【 主日礼拝メッセ−ジ要約】                          2006年2月12日   
神はヨセフを離れず
 
使徒言行録 7章9-16節
 
メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 わたしたちはヨセフに関するステファノのこの短い証から神の貴いメッセージを聴くことができます。それはキリストの出来事と並行するように書かれているという点です。主語はやはり神です。神は神に従う者を見過ごしにはなさらないのです。何といってもこの箇所の鍵言葉は9節の、「神はヨセフを離れず」です。これはイエス・キリストに与えられたもう一つの名前、「インマヌエル(神は我々と共におられる)」に共通する言葉です。

 ヨセフが兄弟たちの妬みを受けて苦境に追い込まれました。イエス・キリストもまたその子孫であるイスラエルの指導者たちの妬みによって十字架に死なねばなりませんでした。ヨセフは何度も死の淵を辿りましたが、彼に寄り添う神がその都度奇跡的に救い出し、エジプトの宰相という地位にまで高く上げられました。イエス・キリストは文字通り十字架に上げられましたが、神は御子キリストを離れず、墓穴から甦らせ、「神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えに」なりました(フィリピの信徒への手紙2:9)。

 そしてもう一つ心に留めておきたいみ言葉があります。それは、「そこで、ヨセフは人を遣わして、父ヤコブと75人の親族一同を呼び寄せました。」という14節です。ヨセフは自分の兄弟によって人生の約半分を苦渋に満ちた境遇に置かれますが、後にはその兄弟たちを自分の手で救うことになるのです。これもまたイエス・キリストの救いの出来事と共通します。主イエスは自分を十字架にかけた者を救うために受肉してくださったのです。

 創世記に語られ、ステファノによって証されたヨセフこそ、まさにイエス・キリストの予表であったと言うことができるのです。

 

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【主日礼拝メッセ−ジ】                             2006年2月12日   

神はヨセフを離れず
 
使徒言行録 7章9-16節
 
メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 アブラハムの孫であるヤコブには息子12人と娘1人がいました。ヨセフは11人目の息子でしたが、兄たちに妬まれて危うく一命を逃れたものの、奴隷としてエジプトに売られてしまいました。そこでもまた仕えている主人の妻のためにぬれ衣を着せられて投獄されるという不幸が続きました。しかし、神はヨセフをお見捨てになりませんでした。また神は祈りの人ヨセフに知恵を授け、エジプトの支配者ファラオが見た夢の解き明かしをして、エジプトを潤す七年間の豊作に続く、七年間の飢饉を預言して、エジプトはもちろん、地中海沿岸の国々を食糧の危機から救いました。かつて弟ヨセフを奴隷として売ったヤコブの息子たちも、はるばるエジプトまで買出しにやってきました。エジプトに到着した兄たちは、今では宰相という地位にある弟ヨセフの前に、それとは知らずひれ伏して懇願するのでした。ヨセフはこの兄たちを見て、自分の身の上を明かし、父ヤコブをはじめ親族一同をエジプトに呼び寄せ、そこを終の棲家としたということです(創世記37−50章)。

 わたしたちはヨセフに関するステファノのこの短い証からも神の貴いメッセージを聴くことができます。それはキリストの出来事と並行するように書かれているという点においてです。主語はやはり神です。神は神に従う者を見過ごしにはなさらないのです。何といってもこの箇所の鍵言葉は、9節の「神はヨセフを離れず」です。これはイエス・キリストに与えられたもう一つの名前、「インマヌエル(神は我々と共におられる)」を思い出させる言葉です。また、ヨセフが兄弟たちの妬みを受けて苦境に追い込まれたように、イエス・キリストもまたその子孫であるイスラエルの指導者たちの妬みによって十字架に死なねばなりませんでした。ヨセフは何度も死の淵を辿りましたが、彼に寄り添う神がその都度奇跡的に救い出し、エジプトの宰相という地位にまで高く上げられました。イエス・キリストは文字通り十字架に上げられましたが、神は御子キリストを離れず、墓穴から甦らせ、フィリピの信徒への手紙2:9によると、「神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えに」なりました。

 そしてもう一つ心に留めておくべきみ言葉があります。それは、「そこで、ヨセフは人を遣わして、父ヤコブと75人の親族一同を呼び寄せました。」という14節です。ヨセフは自分の兄弟によって人生の約半分を苦渋に満ちた境遇に置かれますが、後にはその兄弟たちを自分の手で救うことになるのです。これもまたイエス・キリストの救いの出来事と共通します。イエスは自分を十字架にかけた者を救うためにも受肉してくださったのです。以上のように創世記に語られ、ステファノによって証されたヨセフこそ、まさにイエス・キリストの予表であったと言うことができるのです。

 もう一つ、「神はヨセフを離れず」のみ言葉から思い起こすこと、それは1973年に97歳で天に召されたスペインが生んだ世界的チェロ奏者パブロ・カザルスと、ドイツ ルター派神学者マルティン・ニーメラーの言葉です。二人ともほぼ同時代に活躍した人で、特に第二次世界大戦を引き起こしたヒットラー政権、そしてそれを支持するスペインのフランコ政権と信仰の自由のために戦った人たちです。

 カザルスは晩年、国連で彼の故郷カタロニア地方の名曲、「鳥の歌」を演奏をしましたが、演奏直前に次のような言葉を残しています。

 「わたしは今までに、何と驚異的な変化と進化を目撃してきたことでしょう。科学も産業も宇宙開発もまさに驚異的な進歩を遂げました。それにもかかわらず、世界は今も飢餓と人権上の圧迫と独裁に苦悩しています。わたしたちの行動は、依然として野蛮人に等しいのです。未開人のように、地球上の隣人を恐れ、隣人に向かって武器を持ち、防衛しています。隣人もまた同様にです。わたしは、人間の掟が、「殺すべし」という時代に生きねばならなかったことを嘆きます。いつになったら人類が同志であるという事実に慣れ親しむ時がくるのでしょうか。祖国愛は自然なものであります。しかし、なぜ国境を越えてはならないのでしょうか。世界は一つの家族です。わたしたち一人一人は兄弟のために尽くす義務があります。わたしたちは一本の樹につながっている葉っぱなのです。人類という樹に。わたしの故郷の鳥たちは、「ピース。ピース」とさえずりながら空を飛び交っているのです。」

 カザルスの胸の内に、ニューヨークにある国連本部の一角に刻まれたイザヤ書2:4のみ言葉が張り付いていたのではないでしょうか。

 「こうして彼らはそのつるぎを打ちかえて、すきとし、そのやりを打ちかえてかまとし、国は国に向かって、つるぎをあげず、彼らはもはや戦いのことを学ばない。」

 ニーメラーの言葉は、更に強くわたしたちの胸を打ちます。

 「はじめにナチスは共産主義者に襲いかかったが、わたしは共産主義者ではなかったから声を上げなかった。次にナチスは社会主義者や労働組合員に襲いかかったが、わたしはそのどちらでもなかったので声を上げなかった。次にナチスはユダヤ人に襲いかかったが、わたしはユダヤ人ではなかったから声を上げなかった。そして、ナチスはわたしに襲いかかったとき、わたしのために声を上げてくれる人は、もう誰もいなかった。」

 そのナチスも連合軍の手で滅ぼされ、彼は強制収容所から奇蹟的に生還できましたが、戦後、「自分が他者のために声を上げなかったから、自分のために声をあげてくれる人がいなかった」と神と人の前に深く悔い改める言葉を残しています。

 カザルスにしても、ニーメラーにしても、強大な国家権力を向こうに回して信仰の自由と人民の人権の貴さを訴えて抵抗を試みました。それはとても小さな声でしたから、独裁者の演説と戦車の轟音の前にかき消されてしまいました。しかし、神は彼らを離れなかったのです。嵐が過ぎ去ると、焼け跡と瓦礫の中からその小さな声は世界の良心に届き、彼らの取り次ぐ十字架の言葉は人々に悔い改めを促す力となりました。

 わたしたちの愛する祖国も少しずつ少しずつ60年前に犯した天皇を頂点とした国造りと戦争の道へと再び右旋回を始めました。今、小さな声であっても他者のために声を上げなければ、やがては自分のために声を上げてくれる人はいなくなります。いや、インマヌエルの神さえも見失ってしまうかもしれないのです。

 いつの日かこの地上を去るとき、聖霊に導かれた者たちから、どんなほめ言葉にもまさって、「神は彼を離れなかった」と証される人は誰でしょうか。  祈りましょう。

 

天の父なる神さま。あなたのお名前を心より讃美します。

今、「他者のために声を上げるものでなければ、自分のために声を上げてくれる人がいなくなる。」という言葉がわたしたちの胸に刻み込まれました。それにもまして、「神はヨセフを離れなかった」というみ言葉は重いです。同胞に訴えられながらその同胞が悔い改めて神に立ち返るようにとキリストを証し続けるステファノのように、兄弟の裏切りに苦しみながらも、その兄弟を救うために最善をなしたヨセフのように、何よりも十字架に上げられながら、十字架の下で嘲る罪びと、そしてわたしたちを救ってくださったイエス・キリストの恵みの御業を心に留めて、わたしたちもわたしたちの家族・親族・友人・知人の救いのために、み言葉を証する者とならせてください。

わたしたちの救い主イエス・キリストの御名によって。アーメン。


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