【主日礼拝メッセ−ジ要約】                    2005年10月16日
 
「人でなく、神に従う」
 
使徒言行録 5章27-32節
 
高橋淑郎牧師

 

 最高法院は「あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか。それなのに、お前たちはエルサレム中に自分の教えを広め、あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている。」と恫喝しました。要するに大祭司たちは、第一に禁じておいたイエスの名によって教えを広めたことはけしからん。第二にイエスを十字架につけた責任を自分たちに押し付けるとは何たることかというのです。

 これに対して第一に使徒たちは「人間に従うよりも、神に従わなければなりません。」と、4:19−20の言葉を繰り返します。

 第二に彼らは、「イエスの血の責任を我々に負わせようとしている」と怒りますが、この点についても彼らは随分都合の良い記憶喪失に陥っています。かつて彼らはピラトの面前で主イエスを訴えてこう言い放ったのです。「その血の責任は、我々と子孫にある。」と(マタイ27:25)断言し、あの裁判の席でピラトが主イエスを人々に示して、「見よ、この男だ」というと、彼らは益々いきり立ち、「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫びました(ヨハネ19:5−6)。このように主イエスを十字架につけたのは群衆よりも、最高法院のメンバー自身です。主イエスの血の責任を群集に負わせたのは、実に彼らの方でした。ユダヤ人の大衆が殺人罪で訴えられるなら、大祭司たちは殺人教唆の罪を問われなければなりません。一般の刑事訴訟法に照らしても、殺人を実行した者の罪は軽くはありませんが、殺人教唆の罪ははるかに重いのです。

 しかし、使徒たちは彼らを責めて窮地に追い込もうというのではありません。イエスを十字架につけた罪は重大ですが、神はこのイエスを甦らせたこと、彼らの罪を罰するためではなく、悔い改めに導いて救うために自分たちを証人として選び、立てられた。聖霊ご自身がそれを証ししておられるのだと言うのです。

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【主日礼拝メッセ−ジ】                   2005年10月16日

 
「人でなく、神に従う」
 
使徒言行録 5章27-32節
 
高橋淑郎牧師

 

 主イエスは、数多い弟子の中から12人を「使徒」として選ばれました。「使徒」とは、いつも主イエスのそばで学び、神の愛と救いのメッセージを伝える為に派遣され、悪霊を追い出す権能を委ねられている人たちだと説明されています(マルコ3:14−15)。しかしその一人、イスカリオテのユダはイエスを裏切って、自分からその地位を捨ててしまったので、後にマティアという弟子が加えられて再び12人になりました。彼らはイエス・キリストの福音を伝え、また力強い働きをしていましたので、信じる人々の数が日増しに多くなり、やがて大いなる集団となりました。一方神殿に仕え、人民を指導する祭司たちはこのことを快く思わず、妬みに燃え、何とかこの運動をやめさせようと圧力を加えました。最初はペトロとヨハネという指導的な人々を捕えて、イエスの名によって教えてはならないと脅迫しましたが、効き目がありません。そこで彼らはもっと多くの使徒たち、或いは12人全員であったかもしれませんが、彼らを逮捕して厳重な警備のもとに留置場に閉じ込めました。ところが翌朝、最高法院で更に詳しく取り調べるために引き出そうとしたら留置場の中は蛻(もぬけ)の空でした。そこへ別の人が来て、逮捕されたはずの使徒たちが宮の境内で教えていると報告します。驚きながらも、もう一度捕まえに行きましたが、民衆を前に手荒なこともできず、何とか使徒たちを連れ戻しました。これが二週間前に読んだ聖書のあらすじです。

 しかし民衆の目の届かない最高法院に立たせた途端、尋問は厳しくなりました。イエス・キリストと呼びたくないので、「あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか。それなのに、お前たちはエルサレム中に自分の教えを広め、あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている。」と恫喝しました。要するに大祭司たちは、第一に禁じておいたイエスの名で教えを広めたことはけしからん。第二にイエスを十字架につけた責任を自分たちに押し付けるとは何たることかというのです。しかし第一の点で、使徒たちは明確に答えます。「人間に従うよりも、神に従わなければなりません。」と。この言葉は前にも読んだことがありますね(4:19−20)。あの時もペトロとヨハネは言いました。「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」と。

 強引に物事を進めようとする人々は、時折神よりも自分に従わせようとする傾向があります。私たちも気をつけないと、神のためと言いながら、ひたすら自己満足を求めているということがあります。最高法院のメンバーがそうでした。大祭司たちはどこまでも自分たちの対面や権威にこだわって、ペトロとヨハネの忠告に耳を貸そうとしません。だから今また使徒たちから同じ言葉を聞かされなければならないのです。

 第二に彼らは、「イエスの血の責任を我々に負わせようとしている」と怒りますが、この点についても彼らは随分都合の良い記憶喪失に陥っています。かつて彼らはピラトの面前で主イエスを訴えて、「その血の責任は、我々と子孫にある。」と(マタイ27:25)言い放ったのに、今になって、「あれは興奮した群集が一時の感情で口走ったこと、我々が言ったのではない。」と言いたいのでしょうか。しかしこれこそ神を恐れぬ詭弁です。あの裁判の席でピラトは主イエスを指差して、「見よ、この男だ」というと、彼らはいきり立って、「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫んだと福音書の著者は証言しています(ヨハネ19:5−6)。この証言は真実です。なぜなら著者ヨハネはイエスが裁判にかけられていた間中、その成り行きを近くで目撃していた一人なのですから。最高法院のメンバーこそ主イエスを十字架につけた張本人なのです。主イエスの血の責任を群集に負わせたのは実に彼らの方でした。ユダヤ人の大衆が殺人罪で訴えられるなら、大祭司たちは殺人教唆の罪を問われなければなりません。一般の刑事訴訟法に照らしても、殺人を実行した者の罪は軽くはありませんが、殺人教唆の罪ははるかに重いのです。それなのに、大祭司たちは口を拭って、主イエスの血の責任が自分たちにはないかのような言い方をするのでした。

 しかし、使徒たちは彼らを責めて窮地に追い込もうというのではありません。イエスを十字架につけた罪は重大ですが、神はこのイエスを甦らせたこと、彼らの罪を罰するためではなく、悔い改めに導いて救うために自分たちを証人として選び、立てられた。聖霊ご自身がそれを証ししておられるのだと言うのです。このように、使徒たちはいかなる脅迫にも屈せず、ただ神にのみ聴き従いました。彼らは何よりも聖書に忠実でした。同時に聖書に従って神の御心を語るお互いの声に耳を傾ける事も忘れませんでした。そのことは新約聖書のあちこちに見られます。「人間に従うよりも神に従わなければならない」とはそういう意味です。

 ある牧師のことを紹介した長い話を短く話したいと思います。仮にS先生と呼ぶことにします。第二次世界大戦たけなわのころ、S先生は日本軍の占領下にあった韓国の方です。多くの牧師や神学博士が神社参拝を強制されて実際に参拝している中で、S先生たち少数の牧師はからだを張って参拝を拒否し、教会のメンバーには偶像にひれ伏してはならないと教えて回りました。そのために逮捕され、厳しい尋問と拷問を加えられましたが、それでも人にではなく、神にのみ聴き従う道を選ばれたのです。S先生の奥様は、夫の早い釈放を祈りながら、しかし妥協してまで夫の釈放を願う方ではありませんでした。それどころか僅かな時間、再開が果たせたとき、奥様は隠し持ってきた聖書を開いて、S先生にこう言われました。「あなた!このみ言葉を知っていますね。神社参拝をするなら、私の夫である資格はありません」と。先生は、「心配しないで祈ってくれ」と言いながら光州の刑務所に連行されて行きました。あの時奥様が示した聖書の箇所とは、ヨハネの黙示録2章10節の、「死に至るまで忠実であれ、そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。」でした。正にこの牧師にしてこの牧師夫人ありです。

 初代の使徒たちや信徒たちの熱い祈りと命がけの証の生活が、やがて異教社会のローマ帝国をキリスト教国にまで替えるエネルギーとなっていったように、また韓国では当時少数の牧師や信徒たちの死に至るまでキリストに忠実であろうとした熱い祈りと信仰が、今や4人に一人のキリスト者を生む韓国のキリスト教会の原動力となったことを思うとき、今日わが国のキリスト教会の牧師も信徒も、改めて誰に聴き、誰に聞くべきでないか。また誰にひざをかがめ、誰を拒むべきかを見抜く聖霊による目と耳を持っていなければなりません。   祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。

 使徒たちは反キリストの力に満ちた法廷に引き出されながら、「人間に従うよりも、神に従わなければなりません。」と力強く主イエスを証しました。この世は虚飾に満ちています。人の言葉もまた欺瞞で溢れています。しかし、あなたのみ言葉だけは真実で、聖い愛で覆われています。あなたは言われます。「いつでもキリストを証しなさい。何をどう言おうかと思い煩うことはない。語るべき言葉は聖霊が備えて下さる」と。どうぞこの仙川キリスト教会の礼拝が、またここに集められている一人びとりの生活がいつもキリストの愛と真実を衣として身につけ、またいつ、誰に求められても、「イエスは主なり」の一言でも語るものと導いて下さい。

 私たちの主イエス・キリストの御名によってこの祈りをおささげいたします。アーメン。

 

                      


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