【主日礼拝メッセ−ジ要約】                    2005年10月30日
 
「辱めを光栄とする」
 
使徒言行録 5章33-42節
 
高橋淑郎牧師

使徒たちの態度から学ぶことがあります。最高法院はガマリエルの勧告に従って、使徒たちを再び法廷に呼び戻し、鞭打ち、「イエスの名によって話してはならない」と改めて命じた上で釈放しました。しかし、この脅しは使徒たちのためには何の効果もありません。彼らは、「イエスの名のために辱めを受けるほどのものにされたことを喜び、最高法院から出て行くや否や、所構わず、メシア・イエスの福音を告げ知らせたということです。

「辱められて」なお、それでも喜べるというのです。ただ強がって喜んでいるのではありません。「イエスの名のために恥を加えられる者にして頂けた」ことを光栄と思えるほどの喜びです。主イエス・キリストの使徒たちは、キリストのためにこうむる恥さえも彼らにとって名誉であり、光栄だというのです。

この彼らの姿勢から、人ばかり意識しているわたしたちと、隠れたところで、隠れたことを見ておられる神にのみ目を注いでいる使徒たちとの違いを実感します。そしてこれが福音です。私たちの信仰がこの世の中で通用するもしないも、イエスの名のためなら、という確信があるかないかにかかっているのです。人々からキリスト者であることを責められたり、嘲られたとき、それを恥じるか名誉なことと喜び、神に感謝できるか否かにかかっているのです。主イエス・キリストの次のみ言葉をいつも心に留めているか否かにかかっているのです。

「人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。」(ルカ6:22−23)

 

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【主日礼拝メッセ−ジ】                    2005年10月30日

 
「辱めを光栄とする」
 
使徒言行録 5章33-42節
 
高橋淑郎牧師

 

 使徒たちはユダヤ最高法院の前に引き出されても恐れることなく主イエス・キリストの福音を宣べ伝えました。「これを聞いた者たちは激しく怒り、使徒たちを殺そうと考えた」と聖書は言います。この「激しく怒った」について、新改訳聖書では、「怒り狂い」と訳し、その脚注には、「心をのこぎりで引き切る」ほどの怒りであったと説明しています。怒りの程度にもいろいろありますが、彼らは使徒たちを殺してしまいたいと思うほど最高に腹を立てたのです。

 当時のユダヤ社会はローマ帝国の緩やかな占領政策に乗じて事実上政教一致のサンヒドリン議会によって指導されていました。この議会はまた旧約聖書に基づく律法解釈の公式声明と行政をし、律法に背く者を裁く司法の三権を掌握していました。またこの最高議会はサドカイ派、ファリサイ派という二大政党及び、これにエッセネ派、ヘロデ党、熱心党などなど少数の政党が入り混じって主導権を争っていましたが、伝統的にサドカイ派が過半数を占め、これにヘロデ党が組して与党を形成していました。このサドカイ派とヘロデ党に共通していたものは何かと言いますと、宗教はこの世のためだけのもの、死者の行き着くところは陰府の世界、無の世界だというのです。もちろん神の使いである天使の存在、霊の存在、死者の復活などは頭から否定していました。これに対して最大野党のファリサイ派は聖書全巻を正典、すなわち聖書を信仰と生活の規範と信じて読んでいましたから、天使の存在も霊的な事柄も死者の復活もすべて信じていました。

 こうした背景をお互いに知った上で今日の聖書テキストを改めて読み直してみたいと思います。「これを聞いた者たち」とは、大半の祭司階級の人々、つまりサドカイ派の人々でした。彼らの否定する復活信仰を堂々と主張することは許されるべきではないのです。ファリサイ派の人々もまた使徒たちが公認の宗教指導者ではないのに、一般大衆の前だけでなく、この法廷でさえイエスの教えを語ることは我慢ならないところでした。今にも使徒たちを捕えて死刑にしようと立ち上がったそのとき、ファリサイ派の最高指導者で、「神の報い」という意味を持つガマリエルという人がテウダとユダの事件を例に挙げて、冷静にそれを思いとどまらせました。聖書によると、ガマリエルは、後にキリストの弟子として世界伝道に半生をささげた使徒パウロが、若き日、この人の門下生であったということですが、他の資料によると、彼は「律法学者」(ラビ)と呼ばれるよりもっと尊敬の意味を込めて「律法の教師」(ラバン)と呼ばれていました。事実彼は律法解釈に秀でていて、法制度の改善に尽力し、特に女性の地位向上に貢献しました。そしてこれは裏づけのない伝説ですが、彼は後日密かに使徒ペトロとヨハネからバプテスマを受け、キリストの弟子となったと言われています (キリスト新聞社刊 「新共同訳−新約聖書辞典」より)。ガマリエルがどういう人物であったかは分からなくても、38−39節の言葉はいつの世にも傾聴に値します。軽挙妄動を慎めということです。

 ガマリエルのこの勧告は、今日忘れかけていた大切なことをわたしたちに思い出させてくれます。それは「見極める」ことの大切さです。今の時代はあまりにも結論を急ぎすぎます。誰かが何かをし始めるとき、わたしたちはどうしても目の前のことでしか判断できません。それが人間から出たことか、神から出ていることなのか、何が善であり、何が神のみ心に適ったことなのかを冷静に見極めることが苦手なのです。夫婦の間でも、相手を理解しないで、相手に理解してもらえない不満をぶつけ合っていますから、関係はどんどん冷え、やがて離婚へと突き進む悲しいニュースを耳にします。また親と子の間でもそうです。子どもは日に日に成長を遂げてゆきます。失敗もしますが、その失敗を親や周りの大人がフォローしてあげることで、更に成長してゆくのです。しかし、親は待てないのです。失敗が成長への道筋であるということを「見極め」られないのです。子ども自身が生まれながらに持っているあらゆる可能性を親自身が摘み取ってしまい、「お前はだめな子だ」と心無い言葉のミサイルを撃ち込んで、子どもを自信喪失に追い込み、果ては人生を誤らせたり、自殺に走らせてしまうことさえ起こりうるのです。

 わたしたちはいつの間にか忘れかけていました。神はわたしたちが愚かで罪深く、失敗の多い者であることをご存知なのに、わたしたちを決して失望しておられないのです。更に神はその独り子を十字架に引き渡すほどにわたしたちを愛して、わたしたちが罪に気付いて、神に立ち帰る日をひたすら待ち続けて下さっているのです。

 

 次に、使徒たちの態度から学ぶことがあります。最高法院はガマリエルの勧告に従って、使徒たちを再び法廷に呼び戻し、鞭打ち、「イエスの名によって話してはならない」と改めて命じた上で釈放しました。しかし、この脅しは使徒たちのためには何の効果もありません。彼らは、「イエスの名のために辱めを受けるほどのものにされたことを喜び、最高法院から出て行くや否や、所構わず、メシア・イエスの福音を告げ知らせたということです。

 「辱められて」なお、それでも喜べるというのです。ただ強がって喜んでいるのではありません。「イエスの名のために恥を加えられる者にして頂けた」ことを光栄と思えるほどの喜びです。

 日本人はこの上なく名誉を重んじる民族です。「恥を知れ」、「恥ずかしい人間にだけはなるな」、この思想が大昔から親から子に、子から孫にと代々受け継がれてきました。電車やバスに乗っていて時折見かける光景ですが、悪戯盛りの子どもをたしなめるのに、「周りの迷惑になるからやめなさい。」ではなく、「みんなが笑っているからやめなさい」という親御さんの言葉を聞かされ、唖然とさせられることがあります。

 わたしが牧師になったとき、わたしの兄弟たちが最初に発した言葉は、「これからは淑郎の顔に泥を塗るようなことはできないな」と言ったものです。悪戯盛りの子どもをたしなめる親の言葉と似たものです。何が善であり、何が神の御心に適ったことであるかを考えるのではなく、人がどう思っているかという恥じ意識が先行している間は本当に自分自身と向き合っていることにならないし、罪そのものと向き合っているとは言えないのです。

 しかし、主イエス・キリストの使徒たちはそうではありません。キリストのためにこうむる恥さえも彼らにとって名誉であり、光栄だというのです。この違いは何でしょうか。それは人ばかり意識しているわたしたちと、隠れたところで、隠れたことを見ておられる神にのみ目を注いでいる使徒たちとの違いなのです。これが福音です。私たちの信仰がこの世の中で通用するもしないも、イエスの名のためなら、という確信があるかないかにかかっているのです。人々からキリスト者であることを責められたり、嘲られたとき、それを恥じるか名誉なことと喜び、神に感謝できるか否かにかかっているのです。主イエス・キリストの次のみ言葉をいつも心に留めているか否かにかかっているのです。

 「人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。」(ルカ6:22−23)   祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。

 今朝も与えられたあなたからのみ言葉とメッセージを感謝します。わたしたちはあなたのために働き、行動を起こしている隣人を人間的な尺度で非難したり、嫉妬心に燃えることがあります。しかし、あなたは今朝、あのガマリエルを通して、「それが人から出たものか、神から出たものであるかをじっくりと見極めなさい」と教えてくださいました。

 また、使徒たちの態度を通して、恥じ入ることが問題ではなく、辱めを受ける内容が問題であることを教えてくださいました。あなたのみ言葉を伝えるためのものであるとき、それによってこうむる辱めは決して悲しむ必要はないこと、むしろ、喜ばしいこと、名誉なこと、光栄であると信じてよいと教えてくださいました。

 主よ、どうか、私たち仙川キリスト教会のメンバーをして、あなたなの名のゆえに辱めを受けるほどのものとしてください。

 私たちの主イエス・キリストの御名によってこの祈りをおささげいたします。アーメン。


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