【主日礼拝メッセ−ジ要約】                   2005年11月27日
 
「衝撃の福音」
ダニエル書8:15−27ルカよる福音書1:26−38

メッセージ  篠原健治協力牧師

    

1.天使ガブリエル

 天使ガブリエルは、ダニエルの見た幻に対して、次のように語ります。

「人の子よ、この幻は終わりの時に関するものだということを悟りなさい。」

                           (ダニエル書8:17)

また、天使ガブリエルは、主イエスの誕生についても、次のように語ります。

「天使は言った。『マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。(中略)彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。』」(ルカよる福音書1:30−33)

 「この世の終わり」「神の子が人間として肉体とを持って生まれる」という衝撃的なメッセージを伝えたのは、天使ガブリエルです。

2.衝撃を受けるダニエルとマリア

 世の終わりを見たダニエルは「疲れ果てて、何日か病気になっていた。(中略)この幻にぼう然となり、理解できずにいた。」 (ダニエル書8:27)

 神の子イエスを身籠もったことを知った「マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。」   (ルカよる福音書1:29)

3.「神への畏れ」を持つ者

 なぜ、ダニエルもマリアも衝撃を受けたのでしょうか。二人に共通する点は「神への畏れ」の念を抱いているということです。「神への畏れ」のない人にとっては、聖書の御言葉は単なる絵空事でしか過ぎません。

4.人間の限界

 しかし、私たちが、病気や試練に遭ったとき、何よりも地上の人生が有限であることを知った時「人間の限界」を痛感します。人間には限界があり、神様には限界がないという厳然たる事実を認めたとき、私たちは「神への畏れ」を抱きます。私たちが神の畏れを抱きつつ聖書の御言葉を読む時、福音が衝撃(力)を持って私たちの魂に迫ってくるのです。

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【主日礼拝メッセ−ジ】                  2005年11月27日

 
「衝撃の福音」
ダニエル書8:15−27ルカよる福音書1:26−38

メッセージ  篠原健治協力牧師

 

4月から1ヶ月ごとにダニエル書を読んできたわけですが、今月11月は第8章の御言葉に耳を傾けていきたいと思います。

そして、特に今日からアドベント―降誕節―が始まります。

 

 今日の聖書箇所

(1)旧約聖書ダニエル書8:15−27

(2)新約聖書ルカよる福音書1:26−38

に共通して登場するのは、すでにお気づきの方も多いかと思いますが、「天使ガブリエル」です。

(1)ダニエル書8:15−16

15:わたしダニエルは、この幻を見ながら、意味を知りたいと願っていた。
 その時、見よ、わたしに向かって勇士のような姿が現れた。
16:すると、ウライ川から人の声がしてこう言った。「ガブリエル、幻をこの人に説明せよ。」

(2)ルカよる福音書1:26

26:六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。

主イエスの誕生をおとめマリアに知らせたのも、天使ガブリエルでもあります。

 

私は、前もって計算したわけではありませんが、アドベント―救い主の到来を待つ時―

天使ガブリエルが、ダニエル書8章にも出てきたことは、神様の導きだと信じています。

 

 天使ガブリエルは、特に、重大なメッセージを知らせる重要な役割を果たす天使です。

(1)ダニエルに対しては「この世の終わり」を

(2)マリアに対しては「神の子が人間として肉体とを持って生まれる」

 という重要かつ衝撃的なメッセージを伝えるのは、天使ガブリエルです。

 そして、ダニエルもマリアも、天使ガブリエルの重大なメッセージに衝撃を受けます。

 一方、私たちはどうだろうか。

 聖書の御言葉を聞いても何の感動すら無かったとしたら…。

 

 今日は、ダニエル書第8章とルカよる福音書第1章とから

(1)どのように、ダニエルとマリアは、神の御言葉に衝撃を受けたのか

(2)なぜ、彼らは神の御言葉に衝撃を受けたのか

(3)そして、私達は、御言葉をどのように聞いていけばいいのか

 について、御言葉から力と方向性を見出していきたい。

 

 最初にダニエルの見た幻に注目していきましょう。

 ダニエルは、7章に続き、再び幻を見ます。ダニエルは

(1)二本の角のある雄の羊

(2)毛深い雄の山羊

 の二つの動物の幻を見ます。 

 それぞれの動物は、その後の国であることを天使ガブリエルは語ります。

 

20:お前の見た二本の角のある雄羊はメディアとペルシアの王である。
21:また、あの毛深い雄山羊はギリシアの王である。その額の大きな角は第一の王だ。
22:その角が折れて代わりに四本の角が生えたが、それはこの国から、
それほどの力を持たない四つの国が立つということである。

(1)二本の角のある雄の羊:メディアとペルシアの王

(2)毛深い雄の山羊の大きな角:ギリシャという国の元を作ったアレキサンドロス王

4つの国とは、その後のギリシャが、4つに分裂するということを預言したものです。

 第8章は、第7章で見た幻とは異なりますが、預言の内容には差はほとんどありません。

 

 むしろ、私たちが着目すべき大切なことは、8:17です。

「人の子よ、この幻は終わりの時に関するものだということを悟りなさい。」とある様に

「この幻は終わりの時に関するものだ」ということです。

 だからこそ、ダニエルは、次の8:18にあるように

18:「彼がこう話している間に、わたしは気を失って地に倒れた」のです。

 

 一方、マリアはどうでしょうか。

28:天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。
  主があなたと共におられる。」
29:マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。
30:すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。
  あなたは神から恵みをいただいた。
31:あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。
32:その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。
 神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。
33:彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」

 天使ガブリエルの、あまりにも唐突な内容に

29:マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。
 とあります。また、30節では
30:すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。」

から、マリアが「恐れていた」ことが読み取れます。

 いずれにせよ、ダニエルとマリアは、天使ガブリエルからのメッセージに衝撃を受けていることは確かです。

 それでは、私たちは、どうでしょうか。

 私たちは、天使ガブリエルからのメッセージだけでなく、聖書全体から衝撃を受けるということはあるでしょうか。

 聖書を読み始める契機は、人それぞれです。

 初めて新約聖書を手に取り、自分にとって役に立つ言葉はないかと探す人もいるかもしれません。

 マタイ1章のよく分からない人物名の羅列にめげずに読み進め、山上の説教の冒頭(マタイ5:3)「心の貧しいものは幸いである」

 という御言葉に衝撃を受ける人は多くいます。

 さらに読み進めて、意味を知りたいと教会の門を叩く人もいます。

 そして、聖霊の導きでキリスト者になる。そのような方もここにいるかもしれません。

 

 しかし、問題は、キリスト者になった後です。

 私たちは、ダニエルのように御言葉を聞き、「気を失って地に倒れる」ということがあるでしょうか。

 私たちは、マリアのように御言葉を聞き、考え込むことはあっても「恐れる」ということがあるでしょうか。

 ダニエルやマリアのようにいかなくても、最初の感動は、消え失せ、マンネリの信仰生活を送っているとしたら……。

聖書を開くことすらしていなとしたら……。私たちは、無感動なキリスト者として、与えれらた人生を終えたくはありません!

 

なぜ、ダニエルとマリアは天使ガブリエルのメッセージに衝撃を受けたのでしょうか。

ダニエルが「この世の終わりに関する幻」を見たことも衝撃的だったしょう。

マリアも天使のメッセージの内容は、自分が救い主を産むということなど、

あまりにも唐突でよく分からない部分が多かったでしょう。

しかし、二人に共通する点は、圧倒的な神の力の前にひれ伏すほど

「神を畏れている」ということです。

 神を畏れているからこそ、神の一言一言が衝撃(力)を持って迫ってきたからこそ、

ダニエルは気を失い、マリアは恐れたのです。

逆に、「神への畏れ」のない人にとっては、聖書の御言葉は単なる絵空事でしか過ぎません。

今日は11月最後の礼拝ですが、町はすでにクリスマス一色であります。

しかし、「神への畏れ」のないクリスマスは、本当の意味でのクリスマスではない。聖書を読むと、クリスマスの出来事の中で、マリアもヨセフも、占星術の学者たちも、「神への畏れ」を感じて、ひれ伏す場面が書かれています。

圧倒的な神の力に衝撃を受けるほど「神への畏れ」を感じるのが、本当のクリスマスなのです。

 

さて、「神への畏れ」を抱きながら、神の圧倒的力にひれ伏すダニエルとマリアに共通することとは何でしょうか。

 それは「人間としての限界」を知っているということです。

 神の圧倒的力の前に、自分がいかに無力であるかを知っているのがダニエルであり、マリアの姿です。

 「神にはとても太刀打ちできない」−だからこそ、ダニエルは気を失い、マリアは恐れたのです。

 

「人間としての限界」というと、キリスト教は人間の可能性を否定するのかと考える人もいるかもしれません。

 巷に溢れる自己啓発の本の多くが「人生には無限の可能性がある」という論調がほとんどです。

 私は、その内容を頭から否定するつもりはありませんが、だからと言って「すべての可能性を実現できる」というわけでもありません。

 私たちの地上の人生(時間)は有限であり、一つのことを行っていくためには他のことを捨てなければならないという厳然たる事実があります。

 やりたいことも、力不足で、諦めなければならないことも多いのも事実です。

「神と富に仕えてることはできない」(マタイ6:24)ことを知るべきです。

さらに、何でもできると思うこと自体、自分を何でもできる神の存在にまでしてしまい、自分が世界の中心という−エゴイズム−罪を犯しているということにもつながります。

 人間としての限界を知っているからこそ、ダニエルは神にすがるしかなかった。

 人間としての限界を知っているからこそ、マリアは神にその身を委ねるしかなかった。

 

「私たち人間には限界がある、しかし、神には限界がない」

この事実を認めない限り、私たちは「神への畏れ」を抱くことはないのです。

 「人間には限界がある、しかし、神には限界がない」ということは頭で理解できても、現代に生きる、特に日本人にとって、神の御言葉を聞いて衝撃的を受けるとか「神への畏れの念」を持つなどということはなかなか難しいのも事実です。

 むしろ、マンションの構造計算書に改ざんがあったことの方が衝撃的でしょう。

では、なぜ私たちが聖書の御言葉を聞いてもあまり衝撃を受けないのでしょうか。

(1)聖書に書かれてある地理的、歴史的、文化的背景に馴染みがない。
 荒れ野の中で民族が結束して生きていかなければならないとか、律法を重んじ、唯一の神を信じていることなど学ぶことによって聖書への理解は深まります。
 
(2)聖書の御言葉自体に力−衝撃力−があるという認識が十分でない。
 (特に、説教者である牧師が)余りにも聖書を分析的に読みすぎる傾向がある。
 聖書を原典で読むことは、一段と味わい深いものがありますが、それが余りにも行き過ぎて、分析的に読み過ぎると神の生きた言葉が単なる学術論文になってしまう。
(3)そして最大の問題は、「聖書は聖書」「現実は現実」と区別することです。

 「この世の終わり」についてダニエル書に書いてあっても、単なる聖書の中でお話しとして完結してしまっている。

 現実の生活、現実の人生においてどう信じ、どう生きていくのかというところまで落とし込まれていかないと御言葉が上滑りしてしまうのです。

 言い換えれば「聞くだけで終わっている」姿勢こそ御言葉を骨抜きにし、「神への畏れ」すら感じさせないものにさせる最大の原因です。

 

 私は、聖書通読が重要であることは分かっていても、なかなか長続きしませんでした。

 何かいい方法はないかと思い悩んでいた時出会ったのが、日々の聖書通読−ディボーション−です。

 ディボーションとは、一人で聖書を読み、祈り、御言葉から神様のメッセージを受け取っていく個人的礼拝のことです。

 ディボーションのやり方等については、12月から始まる木曜祈祷会で詳しくやっていきます。

 ディボーションの素晴らしさは、ディボーションのテキストを使って、

(1)聖書に書かれてある地理的、歴史的、文化的背景に触れつつ、

(2)聖書の御言葉自体を味わい、力を受け、

(3)御言葉から「今日(本日)自分は何をすべきか」をと黙想するなど

 大変豊かな時が持てるすばらしいものです。

 私は、ディボーションを通して、神様の偉大さ、真剣さ、そして畏れを日々実感しています。

そのようなディボーションのやり方及び恵みの分かち合いの時を12月15日(木)からの木曜祈祷会では行っていく予定ですので、

ぜひ参加いただきたいと思います。

 

 さて、ここまで、私達は、ダニエル、マリアが神への圧倒的力に衝撃を受け、神への畏れを抱いく場面を見てきました。

 聖書の中では、何もダニエル、マリアだけが、神への畏れを抱いたわけではありません。

 モーセ然り、ダビデ然り、イザヤをはじめ多くの預言者がそうです。また、使徒パウロも神への畏れを抱き、信じました。

 それらに続く、私たちの信仰の先達たちもそうです。これらの人たちは、一体何に圧倒されたのでしょうか。

 

 それは、神の余りにも激しい「真剣さ」に圧倒されたのです。

 「必ず罪が支配するこの世の終わりが来る」「その主導権は神である私にある」という神の「真剣さ」にダニエルは畏れを抱いたのです。

 「罪のために神の子イエスは死ぬ」という神の「真剣さ」にマリアは圧倒されたのです。

 

 神様は、一貫して「人間が罪の奴隷になって欲しくない」という“想い”を持って私達と真剣に関わろうとしてするお方なのです。

 神様は、一貫して「私達が罪の奴隷になって欲しくない」という切なる“願い”を持って私達と真剣に関わろうとしてするお方なのです。

 神様は、一貫して「あなたが罪の奴隷になって欲しくない」という“熱情”を持って私達と真剣に関わろうとしてするお方なのです。

 

 「人間が罪の奴隷になって欲しくない」という「真剣さ」故に、天の父なる神様は、そのひとり子イエスを地上に送り、罪の身代わりとして十字架に架けたのです。

 「人間が罪の奴隷になって欲しくない」という「真剣さ」故に、天の父なる神様は、イエスを復活させ、罪にそして死に勝利できることを示されたのです。

 「私達がいつまでも罪の奴隷になって欲しくない」という「真剣さ」故に、天の父なる神は、主イエスの再臨されることを通して、この地上に神の国ができることをダニエルに示されたのです。

 

 天の父なる神様が、これほどまで「真剣」であることを宣べ伝えるのがクリスマスです。

 天の父なる神が、これほどまで「真剣」であることを宣べ伝えるのが世界祈祷週間です。

 

 神様の真剣さに突き動かされた多くの人が福音を宣べ伝えた結果、全世界に福音が広がった。それが世界で祝われるクリスマスなのです。

 それほど、福音は衝撃的であり、力があるものなのです。

 神様の真剣さに突き動かされた3組の宣教師が、私達の日本バプテスト連盟から派遣されて、タイ、シンガポール、ルワンダに送り出されている。

 それほど、福音はこの瞬間においても、衝撃的であり、力があるのです。

 

 皆さん、神様が真剣なのに、聞く私達が真剣でなかったとしたら、お互いにかみ合うわけがありません。

 ですから、私達が福音に衝撃を受けるかどうかの分かれ目は、私達が、どれ程、真剣に御言葉に取り組んでいくかにという私達の姿勢が最終的に問われるのです。

 

 神様が、どれほど真剣であるのかを御言葉を通して知るディボーションの機会をぜひ活用していただきたい。

 神様が、どれほど私達に対して真剣であるのかを実感しながらクリスマスの時を過ごしていきたい。

 神様が、どれほど私達に対して真剣であるのかを全世界に伝えるのが、世界祈祷週間であること忘れないでいただきたい。

 

 最後に、御言葉を通して、福音に衝撃を受けたダニエルとマリアの姿と私達の姿とを重ねていきたいと思います。

 

 ダニエルの姿です−。

27:わたしダニエルは疲れ果てて、何日か病気になっていた。
 その後、起きて宮廷の務めに戻った。
 しかし、この幻にぼう然となり、理解できずにいた。

 マリアの姿です−。

29:マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。
30:すると、天使(ガブリエル)は言った。「マリア、恐れることはない。
 あなたは神から恵みをいただいた。

 祈ります。

<祈り>

 ご在天の父なる神様、あなたが偉大な方であり、すべてを支配される方であります。

 しかし、私達は、愚かにも、自分の力ですべてを成そうとしてもがき苦します。

 「人間には限界がある、しかし、神には限界がない」ということを思い知らされることがありますが、その様な時ほど、あなたが私達に真剣に関わろうとされていることを私達が思い起こすことができますように。

 私達の属する日本バプテスト連盟から派遣されている3組の宣教師のことを覚えます。

 送り出された3組の宣教師の方々が、あなたの御言葉によって力を受けますように。

 また、送り出した私達が、何よりもあなたの御言葉によって力を受け、祈りを合わせていくことができますように導いて下さい。

 この祈りを、生きた力ある御言葉の主イエス・キリストの御名でお祈りします。

                                   アーメン。 


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