ここに登場するアナニヤとサフィラは教会生活に不満があったわけではありません。ペトロや教会役員の牧会に反旗を翻そうとしているわけでもありません。それどころか、彼らは教会の働きに積極的に参加しようとして、多額の献金を申し出ました。それなのに、この献金が彼らの行く末を誤らせ、教会の存続を危うくしてしまったのです。予め土地の売上金を一部ごまかして、あたかもこれが土地を売った全額ですと言って献金しようと相談、もしくは共謀したことは聖霊に導かれたペトロにはすぐ分かりました。「なぜ」、「どうして」と矢継ぎ早に詰問されると、アナニヤは一言の弁明もできないままに、神に打たれて息絶えてしまいました。妻サッピラも神に撃たれて息絶えました。
たかが献金をごまかしただけでこの審きは残酷すぎないか、という人がいるかもしれません。「たかが献金をごまかしただけ」という言葉には気をつけた方が良いでしょう。彼らはペトロをごまかし、会衆を甘く見ただけではありません。このことは聖霊を欺き、神を欺くとんでもない罪なのです。いつも所構わず喧嘩ばかりしている夫婦、心がつながらないで崩壊寸前のクリスチャンホームも周りの躓きになりますが、仲の良い夫婦、円満な家庭が必ずしも祝福されるとは限りません。結婚によるパートナーは互いに良い助け手でなければなりません。「良い助け手」とは、悪いことも共有するということを意味しません。どちらかがチェック機能を働かせて、聖書と祈りに帰って行くよう、神の道から離れないように、時に諫める関係を言うのです。
今日は長寿感謝の礼拝です。誰が誰に感謝をするのでしょうか。高齢者はこの世で長く生きている分だけ、成功と失敗の経験を沢山していることでしょう。そうした日々を回想して聖書に帰り、祈りに導かれ、救い主に出会わせて下さった聖霊に感謝して下さい。そして若い人たちにこの道を歩めと諭す者となって下さい。厳しくも愛豊かなあなたがたの導きによって信仰生活を正される若者は、信仰の先輩と神に感謝を言い表す、これが長寿感謝(敬老)の本来の意味です。
4章ではペトロをはじめ、教会のメンバーはイエス・キリストを否定する大きな力と戦いましたが、聖霊の助けを得てますます祝福され、教会は成長を遂げて行きました。その一人バルナバという教会員は、貧しい信徒の生活や、教会のために働いている伝道者の生活が満たされるように、またこれが一番大事なことですが、もっともっと伝道活動が盛んになるようにと土地を売り、そのお金を神に献げました。教会は神とバルナバに感謝したことでしょう。殊に会計さんは喜んだことでしょう。よく祈った上で献げたバルナバの姿勢は教会を一層元気にします。多分ほかの信者さんも、次々と惜しみなく、しかも自主的に、祈りをもって献げものに参加したことでしょう。
「ところが」と話が続きます。麗しい教会に影をさす5章1節の「ところが」です。獅子身中の虫、思いがけない所で教会はほころびを見せました。これまで外からの迫害には粘り強く戦い抜きましたが、今度は教会の内側から発生する問題と戦わなければなりません。それはアナニヤとサッピラという一組の夫婦会員によってもたらされた問題です。アナニヤをヘブル的に発音すると、「ハナニヤ」と呼びますが、これには「主は恵み深い」という意味があります。また、サフィラとは、「美しい」という意味があります。しかし、彼らは二人ともその名を汚しただけでなく、教会全体を危機的な状況に追い込むようなことをしてしまったのです。
彼らは教会生活に不満があったわけではありません。ペトロや教会役員の牧会に反旗を翻そうとしているわけでもありません。それどころか、彼らは教会の働きに積極的に参加しようとして、多額の献金を申し出ました。それなのに、この献金が彼らの行く末を誤らせ、教会の存続を危うくしてしまったのです。新共同訳聖書では控えめに、二人が「相談して」と書いていますが、口語訳聖書では「共謀して」と、ずいぶん思い切った訳になっています。しかし、他の訳の聖書には、「相談して」も、「共謀して」という訳も見られません。もともと原文にはないからです。新共同訳聖書はともかく、口語訳聖書の翻訳をした先生は、少しばかり個人的感情を交えているようです。そうは言うものの、2節にある通り、「妻も承知のうえで」と言うのですから、予め土地の売上金を一部ごまかして、あたかもこれが土地を売った全額ですと言って献金しようと相談、もしくは共謀したことは間違いのない事実です。しかし、この企ては聖霊に導かれたペトロにはすぐ分かりました。それで深い悲しみと共に、3節と4節で、「なぜ」、「どうして」と畳み掛けるように詰問します。アナニヤは一言の弁明もできないままに、神に打たれて息絶えてしまいました。この出来事を知らないで何食わぬ顔をして入ってきたサフィラもペトロに叱責されると、神に撃たれて息絶えました。
たかが献金をごまかしただけでこの審きは残酷すぎないか、という人がいるかもしれません。もちろんわたしはその質問に答える立場にありません。ただ、ペトロの言葉を思い起こしてほしいのです。「たかが献金をごまかしただけ」という言葉には気をつけた方が良いでしょう。彼らはペトロをごまかし、会計さんを侮り、会衆を甘く見ただけではありません。このことは聖霊を欺き、神を欺くとんでもない罪なのです。
これとよく似た事件がヨシュア記(7章)に書かれています。アカンという人が戦利品の一部を個人的に盗みました。しかし人はともかく、神の目をごまかすことはできません。やがて、アカンの罪は暴かれて彼を諫めなかった家族もろとも滅ぼされてしまいました。厳しい処置のようですが、これもまたわたしたちへの警告です。
アカンの罪は彼一人に止まりません。それはイスラエル全体の運命を左右するものだったからです。わたしたちはあのヨシュア記の事件、またアナニヤとサフィラの事件を読むにつれて、ヨシュアやペトロの厳しい言葉を責めるよりも、そして神のなさりように疑問を呈するよりも、現在わたしが同じような厳しい処置を受けないで、生きながらえさせて頂いていることを深く想い、神を畏れるべきではないでしょうか。まさにわたしたちもまたアナニヤの道を行く危険を孕んでいたのです。しかし、神はわたしたちを本来のアナニヤとする為に、即ち主なる神の恵み深い忍耐をもって今ここに導かれているのです。
「そのことを耳にした人人はみな、非常に恐れた」(6節)、「教会全体とこれを聞いた人々はみな、非常に恐れた。」(11節)と聖書は伝えています。危機はまたチャンスでもあります。新とは今、教会のかしらが誰であることを改めて思い起こす機会となりました。わたしに人生の主が誰であるかをしっかりと心に留める機会となったのです。こうして教会全体は信仰の襟を正され、真の礼拝へと導かれました。
ですから、わたしたちもまた今この礼拝の中で、これまで隠れて犯した罪の数々、神の御名を汚すようなごまかしがあった、あれこれ全てを思い起こして悔い改めなければなりません。こんなわたしの罪のためにイエス・キリストが十字架の上で贖いの業を成し遂げて下さったことを感謝し、その御名を讃美しなければなりません。悔い改めのない偽りの生活は、教会全体を危機に曝すのです。
いつも所構わず喧嘩ばかりしているクリスチャン夫婦、心がバラバラで崩壊寸前のクリスチャン家庭も周囲の躓きになりますが、仲の良い夫婦、円満な家庭が必ずしも祝福されるとは限らないという、これは悲しいお手本です。結婚によるパートナーは互いに良い助け手でなければなりません。「良い助け手」とは、悪いことも共有するということを意味しません。どちらかがチェック機能を働かせて、聖書と祈りに帰って行くよう、神の道から離れないように、時に諫め合う関係を言うのです。
これは個人の関係だけではありません。教会ではこのことは特に大切です。今日は長寿感謝の礼拝です。誰が誰に感謝をするのでしょうか。年長者はこの世で長く生きている分だけ、成功と失敗の経験を沢山していることでしょう。そうした日々を回想して聖書に帰り、祈りに導かれ、救い主に出会わせた聖霊にまず感謝して下さい。そして若い人たちにこの道を歩めと諭す者となって下さい。この厳しくも愛豊かなあなたがたの導きによって信仰生活を正される若者は、信仰の先輩と神に感謝を言い表す、これが長寿感謝の本来の意味です。間違っても教会を危機に曝すことのないように、わたしたちは心を一つにして本来のサフィラとして、聖霊によって麗しい関係へと清めて頂きましょう。祈りましょう。
天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。
今朝、わたしたちはアナニヤとサフィラの偽りの献げものとその結末を通して、教会とは何かを学ぶことができました。教会の敵はイエス・キリストを否定する外の人たちばかりではありません。むしろ、これくらいはという信仰の緩み、偽善と高慢の誘惑に陥りやすい私たち自身の中に見ることを思い、襟を正されます。
どうか、わたしたちの礼拝、わたしたちの献げもの、わたしたちの奉仕、わたしたちの隣人との関わりがイエス・キリストを知らない人々の躓きになりませんように。
今日は長寿感謝礼拝です。どうか今あなたの御前にあるこれら人生と信仰の先輩が、地上の生を終えるまで罪に落ちることがありませんように。どうか、若い人々の残された日々が、以前にも増して心を低く、真実なものとなりますように。
私たちの主イエス・キリストの御名によってこの祈りをおささげいたします。アーメン。