【 主日礼拝メッセ−ジ要約】                          2006年1月22日   
「知恵と霊によって」
 
使徒言行録 6章8−15節
 
メッセージ 高橋淑郎牧師
 

 ステファノは、「T霊Uと知恵に満ちた評判の良い人」でした。信仰に恵まれ、聖書に精通し、必要に応じて自由にみ言葉を引用しては、その意味を解き明かすことのできる人でした。また聖霊による力に満ちていましたから、御霊なるキリストこそ、真に全能の神であるというしるしを伴う不思議な業を行っていました。具体的には、やもめたちのために、日々の配給を漏れなく配給する奉仕の傍ら、病床を訪ねては人々の悩みに耳を傾け、祈ったことでしょう。そうした働きの一つ一つが恵みに満ちていました。「恵み」というギリシャ語は、また「魅力」という意味を持っています。ステファノは愛すべき人柄、霊的魅力に溢れていたのです。

 しかし、こうした中でステファノを快く思わない人たちは、彼に論争を挑みました。しかし、聖霊によって語るステファノの知恵には勝てません。そこで彼らは力ずくでステファノを捕えて最高法院に訴え出ました。訴状の主旨は二つです。「神殿侮辱」と「律法を無視して神を冒_している」という罪です。もちろんこのような訴えそのものが欺瞞に満ちたものであることは明らかでしたから、法廷に引き出されてもステファノの心は乱されることはありませんし、その態度も一貫していて、さながら「天使の顔のよう」でした。天使のような顔とはどのような顔でしょうか。それは、「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。」(マタイ18:10)と主イエスが言われたとおりです。

 わたしたちが天の御使にも似た顔を与えられるとしたら、天の御使が、またステファノがそうであったように、わたしたちの霊の瞳を真っ直ぐに天の神に向け、朝に夕にみ言葉と祈りに導かれることに尽きるのです。

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【主日礼拝メッセ−ジ】                          2006年1月22日   

「知恵と霊によって」
 
使徒言行録 6章8−15節
 
メッセージ 高橋淑郎牧師
 

 ステファノはエルサレムの教会員全てが日々の配給を公平に受けることができるために執事として任命された、あの7人の一人です。彼はギリシャ系ユダヤ人キリスト者で、その名もギリシャ語でステファノと呼ばれていました。「冠」という意味です。彼の両親は息子がこの世で立身出世して、何がしかの王冠を得られるようにステファノとつけたのでしょうが、人生の半ばに教会に導かれてイエス・キリストの救いを受け入れて教会のメンバーに加えられ、執事に選ばれました。そして神は、彼にこの世的な王冠や栄誉に代えて、キリスト教会最初の殉教者として、キリストご自身からの冠を与えられたのです。まさに彗星のように現れ、彗星のように燃焼し尽くした、この殉教者ステファノこそ、やがてキリスト教会がエルサレムを中心としたユダヤ人の枠を超えて、サマリヤから異邦人の住む地の果てにまで成長を遂げて行くために選ばれて、地上に蒔かれた一粒の麦ということができます。

 ステファノは他の7人の執事と同じように、「T霊Uと知恵に満ちた評判の良い人」でした。そのような人ですから、信仰に恵まれ、聖書的知恵によって、必要に応じて自由にみ言葉を引用しては、その意味を解き明かすことのできる人でした。また具体的な働きにおいても聖霊による力に満ちていましたから、御霊なるキリストこそ、真に全能の神であるというしるしを伴う不思議な業を行っていました。具体的には、やもめたちのために、日々の配給を漏れなく配給する奉仕の傍ら、病床を訪ねたり、人々の悩みに耳を傾けては祈ったことでしょう。そうした働きの一つ一つが恵みに満ちていました。実は、「恵み」というギリシャ語は、また「魅力」という意味を持っています。ステファノは愛すべき人柄、霊的魅力に溢れていたのです。

 彼が関わる人たちの中には、ヘレニストキリスト者、つまりギリシャ系の文化的背景を持つ人々が多かったようですが、彼の評判はやもめたちを通して、やがてその周りの人々にも次第に広がって行きました。しかし、皆がみなステファノを正当に評価する人たちばかりではありません。中にはキリスト教嫌いの人もいたかもしれません。とりわけ、ラテン語でいう「リベルティニ」、ギリシャ語でいう「リベルテン」を意味する「解放された奴隷の会堂」に属する人々は、真っ向から教義論争を挑んできました。この「解放された奴隷の会堂」に属する人々とは、紀元前61年にローマの将軍ポンペイウスが、多くのユダヤ人奴隷をローマに引いて行きましたが、やがて後に彼らを解放しました。ステファノの時代から数えても90年ほど前の出来事です。解放された元奴隷のユダヤ人たちとその子孫は、異国の地で自分たちだけの信仰共同体を作り、シナゴーグといわれる会堂を建てて、ユダヤ教徒としての信仰を維持しようとしていたのです。エルサレム市内にも彼らの会堂が点在していました。彼らは長く異邦の地にありましたから、ヘブル語の聖書よりもギリシャ語訳の聖書を読んでいました。それでも心は生粋のユダヤ人に負けまいという、熱心なユダヤ教信者も少なくありませんでした。同じヘレニズムの影響を受けたキリスト者ステファノは、彼らにとって、自分たちの信仰の正しさを証明する絶好のターゲットと映ったのではないでしょうか。

 1543(天文12)年、鹿児島県種子島に3名のポルトガル人を乗せた小さな船が漂着したことを機に、それまで見たことも聞いたこともなかった二つのものが日本に入ってきました。一つは鉄砲という恐ろしい人殺しの道具、もう一つは更に6年後の1549年、ロ−マ・カトリック教会イエズス会から派遣された宣教師フランシスコ・ザビエル(1506−1552年)による平和と永遠の生命をもたらすキリストの福音でした。宣教師は時の室町幕府をはじめ、各地の戦国武将を訪ねて伝道の許可を求めました。全国制覇を狙う安土の織田信長や九州の覇者大友義鎮(宗麟)とそのライバル島津貴久、山口城主大内義孝など多くの諸大名はこれを許し、礼拝堂の建立の為に領地を与えたり、さまざまな便宜を図りましたから、ひところ日本のクリスチャン人口はかなりの数に上っていたと言われています。しかし、長く日本人の精神文化を指導してきた仏教の僧侶たちも負けじと、各地で宣教師たちに教義論争を挑みましたが、高僧たちでさえキリストの教には勝てず、かえって改宗したほどです。しかし、そうした人々はごく少数で、教義論争に勝てなかった多くの僧侶たちは礼拝堂を焼き討ちしたり、信者に嫌がらせを繰り返すという、おおよそ宗教者にあるまじき、物理的迫害を加える始末だったという記録があります。

ステファノに論争を挑んだ「解放された奴隷の会堂」に属する人々もこれに似ています。「知恵とT霊Uとによって語る」ステファノとの論争に勝てないと知った彼らは、ユダヤ教こそ正しいと主張していたその言葉はどこへやら、宗教家にあるまじき手段に出て、ステファノを捕えて最高法院に訴え出ました。訴状の主旨は二つです。「神殿侮辱」と「律法を無視する神への冒_」という罪です。

しかし、ステファノは神殿を侮辱してはいませんし、律法を変更しようなどとは言っているのではありません。むしろ、神の栄光を表す真の神殿とは何か、律法がわたしたちに命じている正しい意味は何かということを伝えようと努めていたのです。しかし、裁判は始められ、最高法院の人々の目はステファノに注がれました。この時、彼の顔はさながら「天使の顔のようであった」と著者は伝えています。天使のような顔とはどのような顔でしょうか。濁りのない澄み切った瞳、うそ偽りに満ちた人々の前でも彼らをうらむ気持ちなど微塵も見られない晴れやかな表情を想像させます。確かにそうだろうとわたしも思います。しかし、わたしは一つのみ言から天使のような顔について思い巡らしています。それはマタイ18:10です。「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。」と。あの瞬間、その場にいた誰かの証言に基づいて著者が書いているステファノの顔について、それは彼が持つ「もう一つの顔」という、人間を基準としたものではなく、あの時ステファノの顔はいつも天の父なる神の御顔だけを仰ぎ見ている天使のような顔をしていたという意味ではないでしょうか。何とかステファノを落としいれようと画策する人々の中で、また自分たちの対面だけを気にして、あちらを見、こちらを伺っている人々の中で、ステファノだけは真っ直ぐに天の父なる御顔を見つめていた、そういう顔ではなかったでしょうか。一心に天の神を見つめていたから、殉教目前に、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言えたのです(使徒言行録7:56)。

あの時、後に使徒パウロと呼ばれたサウロがこの光景を目撃した一人なのか、別の人の証言に基づいてでしょうか。パウロもまたステファノに学ぶ心で、「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストとキリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ」(ガラテヤの信徒への手紙1:1)と証しています。

 わたしたちはいったいどんな顔をしているでしょうか。わたしたちの目はいったいどこの誰を見ているのでしょうか。小賢しい世の知恵でこの世を見回して渡り歩こうとしていたのでは、わたしたちの目はすぐに曇って、見るべきものが何も見えなくなってしまいます。

 わたしたちが天の御使にも似た顔を与えられるとしたら、天の御使がそうであるように、ステファノがそうであったように、わたしたちの霊の瞳が真っ直ぐに天の神に向けられていなければなりません。それは朝に夕にみ言葉と祈りに導かれるということに尽きるのです。み言葉と祈りを通して御顔を仰ぎ見ることによって、この世の魅力や脅しの声に振り回されることのない霊的な恵みと知恵が得られるのです。  祈りましょう。

 

天の父なる神さま。あなたのお名前を心より讃美します。

 世の多くの人々はこの世の知恵によってこの世の栄冠を求めています。しかし、わたしたちが求めるべき真の知恵と栄冠はステファノのように、ただ主イエス・キリストの父なる神を一心に見つめて止まない生き方です。

 「執事」の意味を持つ気配り、目配り、手配りを怠らずにあなたに仕え、教会に仕えたあの七人の執事をお手本として、来るべき29日のこの教会の総会が祝福されたものとなりますように。

 上からの知恵と御霊によって互いを喜び、あなたを喜ぶ証し人として歩んできた2005年度でした。2006年度も消されることのない喜びと祈りの灯火をともし続けて、まだあなたを知らない人々が教会に導かれて救いに入れられるようにと、執り成す群れとして歩み続けさせて下さい。

 わたしたちの救い主イエス・キリストの御名によって。アーメン。


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