼拝を第一とする生活がなぜ必要かということをわたしたちはもっともっと真剣に考えるべきでした。あなたを二の次、三の次にしていたわたしたちの高慢と自己中心の罪をお赦し下さい。どうか、この教会においても一人も貧しい人がいない霊的に豊かな教会として下さい。

救い主イエス・キリストの尊い御名によってお願いします。アーメン。

 


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