高橋淑郎牧師
ステファノは、今被告人としてモーセの律法に抵触した疑いのある者を裁く場(最高法院。6:12)に立たされています。目の前には大祭司をはじめ、祭司たち、またサドカイ派の人々、ファリサイ派の人々、律法学者たち、当時70人議会と呼ばれる面々が居並び、彼の弁明を聞いています。しかし、ステファノは自分の無実を訴えるというよりも最高法院の人々に何とかしてイエス・キリストの福音を伝えて罪に目覚めさせ、悔い改めに導きたい、救われてほしいという思いで語り続けるのでした。
最高法院の人々は神殿を神聖な神の宮として尊んでいます。ステファノはそれを否定しようというのではありません。しかし、神殿を絶対視することには賛成できないのです。
「見たままの形」(44節)について、それは文字通り寸法と言い、材料と言い、示されたままにという意味はもちろんですが、それ以上に「形」と言うよりも、「型」に強調点があります。山で示された型どおりとは、イエス・キリストを模型として、あの幕屋は造られているのです(ヘブル人への手紙8:5−を参照)。
最高法院の列に加えられている人たちは神殿を絶対視することによって自分たちの地位を権威付けようとしているのです。しかし、神は言われます。「これらはすべて、わたしの手で造ったものではないか」と。そうです。天は神の王座、地は王なるキリストの足台です。それなのに大祭司たちは神殿に目を奪われて崇めるべき神を見失い、神よりも自分たちを崇めさせようと思い上がっているのです。
あなたも見えるものに目を奪われて、王なるイエス・キリストを見失うことにならないように気をつけてください。心を開き、聴く耳を持って神の愛、キリストの救い、聖霊の交わりを受け入れるものとなってください。
高橋淑郎牧師
ステファノは、今被告人として最高法院(6:12)といって、モーセの律法に抵触した疑いのある者を裁く場に立たされています。目の前には大祭司をはじめ、祭司たち、またサドカイ派の人々、ファリサイ派の人々、律法学者たち、当時70人議会と呼ばれる面々が居並び、彼の弁明を聞いています。しかし、ステファノは自分の無実を訴えるというよりも最高法院の人々に何とかしてイエス・キリストの福音を語り聞かせて罪に目覚めさせ、悔い改めに導きたい、救われてほしいという思いを強くして、次第に熱を帯びて語り続けるのでした。
最高法院の人々は神殿を神聖な神の宮として尊んでいます。ステファノはそれを否定しようというのではありません。しかし、神殿を絶対視することには賛成できないのです。そこで、神はなぜエルサレムを選び、そこに神殿を建てさせたか、その由来を語り聞かせようとしました。
エジプトを出たイスラエルの民が荒れ野を旅する途中、子々孫々一つ心で礼拝をささげさせるためにと、神がモーセを通して造らせた「証しの幕屋」と呼ばれる特別のテントでした。あの時神は、「わたしが示す作り方に従って、幕屋とそのすべての祭具を作りなさい」(出エジプト記25:9,40,26:30,27:8)とモーセにお命じになりました。そしてモーセはご命令に従って幕屋を造ったとステファノは言います(44節)。
ヘブル人への手紙の著者は、この「見たままの形」について、それは文字通り寸法と言い、材料と言い、示されたままにという意味はもちろんですが、それ以上に「形」と言うよりも、「型」に強調点をおいた聖書理解をしています。つまり、山で示された型どおりとは、イエス・キリストを模型として、あの幕屋を造ったのであると解説しています(8:5−)。
ステファノも同じ理解の上に立って話を進めています。だから、こともあろうに神殿の中庭で、そして大祭司たち神殿に仕えている人々を前にしてもひるむことなく、「いと高き方は人の手で造ったようなものにはお住みになりません。」と爆弾発言をしました。これはM.ルタ−をさかのぼること1500年以上もさかのぼる宗教改革的メッセージです。しかし、この発言にはしっかりとした聖書的裏付けがあります。それが49−50節で引用したイザヤ書66:1−2のみ言葉です。そこをご一緒に読んでみましょう。
初めに言いましたように、ステファノは最高法院の人々が神殿を神聖な神の宮として尊んでいることを否定していません。ただ、神殿を唯一の信仰の拠り所として絶対視することには賛成できないのです。あの最高法院の列に加えられている人たちは神殿を絶対視することによって自分たちの地位を権威付けようとしているのです。しかし、神は言われます。「これらはすべて、わたしの手で造ったものではないか。」と。そうです。天は神の王座、地は王なるキリストの足台です。神はある限られた空間に住まいを必要とする方ではありません。天も地もその中に生きる全てのものは全能の神の作品です。わたしたちが神の中に生き、動き、存在させられているのだということを忘れてはなりません。使徒パウロという人は言います。「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。」(コリントの信徒への手紙一6:19)と。
目に見える神殿も、今日キリスト教会に見られる会堂も全てわたしたち人間が神の御名を讃美するために、礼拝をささげるために建てることを許されたのであって、御自分の住まいのためではないのです。それなのに大祭司たちは神殿に目を奪われて崇めるべき神を見失い、神よりも自分たちを崇めさせようと思い上がっているのです。
わたしたち仙川キリスト教会は2年少々前に築40年の会堂をいったん壊し、このように装いも新たに建て直しました(2003年12月)。わたしたちはこの会堂にすっかり慣れてしまったのか、あまり感じなくなりましたが、時折訪れる人は、「樹の香がしてとても心安らぎます」と言って下さいます。わたしたちはこれからもこの会堂をできる限り長く、大切に用いて行きたいものです。ここは主に礼拝をささげる場だからです。一人でも多くの人がこの会堂に導かれて主イエスの救いに与ることができるためです。しかし、わたしたちはこの会堂を信仰のよりどころという意味で用いることはしません。「会堂」と「教会」を同じ意味と考えている人がいるとすると、それはとんでもない誤解です。これについて求道中の方々のために少し説明しておきます。教会という場合、それはイエス・キリストを、救い主と信じる信仰の共同体を指します。会堂は全ての人々が一堂に会して聖書を読み、メッセージに聴き、祈り、讃美の歌をもって礼拝を捧げ、神に栄光を帰するための建物です。「より多くの人が集まることができるように。」という祈りを込めて教会のメンバーが喜びをもって神に献金して建てたものです。
先ほど会堂がなくなったら教会もなくなるというのは誤解だと言いましたが、ステファノを取り囲むサドカイ派の人々、特に大祭司とその配下の祭司階級は神殿があるから人々の信仰も成り立つと考えていました。これに対してステファノは、イザヤ書を引用しながら、それは違うと言うのです。モーセが造った神の幕屋も、その後ソロモンが建て、ネヘミヤが再建したこの神殿の最も神聖な場としての至聖所も、全てはイエス・キリストの模型です。もう少し分かりやすく言うと、イエス・キリストこそ至聖所にあってわたしたちの罪を贖いとりなすまことの大祭司です。至聖所は大祭司のほか誰も入ることはできません。そして聖書が指し示す至聖所とは十字架であるということなのです。
ステファノは言います。「目に見えるきらびやかな神殿に目を奪われて、真の大祭司であるキリストを指し示した歴代の預言者たちを殺し、イエス・キリストを十字架に追いやったのはいったい誰なのか。あなた方を置いてほかにないではないか。」と。
「かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち」とは、心も耳も清められていない人たちのことです。頑固な心が神を拒絶しています。高慢な耳が神のみ言葉に聴き従うことを拒んでいるのです。
愛する皆さん、あなた方もこの会堂に目を奪われて、王なるイエス・キリストを見失うことにならないように気をつけてください。心を開き、聴く耳を持って神の愛、キリストの救い、聖霊の交わりを受け入れるものとなってください。 祈りましょう。
天の父なる神さま。あなたのお名前を心より讃美します。
「天はわたしの王座、地はわたしの足台である」とあなたは言われます。それなのにわたしたちはいつの間にか、自分を誰かの上におくことに一生懸命になっていました。キリストの弟子であるわたしたちでさえ見えるものに心奪われ、高慢になり、日々の生活もあなたを見失いがちになります。
どうか、わたしたちの心と耳に真の割礼を施してください。聴くべきを聴き、従うべき方に従う従順な者としてください。
救い主イエス・キリストの御名にお願いします。アーメン。