【主日礼拝メッセ−ジ要約】                   2005年11月20日
 
「み言葉を妨げるな」
使徒言行録 6章1−7節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 今日は生まれたばかりの教会に起こった難しい問題について、神が使徒たちを通して見事に解決してくださったばかりか、これをきっかけに教会を一層成長させてくださったというお話です。

 問題の発端は、「日々の分配のこと」で公平を欠く、という苦情が寄せられたことに始まります。エルサレムの都に教会が生まれたばかりのころ、信者はそれぞれ自発的に献金や献品をしましたので、「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった」のです。それなのに、6:1ではこの有様です。ギリシャ語を話すユダヤ人の教会員からヘブル語を話すユダヤ人の教会員に対して、自分たちの仲間であるやもめが日々の分配で不公平な扱いを受けているというのです。外国出身のユダヤ人の中には既に2世、3世の人がヘブル語ではなく、日常会話はギリシャ語を使っていたので、いつとはなく生粋のユダヤ人との間に心の壁のようなものができてしまったのでしょう。その上女性の地位が低い時代でした。特に、夫に先立たれた人は経済的にも貧しく、献金も思うようにできなかったでしょう、だから教会生活も遠慮がちになります。

 使徒たちは祈りました。聖霊なる神は見事な解決へと導いてくださいました。7人の執事の選出です。使徒たちや牧師はどうしても日常の具体的な問題にかかわる時間的余裕がありません。また一般の教会員も悪気はなくても、視野が狭く、自分を中心とした発言や行動になってしまいます。 それを補うのが執事です。執事とは、新約聖書の言語によると、「分配する者」という意味です。教会に出入りする人、特に弱い立場の教会員が、誰ひとり「日々の分配のことで、軽んじられることのないように」配慮する人です。「日々の分配」とは物や金銭に限りません。何よりも「心を配る人」です。礼拝を終えて、寂しい気持ちで会堂から出て行く人が一人もないように目も心も配る、それが執事の役割です。

福音メッセージ一覧へ戻る


【主日礼拝メッセ−ジ】                 2005年11月20日

 
「み言葉を妨げるな」
使徒言行録 6章1−7節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 今朝、久しぶりに使徒言行録を読むことができると思ったら、またしても教会の中に問題が発生したという記事にぶつかりました。またしてもというのは、アナニヤとサフィラ夫妻による偽りの献金事件(5章1節−)に次ぐものでした。あの事件も教会の土台を揺るがすものでしたが、今回はそれ以上に複雑です。というのは、この場合、どちらが正しいとも間違っているとも単純に裁定できないのですが、だからと言ってこのまま放置していたのでは、教会は二つにも三つにも分裂しかねません。

 しかし、神はこの難問題を、使徒たちを用いて見事に解決してくださったばかりか、これをきっかけに教会を一層成長させてくださいました。

 先ず問題の発端を探ってみましょう。それは「日々の分配のことで」公平を欠く、という苦情が寄せられたことに始まります。4:32−35を見てください。エルサレムの都にキリスト教会が生まれたばかりの頃、信者はそれぞれ自分の持っているものの中から自発的に献金や献品をしましたので、「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった」(34節)のです。それなのに、6:1ではこの有様です。その原因は弟子の数、すなわち教会員の数が増えてきたことにあります。礼拝をささげる人の数が増え、イエス・キリストを信じる人の数が増すことは確かに喜ばしいことですが、思いもかけないところで教会の中に不協和音が聞こえてくるものです。世界最初の教会は理想的な形でうまれましたが、何年も経たないうちにこういう躓きに苦しむことになりました。誰がどのような苦情を申し立ててきたのかというと、ギリシャ語を話すユダヤ人の教会員からヘブル語を話すユダヤ人の教会員に対して、自分たちの仲間であるやもめが日々の分配で不公平な扱いを受けているというのです。

 2:9−11,41を見てください。ペンテコステの日に聖霊が降られてキリスト教会がエルサレムの都に生まれたとき、既に14の国と地域から来た人たちによって構成されていました。更にあれから教会にはいろいろな人が来て礼拝を共にささげるようになり、イエス・キリストを救い主と信じて救われ、教会員になりました。外国出身のユダヤ人の中には既に2世、3世の人が少なくなかったのか、ヘブル語ではなく、日常会話はギリシャ語を使っていたので、いつとはなく生粋のユダヤ人との間に心の壁のようなものができてしまっていたのでしょうか。ただでさえ女性の地位が低い時代でした。特に、夫に先立たれた人は経済的にも貧しく、献金も思うようにできない有様ではなかったでしょうか。だから、普段の教会生活において、どうしても遠慮がちになります。

 今日の教会でも気をつけたいこと、それは、強い人、声高の人の意向に安易に従うことのない教会、遠慮がちな人の存在、弱い立場の人の存在を忘れない教会造りをして行きたいものです。

 ではどうすれば、それは可能になるのでしょうか。使徒たちは祈りました。その上で聖霊なる神が見事な解決へと導いてくださいました。7人の執事の選出です。使徒たちや牧師はどうしても日常の具体的な問題にかかわる時間的余裕がありません。また一般の教会員も悪気はなくてもともすれば、視野が狭くなり、自分を中心とした発言になり、行動になってしまいます。それを補うのが執事です。執事とは、新約聖書の言語によると、「配給する者」、また「分配する者」という意味です。「教会に出入りする人、特に弱い立場の教会員が、誰ひとり「日々の分配のことで、軽んじられることのないように」配慮する人です。「日々の分配」とは、何も物や金銭に限りません。何よりも「心を配る人」です。礼拝を終えて、ひとり寂しい気持ちで会堂から出て行く人が一人もないように目も心も配る、それが執事の役割です。

 ここで選出された第一号の執事たちの名前に注目してください。といってもわたしたち日本人がこの名前を読んだところで、それがどういう意味を持つのかよく分かりませんが、新約聖書の言語によると、何ということでしょう。これらの人はすべてギリシャ語を話すユダヤ人の間から選び出された人たちばかりです。彼らが執事として選ばれた選びの基準も詳しく述べられています。「聖霊と知恵に満ちた人」であります。知恵に満ちた人とはどういう人か、「信仰に満ちた人」であります。ただ聖書について詳しく知っているとか、事務能力があるとか、組織的であるというのではありません。それも大事ですが、その知恵が更に清められるには、イエス・キリストこそ教会の主、私たちの人生の支配者であることを信じている人でなければなりません。その意味でこの7人は教会全体から高く評価されていたのです。聖霊なる神の御配剤という外ありません。しかも、教会員の間からこの選出をめぐってひとりの反対者もなかったというのですから驚きです。教会は、ギリシャ語を話すユダヤ人、特に弱い立場のやもめが疎かにされていた事実を思い返し、素直に悔い改めた証拠ではないでしょうか。しかも、教会の在りようとはいったい何なのでしょうか。教会生活、信仰生活の基本は何なのかということに、全教会が立ち帰ったのです。皆さん何だと思いますか。それはね。「み言葉」ですよ。ひとりの教会員が軽視されているということは、ほかならぬみ言葉が軽視されているということなのです。弱い立場の人の教会生活が何らかの理由で満たされず、妨げられているということは、ほかならぬみ言葉が妨げられているのです。彼らは全員このことに思いを寄せて悔い改めたのです。いったい自分たちは何しに教会に来ていたのか。礼拝で何を聴いていたのかという、この一点に心を配る者と変えられていったのです。

 この基本に帰ったことによってこの教会は更に成長を遂げ、神のみ言葉がますます広まり、キリストの弟子とされる信仰決心者、バプテスマに与る人が起こされていきました。ハレルヤ!感謝です。祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。

 わたしたちは今朝与えられたみ言葉から、エルサレム教会における執事の選出という出来事を学びました。それは何もかも順調にことが運んでいるから、教会がもう一回り大きく成長するためにという動機からではありませんでした。事実はその反対で、「自分たちは何と愛のない配慮の足りない未熟な教会であったことか」という、悔い改めの表れとしてこの教会に執事が必要であると気付かされたからでした。全ての人に「教会に来てよかった、わたしは神とこの教会の人々に必要とされているのだ」と、確信を与えることのできる教会形成こそ必要であると気付かされたからでした。

 主イエス・キリストの父なる神さま、わたしたちもわたしたち仙川キリスト教会にとって、今日のみ言葉は必要でした。礼拝に来られる人の数が増し加わることだけを祈るのではなく、全ての人がイエス・キリストに出会うことができるために、先ずわたし自身が礼拝で与えられるみ言葉を妨げることのない者とならせてください。

 私たちの主イエス・キリストの御名によってこの祈りをおささげいたします。アーメン。


福音メッセージ一覧

集会案内

質問・メール

キリスト教イロハ

聖書を読む