クリスマス主日礼拝メッセ−ジ要約】                         2005年12月25日
 
「悔い改めのクリスマス」
ダニエル書9:1−27
マルコ1:14−15
メッセージ 篠原健治協力牧師

                       

1.激しい祈りをするダニエル

 ダニエルは、主なる神を仰いで断食し、粗布をまとい、灰をかぶって祈りをささげ、嘆願します。(3節)ダニエルは自分のことだけでなく、自分の民が犯した罪を「自分のこと」として真剣に捉え、神に赦しを求めるのです。

 「わたしたちは罪を犯し悪行を重ね、背き逆らって、あなたの戒めと裁きから離れ去りました」(5節)「主よ、聞いてください。主よ、お赦しください。主よ、耳を傾けて、お計らいください。わたしの神よ、御自身のために、救いを遅らせないでください。」(20節)

2.天使ガブリエルの応答

 ダニエルの激しい「悔い改めの祈り」です。ダニエル祈りに対して、神様は天使ガブリエルを使わします。「こうして訴え祈っていると、先の幻で見た者、すなわちガブリエルが飛んで来て近づき、わたしに触れた」(21節)天使ガブリエルの応答は次のようなものでした。「(中略)油注がれた者は/不当に断たれ/都と聖所は/次に来る指導者の民によって荒らされる」(26節)

3.油注がれた者=キリスト

 油注がれた者とは、「救い主」すなわち「キリスト」のことを指します。

ガブリエルは救い主が不当に断たれること−十字架−をも預言しました。クリスマスは「イエス・キリスト」のお誕生をお祝いする時です。しかし、私達が忘れてならないのは、クリスマスは、その以前に預言者たちの「激しい祈り」があったということ。そして何よりも、救い主は、不当に断たれる−十字架−ために生まれてきたということなのです。

4.真の「悔い改め」の機会であるクリスマス

 私達は「あーすればよかった」と「悔いる」ことはあっても「改める」ことが少ないのも事実です。そして、同じ事を繰り返していく惨めな者でもあります。クリスマスを真の「悔い改め」の機会であると捉える時、クリスマスが、私達にとってまさに「救い主」がお生まれになった時となるのです。

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クリスマス主日礼拝メッセ−ジ】                         2005年12月25日

 
「悔い改めのクリスマス」
ダニエル書9:1−27
マルコ1:14−15
メッセージ 篠原健治協力牧師

 

 今日は、クリスマス礼拝そして2005年最後の礼拝でもあります。

 私は、単にクリスマス礼拝のメッセージを取り次ぐだけでなく、同時に今年1年の歩みを振り返っていくことも必要だとも考えました。

 そのような時に、ダニエル書9章の御言葉に耳を傾けていくことで、クリスマスの恵みと今年1年の歩みを振り返る時としていきたいと願っております。

 

 第9章を読んでいく時、一貫しているのは「悔い改め」です。

1.ダニエルの激しい「悔い改め」の祈りなくして、救い主の誕生はなかったということ。

2.なぜ、ダニエルは激しい「悔い改め」の祈りをしなければならなかったのか。

3.そして、現代に生きる私達にとって「悔い改め」とクリスマスはどんな関係があるのかについて御言葉に聞いていきたい。

 

1.ダニエルの激しい「悔い改め」の祈りなくして、救い主の誕生はなかったということ。

(1)時代背景

1:ダレイオスの治世第一年のことである。ダレイオスはメディア出身で、クセルクセスの子であり、カルデア人の国を治めていた。
2:さて、わたしダニエルは文書を読んでいて、エルサレムの荒廃の時が終わるまでには、 主が預言者エレミヤに告げられたように七十年という年数のあることを悟った。

 イスラエルの国としての歴史は、紀元前2090年頃に、神のアブラハムの約束に基づいて始まります。

 紀元前1445年頃に、モーセの指導で、民はエジプトから解放されます。

 その後、ヨシアの元、約束の地にカナンの地に入ります。

 師士の時代を経て、紀元前1043年に、サウルが最初の王になります。

 サウルが王になってから、民は不従順になり、モーセの律法を守らなくなります。

 その後、ダビデ王、ソロモン王の時代繁栄を極めますが、国は南北に分裂します。

 南北に分かれた隙をつかれるように、大国バビロンに捕囚として民が連れて行かれます。

 <日本人にはピンと来ない捕囚−特に信仰の問題>

 バビロンに連れて行かれた中にダニエルがいたのです。

 優秀であったダニエルは、自分の信仰を守りながらも異国の地で、次々と変わる王に忠実に仕え続けます。(1節)

そして、ダニエルは、エルサレムの荒廃の時の終わり、すなわち捕囚の終わりまで70年かかることを悟ります。(2節)

 

(2)激しい祈りをするダニエル

 そのような中、ダニエルは激しい祈りを始めます。

  3:わたしは主なる神を仰いで断食し、粗布をまとい、灰をかぶって祈りをささげ、 嘆願した。

断食をし、粗布をまとい、灰をかぶるとは、祈りに集中するために当時のユダヤ人が行う慣習です。

そして、4節以降ダニエルの激しい祈りが始まります。

 4節から7節、及び祈りの最後である19節を読んでいきます。

4:わたしは主なる神に祈り、罪を告白してこう言った。
「主よ、畏るべき偉大な神よ、主を愛しその戒めに従う者には契約を守って
慈しみを施される神よ、
5:わたしたちは罪を犯し悪行を重ね、背き逆らって、あなたの戒めと裁きから
離れ去りました。
6:あなたの僕である預言者たちが、御名によってわたしたちの王、
指導者、父祖、そして地の民のすべてに語ったのに、それに聞き従いませんでした。
7:主よ、あなたは正しくいます。わたしたちユダの者、エルサレムの住民、
すなわち、あなたに背いた罪のために全世界に散らされて、
遠くにまた近くに住むイスラエルの民すべてが、
今日のように恥を被っているのは当然なのです。
19:主よ、聞いてください。主よ、お赦しください。
 主よ、耳を傾けて、お計らいください。
 わたしの神よ、御自身のために、救いを遅らせないでください。
 あなたの都、あなたの民は、御名をもって呼ばれているのですから。」

 以上が、ダニエルの激しい「悔い改め」の祈りです。 

 

(3)祈りの応答

 ダニエルの激しい「悔い改め」の祈りに対し、神様は天使ガブリエルを使わします。

21:こうして訴え祈っていると、先の幻で見た者、
 すなわちガブリエルが飛んで来て近づき、わたしに触れた。
 それは夕べの献げ物のころのことであった。
22:彼は、わたしに理解させようとしてこう言った。
 「ダニエルよ、お前を目覚めさせるために来た。
23:お前が嘆き祈り始めた時、御言葉が出されたので、それを告げに来た。
 お前は愛されている者なのだ。この御言葉を悟り、この幻を理解せよ。
26:その六十二週のあと油注がれた者は/不当に断たれ/都と聖所は/
次に来る指導者の民によって荒らされる。

 

 六十二週とは、本当に六十二週なのか、いろいろな解釈がありますが、ここでは神様が定めた時と捉えていきます。

 むしろ、大切なことは、「六十二週のあと油注がれた者は不当に断たれる」という箇所です。

 「油注がれた者」とは「救い主」、すなわち「イエス・キリスト」のことを指します。

 天使ガブリエルは、確かに「救い主」=「イエス・キリスト」の誕生をダニエルに預言しています。

 天使ガブリエルは、主イエスの誕生を母マリアにも告げる役割をも果たしてします。

 

(4)クリスマスの背後にあるもの

 ダニエルの激しい悔い改めの祈りに神様は、「油注がれた者」「救い主」「イエス・キリスト」をこの世に送ることを約束されたのです。

 神様は、思いつきで、「イエス・キリスト」をこの世に送られたのではないのです。

 私達は、クリスマスの背後には、ダニエルの激しい悔い改めの祈りがあったということを知るべきです。

 ダニエルだけでない。エレミヤ、エゼキエルなどの預言者も悔い改め、救い主の到来を待ち望んでいたのです。

 主イエスの御降誕をお祝いするクリスマスの背後には、預言者たちの激しい悔い改めの祈りがあったのです。

クリスマスの背後に、ダニエルをはじめ預言者たちの激しい祈りがあることを知る時、私達は、クリスマスの意義を別の面から味を合うことができるのです。

 

2.なぜ、ダニエルは激しい「悔い改め」の祈りをしなければならなかったのか。

(1)激しい祈りをするダニエルの理由

 ところで、なぜ、ダニエルはこれほどまで激しい「悔い改め」の祈りをしなければならなかったのでしょうか。

 それは、祖国イスラエルが、あまりにも罪によって汚されていたからです。

なぜ、イスラエルは南北に分断され、補囚の憂き目に合わなければならなかったのか。

 いろいろな原因がありますが、一言で言うならば、神を神としない「偶像礼拝」の罪の結果です。

ダニエルも次のように告白しています。

10:あなたの僕である預言者たちを通して与えられた、
律法に従って歩むようにという主なる神の声に聞き従いませんでした。
11:イスラエルはすべて、あなたの律法を無視し、御声に耳を傾けませんでした。
ですから、神の僕モーセの律法に記されている誓いの呪いが、わたしたちの上にふりかかってきたのです。
あなたに対して罪を犯したからにほかなりません。

 モーセの律法は色々ありますが、律法の中核をなすのが「十戒」であり、その第1戒が「わたしをおいて他に神はない」です。

 イスラエルの不幸の歴史は「神以外の自分の都合に合った神を作り、偶像に従った」歴史でもあります。

 偶像とは、時に「金の子牛」であり「金銀」であり「繁栄」であり、時に「自分」が神となっていったのです。

ダニエルは、人々の犯した偶像礼拝に端を発する罪の数々を自分のこととして捉え、激しく悔い改めるの祈りをするのです。

 だからこそ、4節から19節の祈りの中で、ダニエルは19回も「わたしたち」と語っているのです。

 

(2)「わたし」から「わたしたち」へ

 私は、このダニエルの祈りの姿から、ハッ気づかされる思いになったのです。

 その前に、今年1年、十分に祈ることができなかったこともあります。

 しかし問題は、その十分に祈れなかった中での祈りの中身です。

 「わたしのこと」、「わたしの教会」、「わたしの属する教派」に関することは確かに祈ったかもしれない。

 では、「わたしたちのこと」でどれだけ祈ったであろうか。

 「わたしたちの国」のことでどれだけ祈ったであろうか。

 だれしも、わたしたちの国日本が明らかにおかしな方向に進みつつあるとうすうす感じています。

 連続する少女殺人事件、マンションの強度疑惑、勝ち組負け組、ニートの問題。日本と近隣諸国との問題など、問題が山積して行き詰まっているのが日本の現状なのです。

 そのような中、わたしたちは、どれほど「わたしたちのために」祈ってきたでしょうか。

 

 祈りが「わたしのこと」〔単数形〕だけでなく「わたしたちのこと」〔複数形〕を含めて祈ろうとする時、祈りは質量共に拡大し、私たちは、ダニエルのように祈らずにはいられなくなるのです。

 

3.悔い改めのクリスマス

 ここまで、クリスマスの背後に、預言者たちの激しい祈りがあったこと。

 ダニエルが「わたしたちの罪」として祈りを行ってきたことを見てきました。

 また、私たちが祈るべきことが多いことにも気づかされました。

 

(1)「自己中心性=エゴ」

 ところで、昨今のいろいろな問題に共通することは、「自分さえよければいい」という人間の持つ「自己中心性=エゴ」に結局帰着するのです。

 マンションの耐震強度疑惑など自己中心性の典型的例です。

 むしろ、今まで見えなかった日本中の「自己中心性=エゴ」が時代と共に大きな波となって押し寄せてきている。

 ですから、来年はもっと「自己中心性=エゴ」が明らかにある事件が、ますます続発すると私は予想しています。

 下手をすると、押し寄せる「自己中心性=エゴ」という大きな波に私たち−キリスト者−も飲み込まれる可能性は大いにあるのです。

 なぜなら、エゴのない人間はいないからです。(私もそうです)

 人間の自己中心性によって、救い主が殺されることを天使ガブリエルは語っています。

 26節をご覧下さい。

 「その六十二週のあと油注がれた者は/不当に断たれ/」
 救い主が自分たちの救いに役に立たないと思うと、人々は「十字架につけろ」と叫び、キリストを十字架につけて殺してしまう。それほど、人間は罪深いのです。

 神の御一人子を殺してしまうほど、なぜ人間は罪深いのでしょうか。

 それは、自分が変わろうとはせず、神の側を自分の都合のいいように変えようとする頑固さが、私たちの中に根深くあるからです。

 例えば、自分に都合のいい御言葉には耳を傾ける。裁きの言葉は避けようとする。

 「神を神としない」という性質は、何もイスラエルの民だけでなく、全人類に共通する罪−原罪−なのです。

 

(2)悔い改めとは−

 皆さん、神様は悪くないのです。罪深いのは、私たち人間の側なのです。

 「悔い改める」とは、神の位置を変えることではなく、人間がその位置を神の側にガラリと転換することなのです。

 私たちが変わることなしに「悔い改め」はないのです!

 今年1年「あーすればよかった」と「悔いる」人は多いと思います。

 しかし、「改める」人は少ないのです。

 なぜか−。

 それは、自分が変わろうとはせず、神を自分の都合のいいように変えようとする頑固さ、つまり、「原罪」との壮絶な闘い抜きには、真の悔い改めはないのからなのです!

 だから、ダニエルは、「主なる神を仰いで断食し、粗布をまとい、灰をかぶって祈りをささげ、嘆願した」のです。

 ダニエルは、人間が変わろうとはせず、神を人間の都合のいいように変えようとする−根深い原罪−があることを十分知っていたからこそ、壮絶な祈りをせざるを得なかったのです。

 

(3)復活の光に照らされながら悔い改める

 それでは、私たちも、ダニエルと同じように「主なる神を仰いで断食し、粗布をまとい、灰をかぶって祈りをささげる」必要があるのでしょうか。

 私は、断食し、粗布をまとい、灰をかぶってとまでいかなくても、もっと祈りに集中する時が必要だと痛感しています。

 なぜなら、私も「悔いる」ことは多くても「改める」ことが少ない者だからです。

 

 ただ、忘れてはならないことがあります。

 ダニエルと私たちの大きな差は、私たちには「復活の主」がいて下さるということです。

 主イエスは、人間のエゴの犠牲となり十字架上で死なれましたが、それで終わるではありませんでした。

 もし、主イエスが、人間のエゴの犠牲となり十字架上で死んで終わりだとすれば、神よりも人間のエゴの力が強いと言うことになります。

 所詮、神も人間のエゴには太刀打ちできないということなのでしょうか。

 

 しかし、私たちの主イエスは、人間のエゴを打ち破って、復活されたのです!!

 人間のエゴに勝利された主イエスが、今も、この瞬間も生きて下さっている。

 信じる者にはエゴに勝利できる絶大な力を、なかなか「改める」ことのできない私たちのために示して下さったのです。

 ですから、ダニエルと私たちとは大きく違うのです。

 

 昨夜のクリスマスイブ礼拝は、とても素晴らしいものでありました。

 ろうそくの光を通して、いろいろなことを神様が教えて下さったからです。

 

 クリスマスの光は、私たちの罪を照らすだけではありません。

 クリスマスの光は、悔い改めの勝利の光でもあるのです。

 

私たちは、クリスマスの光に照らされながら、悔い改めることができるのです。

私たちは、復活の光に照らされながら、悔い改めることができるのです。

 なんという恵み、なんという感謝でしょうか。

 2005年最後の礼拝、そして来る2006年を迎える今日の礼拝において、最後に復活の主である主イエスの御言葉を聞いて祈りを捧げていきます。

マルコ1:15

 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」

 

<祈り>

  天の父なる神様、クリスマスの恵みを感謝します。

  また、2005年の歩みが守られたことも感謝します。

  私たちは、「悔いる」ことはあっても「改める」ことの少ない者です。

  しかし、私たちは、主イエスの復活の光によって、「エゴ」が克服できることを知らされております。

  主よ、私たちがどうか復活の光に照らされながら悔い改めていくことができますしょうに。

 この祈りを、復活の主イエス・キリストの御名でお祈りします。


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