【 主日礼拝メッセ−ジ要約】                          2006年3月26日   
 「ステファノの凱旋」

使徒言行録 7章54-8章1節a

高橋淑郎牧師

 

 殉教間際にステファノが語った三つの言葉から神のメッセージに耳を傾けることにしましょう。

 第一に、ステファノは「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言いました。今や主イエスは、ステファノの霊を迎え入れるために父なる神の右の座から立ち上がっておられるのです。地上の命の終わりにステファノは何と素晴らしい、聖なる光景を目の当たりにできたことでしょうか。

 第二に、ステファノは「主イエスよ、わたしの霊をお受けください。」と言いました。十字架上の主イエス・キリストの言葉とほとんど同じです(ルカ23:46)。人間が地上に遺した言葉の中でステファノにまさるものを見出すことはできません。四方から飛んでくる石を受けて頭といわず、顔といわず血みどろになりながら、しかし彼のこの一瞬の言葉には、主イエスの父なる神に対する揺るぐことのない希望と確信。喜びと平安を感じさせます。わたしたちの最後も、わたしたちを迎え入れて下さるキリストを目の当たりに見させて頂けたらどれほど幸せなことでしょう。

 第三の言葉。「ひざまずいて、『主よ、この罪を彼らに負わせないでください』と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた」と。十字架上の主イエスのお言葉そっくりです(=ルカ23:34)。

 何という厳かな言葉でしょう。そこには怨み、悔しさ、憤りを微塵も感じさせません。しかも、、「死んだ」とは書かずに、「眠った」と書いています。復活の朝を待つひと時の眠りについたというのです。

 あなたもイエス・キリストが、あなたを迎え入れるために神の右で今立ち上がっておられるのが見えませんか。今こそ罪を悔い改めてイエス・キリストを信じてください。

 

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【主日礼拝メッセ−ジ】                          2006年3月26日   

 「ステファノの凱旋」

使徒言行録 7章54-8章1節a

高橋淑郎牧師

 

 神の律法に違反する重罪人として、この最高法院に引き出されたはずの被告人ステファノから反対に、「あなた方こそ聖霊なる神に逆らう罪びとである」と指摘された70人議会の人々は、怒りに燃えて歯軋りをしています。この瞬間、ステファノは自分の運命を悟りました。語るべきを語りつくし、なすべき地上の務めを果たし終えたステファノは、彼を取り巻く人々の怒号と喧騒にもかかわらず、敵をも赦しながら、備えられた御国へと、静かに殉教して行きました。

 ところで、この書物の著者であるルカは、このような緊迫した空気の中で、堂々とイエスを証するステファノの言葉と殉教の様子を、どうしてこれほど詳しく書きとめることができたのでしょうか。もしかして初代キリスト者の理想の姿を描こうとした著者の想像の産物なのでしょうか。いいえ、この出来事はすべて実話です。ルカは確かな証言に基づいてこの事件の顛末を詳細に書くことができました。この法廷でステファノを裁く70人議会のメンバーの中に、一人だけ実名が挙げられています。それはサウロという若者です。この人こそ、後に回心してキリストの弟子となり、生涯をキリストのために献身して、キリスト教会の成長に偉大な貢献をした使徒パウロです。

 若き律法学者であるサウロは、まるで法廷の速記者のようにステファノの言葉を記憶していたばかりか、ステファノがどのようにして天の御国へと凱旋して行ったのか、そのときの様子をありのまま、そして詳しくルカに語り伝えたのです。サウロは回心して後も、あの時命を懸けてイエスの福音を語り伝えたステファノの態度と、特に最後に遺した三つの言葉を忘れることができなかったのでしょう。わたしたちも今朝、三つの言葉から神のメッセージに耳を傾けることにしましょう。

 

 第一に、ステファノはこう言いました。「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と。

 「人の子」とはもちろんイエス・キリストのことです。福音書を読めばお分かり頂けることですが、「人の子」という呼び方は、イエスご自身以外誰もしていません。弟子たちがイエスを呼ぶときは、いつも、「主よ」とか、「ラビ(先生)」でした。イエスを「人の子」という呼び方は、旧約聖書のダニエル書には見られます。このことは、わたしたちの教会の協力牧師であった篠原健治先生がこの講壇からダニエル書を取り次いでくださったので、記憶しておられる方も多いと思います。彼が口を極めて語っておられたように、主イエスが御自分を「人の子」と言われたのは、ダニエル書の預言が成就したことを意味します。

 マルコによる福音書16章19節に従うと、復活した後、「天に上げられ、父なる神の右に着座された」はずのイエス・キリストですが、ステファノがこの時仰ぎ見たイエスは神の右に立っておられます。これには二つの意味があると思われます。一つは、地上の法廷に立たされてみ言葉の解き明かし、聖なる神の御心を取り次ぐステファノのために、天上にあって父なる神のみ前に立ち、彼の証言の正当性を証して下さっている主イエスのお姿です。もう一つ、今や主は、ステファノの霊を迎え入れるために父なる神の右の座から立ち上がっておられるのです。地上の命が風前の灯の瞬間、ステファノは何と素晴らしい、聖なる光景を目の当たりにできたことでしょうか。

 

 第二に、ステファノはこう言いました。「主イエスよ、わたしの霊をお受けください。」と。

 これは、十字架上の主イエス・キリストの言葉とほとんど同じです(ルカによる福音書23章46節)。違いといえば、主イエスの場合は、「父よ」と呼びかけておられますが、ステファノアは、「主イエスよ」と呼びかけています。イエスを主なる神と告白しているという意味と理解できます。

 E・S・シュナイドマンの「死の声」や、藤原宰太郎の「死の名場面」という本には多くの有名無名の人々の、死を前にした言葉の数々を見ることができます。確かに人がこの世に別れを告げる言葉の一つ一つには重みがあり、軽々に聞き流せないものを感じさせます。しかし、人間が地上に残した言葉の中でステファノにまさるものを見出すことはできません。四方から飛んでくる石礫(いしつぶて)を受けて頭といわず、顔といわず血みどろになりながら、しかし彼のこの一瞬の言葉には、主イエスの父なる神に対する揺るぐことのない希望と確信があります。喜びと平安を感じさせます。わたしたちの最後も、わたしたちを迎え入れて下さるキリストを目の当たりに見させて頂けたらどれほど幸せなことでしょう。

 

 第三の言葉も、十字架上の主イエス・キリストのお言葉とそっくりです。「それから、ひざまずいて、『主よ、この罪を彼らに負わせないでください』と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた」。

 何という厳かな最後の言葉ではないでしょうか。そこには怨みもなければ、悔しさや憤りを微塵も感じさせません。しかも、著者ルカはステファノの死を、「死んだ」とは書かずに、「眠った」と書いています。復活の朝を待つひと時の眠りについたというのです。

 ある人から頂いた、孫 東姫(ソン・ドンヒ)著、「わが父、孫良源(ソン・ヤンウォン)」という本を読んで、ステファノと同じように聖霊に導かれて生涯を神に献げて福音の戦士として戦い抜き、聖霊に導かれて天に召されていった神の人に出会うことを許されました。すべてを語りつくす時間はありませんが、第二次世界大戦の最中、天皇神格化と靖国神社参拝を強制する日本の命令を、それは十誡の第一の戒めと第二の戒めに背くことであるからと、拒み続けたために5年もの間投獄され、厳しい取調べと拷問に耐え抜き、戦後釈放されて、ようやく平和を取り戻したと喜んだのも束の間、今度は二人の息子を共産主義者によって銃殺刑で失うという悲劇がこの家族を襲いました。それから2年後、彼自身も反革命分子として強制収容所に連行されて殉教しました。

 殉教までの彼の生活は、文字通り主イエスと隣人に対する献身の生涯でした。こともあろうに息子を殺した共産主義者の青年を悔い改めに導き、養子として家に迎え入れました。家族や周囲の反対を押し切ってのことです。またハンセン病療養施設の園長をしていた頃、患者さんの膿を口で吸い取るという驚くばかりの愛の奉仕をしたということです。収容所では身に覚えのない告白文を書けと迫られ、仕方なく、「神に奉仕が十分できなかったこと、隣人への伝道が不十分であったことは全て神への罪である」と書いたところ、気を失うほど打ちのめされ、その後も毎日のように拷問に告ぐ拷問が殉教まで続いたということです。それでも一日一食与えられる小さな握り飯を、更に半分に裂いては体の弱い人に分け与えたり、投獄されている仲間に、また看守に対してさえ、「罪を悔い改めてイエスを信じるなら、救われて永遠の命を受けることができる」と語ることをやめませんでした。

 愛する皆さん、聖書の神は「この地上の生涯は、み国における永遠の時間に比べると余りに短い。だから、今という時にイエスを救い主、キリストと信じなければ永遠の悔いを残すことになる。」と語っておられます。あなたもイエス・キリストが、神の右にあってあなたを迎え入れるために今立ち上がっておられるのが見えませんか。今こそ罪を悔い改めてイエス・キリストを信じてください。  祈りましょう。

 

天の父なる神さま。あなたのお名前を心より讃美します。

 ステファノは、最後まで聖書が証する神の子イエス・キリストの教会に忠実な神の僕として信仰を貫き、そして御許に召されました。

主よ、わたしたちもおかれたときと所にあって、内なる全てを清めていただき、ただあなたに対して忠実な生涯を全うさせてください。

救い主イエス・キリストの御名にお願いします。アーメン。

 


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