【 主日礼拝メッセ−ジ要約】                         2006年1月15日
 
「真理を聞く器として」
ダニエル書10:1-11:1
コリントの信徒への手紙4:7
メッセージ 篠原健治協力牧師

 

1.倒されるダニエル

 「ダニエルに一つの言葉が啓示された。この言葉は真実であり、理解するのは非常に困難であったが、幻のうちに、ダニエルに説明が与えられた」(1節)

 優れた預言者であったダニエルでさえ理解できない言葉が、神様から与えられました。その頃ダニエルは、この神の言葉を理解するために、美食を避け、体に香油も塗らずに格闘します。(3節)次に、ダニエルは、チグリス河の岸で、麻の衣を着、純金の帯を腰に締めて立っている人物を見ます。(4−5節)そして、ダニエルは意識を失い、地に倒れます。(9節)

2.引き起こされるダニエル

 倒れたダニエルは、引き起こされます。「ダニエルよ、恐れることはない。神の前に心を尽くして苦行し、神意を知ろうとし始めたその最初の日から、お前の言葉は聞き入れられており、お前の言葉のためにわたしは来た。」(12節)

3.御言葉を聞くダニエル

 次に、人の子のような姿の者がダニエルに近づき、力づけ、次のように語ります。「恐れることはない。愛されている者よ。平和を取り戻し、しっかりしなさい。」(19節)そして、人の子のような姿をした者は、ダニエルに語ります。「真理の書に記されていることをお前に教えよう。」(21節)

4.なぜダニエルは倒されたのか

 ダニエルは、神の力によって(1)「倒され」(2)「引き起こされ」(3)「御言葉を聞く」という過程を経ます。なぜ、ダニエルは神の力によって倒されたのでしょうか。ところで、使徒パウロは、人間を「土の器」と呼び、その「土の器」に神の力(御言葉)が入ると語ります。(コリントの信徒への手紙4:7)ダニエルは、民が罪に陥っていることを憂い、心(土の器)が破裂しそうでした。だからこそ、神様は、ダニエルに御言葉を語る前に、ダニエルという「土の器」を倒され、中にある諸々の悩み、苦しみを一気に吐き出させたのです。そして、ダニエルは、初めて御言葉を聞ける状態になれたのです。

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【主日礼拝メッセ−ジ】                          2006年1月15日   

「真理を聞く器として」
ダニエル書10:1-11:1
コリントの信徒への手紙4:7
メッセージ 篠原健治協力牧師
 

<序> ダニエル書10章を読んでいきます。

 ダニエル書10章を理解するためのキーワードは「3つ」です。

1.「倒れる」
2.「引き起こされる」
3.「聞く」

 この3つのキーワードは、その中身だけでなく「倒れる」「引き起こされる」「聞く」の順序も重要になります。

 「倒れる」「引き起こされる」「聞く」の3つのキーワードを用いながら、神様がダニエルにそして私たちに何を語り、

 何をなさろうとしているのかを聞いていきたい。

 

1.10章の概要

(1)格闘するダニエル

1:ペルシアの王キュロスの治世第三年のことである。ベルテシャツァルと呼ばれる
 ダニエルに一つの言葉が啓示された。この言葉は真実であり、理解するのは非常に困難であったが、幻のうちに、ダニエルに説明が与えられた。
 ダニエルに理解するのは非常に困難な言葉が与えられます。
 私たちも、聖書の御言葉を読み、意味が分からないということがしばしばあります。
 しかも「幻」というかたちで、説明がダニエルに与えられたのですから、大変です。
 そこで、ダニエルは、御言葉と格闘します。
2:そのころわたしダニエルは、三週間にわたる嘆きの祈りをしていた。
3:その三週間は、一切の美食を遠ざけ、肉も酒も口にせず、体には香油も塗らなかった

 ダニエルは、食事らしい食事もしませんでした。香油も塗らなかったとは、風呂にも入らなかったということです。

そこまでして、ダニエルは、御言葉と格闘します。

 

(2)倒されるダニエル

 御言葉と格闘するダニエルに幻が示されます。

4:一月二十四日のこと、チグリスという大河の岸にわたしはいた。
5:目を上げて眺めると、見よ、一人の人が麻の衣を着、純金の帯を腰に締めて立っていた。
6:体は宝石のようで、顔は稲妻のよう、目は松明の炎のようで、腕と足は磨かれた
 青銅のよう、話す声は大群衆の声のようであった。
7:この幻を見たのはわたしダニエルひとりであって、
共にいた人々は何も見なかったのだが、強い恐怖に襲われて逃げ出し、隠れてしまった。
 そして、ダニエルは倒れてしまいます。
8:わたしはひとり残ってその壮大な幻を眺めていたが、力が抜けていき、
姿は変わり果てて打ちのめされ、気力を失ってしまった。
9:その人の話す声が聞こえてきたが、わたしは聞きながら意識を失い、地に倒れた。

(3)引き起こされるダニエル

御言葉と格闘し、幻を見て、倒れてしまったダニエルはどうなったのでしょうか。

10:突然、一つの手がわたしに触れて引き起こしたので、わたしは手と膝をついた。
11:彼はこう言った。「愛されている者ダニエルよ、
わたしがお前に語ろうとする言葉をよく理解せよ、そして、立ち上がれ。
わたしはこうしてお前のところに遣わされて来たのだ。」
こう話しかけられて、わたしは震えながら立ち上がった。

(4)御言葉を聞くダニエル

 ダニエルは、引き起こされ、立ち上がります。

 そして、神の御言葉を聞きます。

16:すると見よ、人の子のような姿の者がわたしの唇に触れたので、わたしは口を開き、 前に立つその姿に話しかけた。
「主よ、この幻のためにわたしは大層苦しみ、力を失いました。
17:どうして主の僕であるわたしのような者が、主のようなお方と話すことなどできまし ょうか。力はうせ、息も止まらんばかりです。」
18:人のようなその姿は、再びわたしに触れて力づけてくれた。
19:彼は言った。「恐れることはない。愛されている者よ。平和を取り戻し、
しっかりしなさい。」こう言われて、わたしは力を取り戻し、こう答えた。
「主よ、お話しください。わたしは力が出てきました。」
20:彼は言った。「なぜお前のところに来たか、分かったであろう。
今、わたしはペルシアの天使長と闘うために帰る。
わたしが去るとすぐギリシアの天使長が現れるであろう。
21:しかし、真理の書に記されていることをお前に教えよう。
お前たちの天使長ミカエルのほかに、これらに対してわたしを助ける者はないのだ。

 こうして、ダニエルは、「真理の書」に記されている神の御言葉を聞くのです。

 ダニエルが、「倒され」「引き起こされ」そして神の御言葉を「聞く」という3つの過程(プロセス)を経たことが、10章全体からよく分かります。

 

2.なぜダニエルは倒されたのか

(1)倒されたダニエル

 このように、ダニエルは「倒され」「引き起こされ」「聞く」という3つの過程を経ました。

御言葉と格闘したダニエルは、なぜ倒される必要があったのでしょうか。

ダニエルを倒したのは、神の力です。

なぜ、神様は、優れた預言者であるダニエルをあえて倒されたのでしょうか。

 

(2)「土の器」である人間

 ところで、使徒パウロは、コリントの信徒への手紙II 4:7で人間を「土の器」と呼び、その「土の器」にキリストが入ると語ります。

7:ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。

この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが

明らかになるために。

 このような宝とは、前の6節までを読むと、キリストのことを指しています。

 土の器に入る神の力−。

 土の器に入るキリスト−。

 土の器に入る神の御言葉−。

 私たち人間は「土の器」に神に御言葉を入れる存在なのです。

 神は、ダニエルという「土の器」に神の御言葉を入れられたのです。

 その「土の器」であるダニエルをなぜ神様はあえて倒されたのか。

 

(3)ダニエルにあった憂い

 1:ペルシアの王キュロスの治世第三年のことである。

この時代、ペルシャに強制移民させれていたイスラエルの人々の帰還がすでに始まっていました。

 ダニエルは、母国には帰らず、ペルシャに残っています。

 ペルシャに残った理由は不明です。

 母国に帰っても民の罪の問題が自動的に解決するとは考えていなかったでしょう。

 民のことを思い憂いていたかもしれません。

 いずれにせよ、ダニエルの心の中に「何か」があったハズです。

 なぜなら、ダニエルは預言者として、人間の罪に人一倍敏感であったことには間違いないからです。

 ダニエルという「土の器」の中には憂い、苦しみ、悩みが渦巻いていたのです。

 

(4)あえて倒されたダニエル

 だからこそ、神様は、ダニエルに御言葉を語る前に、ダニエルという「土の器」をあえて倒され、中にある諸々の悩み、憂い、苦しみを一気に吐き出させたのです。

 そして、ダニエルは、初めて御言葉を聞ける状態になれたのです。

 ダニエルは、あえて「倒される」必要があったのです。

 

(5)詰め込むこもうとする人間

 同じ「土の器」である私たちも同じです。

 私たちの内側には、常に悩みがあり、苦しみがあり、憂いがあります。

 何とかそれらの問題を解決しようとします。

 ある人は、聖書の御言葉に聞こうとして、聖書を開きます。教会にも来ます。

 しかし、現実の人生は「一難去ってまた一難」です。

 つまり、私たちは、土の器の内部にいろいろな課題を入れながら、さらに神の言葉を器の中に詰め込もうとしているのではないでしょうか。

 土の器ですから、パキンと壊れてしまいます。土の器にあるものを出さない限り、神の御言葉は私たちの中に入っていかないのです。

 土の器である私たちに必要なことは、「ガラガラぽん」なのです。

 

(6)空の器に

 ダニエルという土の器が倒された後どうだったでしょうか。

16:すると見よ、人の子のような姿の者がわたしの唇に触れたので、わたしは口を開き、前に立つその姿に話しかけた。

 「人の子」が登場します。

 人の子とは、後の「イエス・キリスト」のこと(預言)です。

私は、ダニエルという土の器が倒され、中身がなくなった後にキリストが来たということに神様の偉大なご計画を見る思いがします。

そして、ダニエルは力が出てきます。

18:人のようなその姿は、再びわたしに触れて力づけてくれた。
19:彼は言った。「恐れることはない。愛されている者よ。平和を取り戻し、
しっかりしなさい。」こう言われて、わたしは力を取り戻し、こう答えた。
「主よ、お話しください。わたしは力が出てきました。」

 神様は、土の器を倒したままにされなかった。

 倒れた器を立ち上がらせて下さったのはキリスト・イエスなのです。

 イエス・キリストを私たち(土の器)にお迎えするためには、神の言葉を私たち(土の器)に入れていくためには、

「倒される」「引き起こされる」そして「聞く」というの3つプロセスが必要なのです。

 

3.私たちにとって「土の器」を空にするとは

(1)私たちにとって

 それでは、私たちにとって「土の器」を空にするというのはどういうことなのでしょうか。

 私たちが、器を倒して、問題を簡単に外に出すことはなかなかできません。

 「土の器」を空にするとは、いろいろある問題を「一旦横に置く」ということです。

 あえて「中断する」ということでもあります。

 あえて「横に置き」「中断」してみて、神の言葉を聞いていく。

 こうしていかないと、神の御言葉はなかなか「土の器」に入ってこないのです。

 

(2)あえて空にする

 主日礼拝、祈祷会に参加することも「中断する」「土の器を空にする」ことにつながります。日々のディボーションも同じです。

私たちは、今とても凄まじく動いている時代に生きています。

 放っておいてもいろいろなものが、私たちの「土の器」に怒濤のようにいつの間にか入り込んでくるのです。

 そして、パンクしてしまう。

だからこそ、一旦、土の器を空にするということを意識的に行わないと大切な神の御言葉も入ってこないのです。

 

(3)試練の中にある人

 今、試練の中にあるという人がいるかもしれません。

 それは、神様が、あえてあなたという「土の器」を倒してくださり、一旦すべてを外に出すように導いてくれているのかもしれません。

 すると、試練の捉え方がガラリと変化するのです。

 

(4)空にするディボーション

 毎日5分でもいい。一旦土の器を空にして、御言葉をその中に入れていく−それが日々のディボーションなのです。

 その積み重ねが、試練に負けない土の器、たくましい土の器へと私たちを変えていくのです。

それが信仰生活なのです。

 

4.土の器を洗い清める十字架

(1)土の器の中にあるもの

 ところで、皆さん、私たちの土の器には何が入っているでしょうか。

 何がこびり付いているでしょうか。

 そして、皆さん−。

 いろいろ溜まった土の器が、自らの土の器を洗い清めることができるでしょうか。 

 罪だらけの土の器が、どうして自らの罪を洗い清めることができるでしょうか。

 

(2)十字架

 先ほど、土の器である私たちに必要なことは「ガラガラぽん」と言いました。

 神様が、私たちのためにして下さった最大の「ガラガラぽん」とは何か。

 それは、主イエスの十字架です。

 私たち人間は、神の子主イエスが役に立たないと思えばいとも簡単に十字架につけてしまうほど罪深いのです。

 そんな罪深い土の器でも、赦され、洗い清めて下さるほど、神様は私たちと真剣に関わろうとされるお方なのです。

 主イエスが、自分の持つ罪の性質の身代わりであったことを信じる時、罪だらけの土の器は罪赦される。

 そして、聖霊が、土の器である私たちを常に洗い清めてくれる。

 これが、聖書の語る「救い」の中心点なのです。

 

(3)「倒され」「引き起こされ」「聞く」

 ダニエルは、「倒され」「引き起こされ」そして、初めて真理の御言葉を「聞く」ことができるようになりました。

 私たちは、今、もしかして倒れているかもしれません。

 神様は、ダニエルを引き起こして下さったように、私たちをも引き起こして下さるお方なのです。

 なぜなら、天の父なる神様は、私たちが「真理の言葉」を聞く「土の器」であって欲しいと切に願っておられるからなのです。

 最後に、私たちの土の器に次の御言葉を入れていきたいと思います。

 ダニエル書10:21
21:真理の書に記されていることをお前に教えよう。
 
 コリントの信徒への手紙U4:7
7:わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。
この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが
明らかになるために。
                   祈ります。

<祈り>

ご在天の父なる神様、あなたは土の器である私たちをあえて倒され、立ち上がらせ、御言葉をお語りになるお方であることを知りました。

 それにもかかわらず、私たちは土の器を一杯にして、あなたの御言葉を詰め込もうとする愚かな者でもあります。

 そんな私たちに、あなたは、聖書の御言葉、教会、礼拝、祈祷会、日々のディボーションなどを通して、土の器を空にし、あらたな御言葉を入れる機会を与えて下さっていることに改めて感謝いたします。

 私たちの土の器が御言葉によって新にされ、この世の闘いに勝利できるように。

 この祈りを御言葉の主イエス・キリストの御名でお祈りします。      アーメン。


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