【主日礼拝メッセ−ジ要約】                    2005年8月28日

                  「神が書かせた

                      ダニエル書5:1−30
                     テモテへの手紙二3:16

                        篠原健治協力牧師

 

1.神の祭具で酒を飲むベルシャツァル王

 第4章まで登場したネブカドネツァル王は亡くなり、第5章からはその息子ベルシャツァル王が登場します。ベルシャツァル王は、大宴会を開き、酒を飲んでいました。彼は、父ネブカドネツァルがエルサレムの神殿から奪って来た金銀の祭具で、酒を飲み始め、金や銀、青銅、鉄、木や石などで造った神々を讃えました。神聖な祭具で酒を飲み、偶像の神を讃えることは、神への冒涜であり、父ネブカドネツァル王ですら「畏れ多くて」しなかったことです。

2.壁に書かれた文字

 宴たけなわの時、人の手の指が現れ、ともし火に照らされている王宮の白い壁に文字を書き始めます。王は恐怖にかられて顔色が変わり、腰が抜け、膝が震えるほどでした。ここで、ダニエルが登場し、文字の意味を解釈します。ダニエルは、ベルシャツァル王にズバリ進言します。

「あなたの命と行動の一切を手中に握っておられる神を畏れ敬おうとしない。

そのために神は、あの手を遣わして文字を書かせたのです」(23〜24節)

3.「畏れ」を失った現代人

「畏れ」とは、人間が、神の絶対的力に圧倒され、神の前にひれ伏したいと心の奥底から湧き上がる想いのことです。しかし、科学技術が発達し、また従来の権威が崩壊する中、現代人が「畏れ」を抱くことは稀です。大地震や台風などで、「畏れ」の想いを抱いても一時的です。ベルシャツァル王は、顔色が変わり、腰が抜け、膝が震えるほど、神の絶対的力を五感すべて感じ取りました。別な言い方をすれば、神の絶対的力を経験した「幸いな人」とも言えます。

4.命の書なる「聖書」

 私達は、神が私達の「命と行動の一切を手中に握っておられる方」であるとどれほど信じているでしょうか。私達の「命と行動の一切を手中に握っておられる方」が書かせた文字が集められたものが「聖書」です。「聖書」は人生の指針を示す単なるマニュアルではなく、まさに「命の書」なのです。

 

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【主日礼拝メッセ−ジ】                    2005年8月28日

                  「神が書かせた

                      ダニエル書5:1−30
                     テモテへの手紙二3:16

                        篠原健治協力牧師

 

 23:天の主に逆らって、その神殿の祭具を持ち出させ、あなた御自身も、貴族も、後宮の女たちも皆、それで飲みながら、金や銀、青銅、鉄、木や石で造った神々、

見ることも聞くこともできず、何も知らないその神々を、ほめたたえておられます。だが、あなたの命と行動の一切を手中に握っておられる神を畏れ敬おうとはなさらない。

 24:そのために神は、あの手を遣わして文字を書かせたのです。

 

 ダニエルのベルシャツァル王への預言です。

 

23だが、あなたの命と行動の一切を手中に握っておられる神を畏れ敬おうとはなさらない。

24:そのために神は、あの手を遣わして文字を書かせたのです。

 同時に、私達への預言でもあります。

 今日、ダニエル書第5章を通じて

1.「神への畏れ」とはどういうものなのか。

2.神の絶対的力を私達が感じながら信仰生活を人生を送っていくためには、どうすればばいいのか。

3.神様は、御言葉を通して、何を私達に伝えようとしているのか

 について御言葉を通して、聞いていきたいと思います。

 

 第4章まで登場したネブカドネツァル王は亡くなり、第5章からはその息子ベルシャツァル王が登場します。

 ベルシャツァル王は、大宴会を開き、酒を飲んでいました。

 ベルシャツァル王は、父ネブカドネツァル王が、エルサレムの神殿から奪って来た戦利品でもあった金銀の祭具を持ってこさせ、酒を飲み始めます。

 

1:ベルシャツァル王は千人の貴族を招いて大宴会を開き、みんなで酒を飲んでいた。
2:宴も進んだころ、ベルシャツァルは、その父ネブカドネツァルがエルサレムの神殿から 奪って来た金銀の祭具を持って来るように命じた。
王や貴族、後宮の女たちがそれで酒を飲もうというのである。
3:そこで、エルサレムの神殿から奪って来た金銀の祭具が運び込まれ、
王や貴族、後宮の女たちがそれで酒を飲み始めた。

 

 神聖な神殿の最も奥に置いてあった大祭司しか扱うことができない「金銀の祭具」です。

神聖な神への儀式の時しか使用しない「金銀の祭具」を異教の者が酒を飲むために使うのです。

ちょうど、私達が毎月第一主日あずかる「主の晩餐式」の時の使用するカップで、酒を飲むようなものです。

いくら戦利品だといえ、やってはいけないことです。

 

さらに、偶像の神を讃えながら、宴会は進んでいきます。

4:こうして酒を飲みながら、彼らは金や銀、青銅、鉄、木や石などで造った神々をほめたたえた。

 

 神聖な祭具で酒を飲み、偶像の神を讃えることは、神への冒涜であり、父ネブカドネツァル王ですら「畏れ多くて」しなかったことです。

 

宴たけなわの時、人の手の指が現れ、王宮の白い壁に文字を書き始めます。

5:その時、人の手の指が現れて、ともし火に照らされている王宮の白い壁に文字を書き始めた。王は書き進むその手先を見た。
6:王は恐怖にかられて顔色が変わり、腰が抜け、膝が震えた。
7:王は大声をあげ、祈祷師、賢者、星占い師などを連れて来させ、これらバビロンの知者にこう言った。「この字を読み、解釈をしてくれる者には、
紫の衣を着せ、金の鎖を首にかけて、王国を治める者のうちの第三の位を与えよう。」
8:宮廷の知者たちは皆、集まって来たが、だれもその字を読むことができず、解釈もできなかった。

 

 そこで、預言者ダニエルが登場します。

 ダニエルは、父ネブカドネツァル王の歩んだ人生について言及した後、息子のベルシャツァル王に次のようにズバリ進言します。

 

22:さて、ベルシャツァル王よ、あなたはその王子で、これらのことをよくご存じでありながら、なお、へりくだろうとはなさらなかった。
23:天の主に逆らって、その神殿の祭具を持ち出させ、あなた御自身も、貴族も、
後宮の女たちも皆、それで飲みながら、金や銀、青銅、鉄、木や石で造った神々、
見ることも聞くこともできず、何も知らないその神々を、ほめたたえておられます。
だが、あなたの命と行動の一切を手中に握っておられる神を畏れ敬おうとはなさらない。
24:そのために神は、あの手を遣わして文字を書かせたのです。

 

 ダニエルは、壁に書かれた文字について、次のように預言します。

25:さて、書かれた文字はこうです。メネ、メネ、テケル、そして、パルシン。
26:意味はこうです。メネは数えるということで、すなわち、神はあなたの治世を数えて、 それを終わらせられたのです。
27:テケルは量を計ることで、すなわち、あなたは秤にかけられ、不足と見られました。
28:パルシンは分けるということで、すなわち、あなたの王国は二分されて、
メディアとペルシアに与えられるのです。」

 

 ダニエルは、ベルシャツァル王が支配するバビロン王国の分裂を預言したのです。

 そして、ベルシャツァル王は、呆気なく殺されます。

29:これを聞いたベルシャツァルは、ダニエルに紫の衣を着せ、金の鎖をその首にかけるように命じ、
王国を治める者のうち第三の位を彼に与えるという布告を出した。
30:その同じ夜、カルデア人の王ベルシャツァルは殺された。

 

以上が、第5章の内容です。

 

 第5章で、ベルシャツァル王は、神への「畏れ」のない人物として描かれています。

  畏敬の念を抱くの「畏=おそれ」とは、ある国語辞典によると「神仏の罰を受けるのではないかと恐れ、はばかる気持ち」とあります。

 ダニエルによれば、「命と行動の一切を手中に握っておられる神を畏れ敬う」(23節)ことになります。

 

 「畏敬の念」「畏れ」は、今ではほとんど使われなくなった言葉ではないでしょうか。

 60年前までは、昭和天皇は偶像化されてたとはいえ、多くの国民は、天皇に対して「畏敬の念」を抱いていました。「畏れる」という言葉に現実感があった。

 しかし、科学技術が発展し、自然現象について解明がなされ、かつて謎であったことが分かるようになってくると自然に対して「畏れる想い」など薄れてきます。

<事例> 昨今、遺伝子工学が発展し、将来自分がなる病気まで事前に分かるそうです。

そうすると「命と行動の一切を手中に握っておられる神を畏れ敬う」という気にはなりにくいものです。

 

また、情報化が進むと、かつては特定の人しか知り得なかったことでも、だれでも知ることができるようになってきました。

<事例> ほんの前まで医学知識は、医師だけのものでした。

 しかし、最近ではインターネットで病気の詳しい情報がいとも簡単にだれでも入手できるようになりました。

患者の側も多くの情報を持っているので、医師の側も誤魔化しがきかない。

すると昔のように、大先生への尊敬や畏敬の念など薄れてくるものです。

 

 権威の崩壊も進んでいます。

 昔は、父親に権威があり、近寄りがたい父親像が一般的でしたが、最近はだいぶ状況は変わってしまいました。

 

 ますます「畏れ」とか「畏敬の念」など現実感がなくなってしまっている。

「科学技術の発展」「情報化の進展」「権威の崩壊」が確実に進む現代において、

「畏敬の念」とか「畏れ」という言葉自体、死語に近くなってきている。

 

 そんな現代人でも神への「畏れ」を感じる時があります。

 大地震、台風など自然の猛威を通して、神への畏れを感じることがあります。

また、不治の病や大きな病気、あるいは死期が近い時など、人は神への畏れを感じます。 このように自然災害や大きな病気などを通して、神の偉大さ、また畏れなどを感じたとしても、時間が過ぎ去り、また病気も治れば神への畏れなど忘れてしまう−。

 これが人間の現実の姿です。まさに「喉元過ぎれば熱さ忘れる」です。

 

 それでは、私達キリスト者が「神への畏れの念」を持って生きていると断言できるでしょうか。

 私達キリスト者が私達が信じている神を言い表す時、「愛なる神」「私達と共に生きる神」「私の重荷を担って下さる神」などと言います。

すべて正しい神の姿を表現していると言えます。

 しかし、総じて「フレンドリーな神」が幅を利かせている。

「愛なる神」「共に生きる神」「重荷を担う神」の奥底に「神を畏れる」という想いが抜け落ちていないだろうか。

 

 ファミリー分級では『聖書教育』を使って「十戒」を学んでいますが、「十戒」こそまさに「神への畏れ」なくしでは読めない箇所です。

例えば、第八戒「盗んではならない」も「神への畏れ」が抜け落ちると、単なる「盗んではいけない」という道徳訓になってしまうのです。

 

さて、今回第5章の登場人物−ベルシャツァル王−はどうだったでしょうか。

 

5:その時、人の手の指が現れて、ともし火に照らされている王宮の白い壁に文字を
書き始めた。王は書き進むその手先を見た。
6:王は恐怖にかられて顔色が変わり、腰が抜け、膝が震えた。

 

 王宮の白い壁に人の指を使って文字を書かせたのは神です。壁に文字が書かれる現場を確かに目で見ました。

また、文字が書かれる実際の音も聞いたでしょう。もしかして、匂いもしたかも知れません。

 

王は書き進むその手先を見て、神の絶対的力(畏れ)を五感で感じたのです。だからこそ、王は恐怖にかられて顔色が変わり、腰が抜け、膝が震えたのです。

 

 そして、ダニエルは、王に次のように言います。

23:だが、あなたの命と行動の一切を手中に握っておられる神を畏れ敬おうとはなさらない。
24:そのために神は、あの手を遣わして文字を書かせたのです。

 

 今、私達の目の前にある「聖書」も神が人の手を使って書かせた文字の集大成です。

 では、私達がその聖書の御言葉をどれほど「畏れ」を持って聞いたり、読んだりしているでしょうか。

 神が書かせた「聖書」を読む時、私達は、ベルシャツァル王のように、恐怖にかられ、顔色が変わり、腰が抜け、膝が震えたことがどれほどあるでしょうか。

 全身で、五感で、神の絶対的力をどれほど感じたことがあるでしょうか。

 御言葉を通して、神の絶対的力を感じ、畏れ多い想いになり、ひれ伏したくなったことが、今までどれほどあったでしょうか。

 御言葉を通して、神の絶対的力を感じ、魂が震える想いになったことが、今までどれほどあったでしょうか。

 私は、むしろベルシャツァル王の方が、神の絶対的力を経験した「幸いな人」ではないかと考えるのです。

 

 神への畏れは、頭だけの理解のレベルでは不十分です。

 神への畏れとは、神の絶対的力を全身でまさに体験し、実感できるものなのです。

 

 では、どうすれば、今も生きて働かれる神の力を実感しながら生きていくことができるのでしょうか。

 

1.「私達の命と行動の一切を神様が手中に握っておられること」を信じることです。
 今こうして生きていることができるのも、喜びも悲しみも、すべて神様が私達の命と行動すべてを握っているのです。
 
2.聖書は「私達の命と行動の一切を手中に握っておられる方」が人間を通して書かせたものであると信じることです。

 

 テモテへの手紙二3:16

「聖書はすべて神の霊の導きの元に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です」

 

 この聖書箇所においても、「神への畏れ」を持って読むのとそうでないとでは、雲泥の差があります。

もし、「神への畏れ」なしでこの箇所読めば、聖書が単なる人生の生き方を示す

マニュアル本レベルになってしまいます。

しかし、「神への畏れ」を持ち、そして「命と行動の一切を握っておられる方」が書かせたものであると信じて読む時、この御言葉はまさに「命の御言葉」となります。

 

私達は、もっと御言葉に対して「畏れ」の想いを持ちながら御言葉を読む必要があるのではないか。

私達が、もっともっと御言葉に対して「畏れ」の想いを持ちながら御言葉を読む時、御言葉は私達に迫ってくるのです。

 なぜなら、神の御言葉は「生きた言葉」だからです。

 

3.そして、日々「5つの約束」を守っていくこと

 

 先ほど述べたとおり、私達は「科学技術の発展」「情報化の進展」「権威の崩壊」が確実に進む時代に生きています。

 日々の生活の中で、私達が、神への畏れを抱きにくい環境にあるのも事実です。

 神様がどんなに偉大な方であり、どんなに畏れ多い方であるのか。

 この聖書の中に書かれています。

 神様は偉大な方であるが故に、聖書を1回読んで分かるものではありません。

日々の積み重ねが、どうしても必要となるのです。

 ですから、5つの約束があるのです。

(1)聖書をよく読む。

(2)聖書に基づいて祈る。

(3)聖書に基づいてた礼拝を守る。

(4)聖書に基づいて、献金・奉仕をする。

(5)聖書に基づいて、伝道する。

 

 当たり前のことですが、この「5つの約束」を地道に実行していくことによって、神様がどんなに偉大な方でるかを実感できるようになるのです。

 

 この「5つの約束」の中心・基礎となるのが、神が書かせた文字−御言葉−なのです。

いや、私達の人生の根本をなすのが、神が書かせた聖書の御言葉なのです。

 

 「神への畏れ」ということを繰り返し強調してきましたが、何か神の前でビクビクしながら人生を送らなければならないということではないと考えます。

 私は、だれでも魂の奥底に「神への畏れ」というものがあると信じます。

 私は、魂の奥底にある「神への畏れ」に気づき、呼び戻していくことによって、私達の信仰生活ががらっと変わると信じています。

 私達は、まさにその途上にあるのです。

 

 神様が絶対的な力を持ち「命と行動の一切を握っておられる方」であるということは、

 神様が、私達といかに真剣に関わろうとしているかので現れでもあります。

 神様が、真剣に私達と関わろうとするからこそ、神はその絶対的力を私達に示すのです。

 神様が、真剣に私達と関わろうとするからこそ、神はその一人子をこの地上に送って下さったのです。

 神が、真剣に私達と関わろうとするからこそ、神は私達の罪を見過ごすことができない。

だからこそ、神はその一人子イエス・キリストを私達の身代わりとして十字架につけたのです。

 神は、真剣に私達と関わろうとするからこそ、その一人子イエス・キリストを復活させたのです。

 神は、真剣に私達と関わろうとするからこそ、この地上にキリストの体なる教会を与えて下さったのです。

これほど、私達を真剣に見てくれている方がいるでしょうか。

これほど、私達と真剣に関わろうとする方がいるでしょうか。

これほど、私達を真剣に愛そうとされて方がいるでしょうか。

 

だからこそ、私達の魂は、その神様の真剣さに畏れを感じ、魂が打ち震えるのです。

 神様は、畏れを感じるほど真剣なお方なのです。

 

 神様は、ダニエルを通して、次のように私達に語っているのです。

23だが、あなたの命と行動の一切を手中に握っておられる神を畏れ敬おうとはなさらない。
24:そのために神は、あの手を遣わして文字を書かせたのです。

祈ります。

 

<祈り>

 ご在天の父なる神様、あなたほど、私達と真剣に関わろうとする方がどれだけいるでしょうか。またこれほど、私達を真剣に愛そうとされて方がいるでしょうか。

あなたは、私達と真剣に関わろうとしているするからこそ、私達に御言葉を通して、あなたの真剣な想いを私達に伝えようとされる方です。

 しかし、受け手である私達の魂がくもり、淀んでいるためあなたへの畏れすら失っているのが私達の姿です。主よ、お許し下さい。

 主よ、私達を憐れみ、私達の魂の奥底にあるあなたへの「畏れの気持ち」を御言葉を通して呼び起こして下さるように。

 御言葉を御言葉として、福音を福音として受け止めていくことができますように。

 この祈りを御言葉の主、イエス・キリストの御名でお祈りします。アーメン。


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