【 主日礼拝メッセ−ジ要約】                         2006年4月30日   
 「悔い改めて祈れ」
 使徒言行録8章14−25節
高橋淑郎牧師

 

 みなさん、「悔い改める」とはどうすることだと思いますか。これからの生活を改める決意をすることでしょうか。大いに結構なことですが、それは聖書がいう「悔い改め」の意味から、まだ遠いのです。生活を改める決意は「反省」と言います。反省は後悔で終わらない誠意を感じさせます。しかし長続きしません。また同じ失敗をすることがあります。それに犯してしまった罪、やらかしてしまった失敗の解決はできたのでしょうか。できていません。だから反省では不十分なのです。悔い改めこそ必要なのです。悔い改めとは、犯した罪の解決を裁き主である神に祈り、赦しを願い出ることなのです。過去の清算ができてこそ、人は本当に明日への希望を持つことができます。過ぎたことを引きずりながらの人生に祝福はありません。だから、ペトロは「悔い改めて神に祈れ」と諭し、シモンはその言葉の意味を悟りましたから、「一緒に祈ってください」とペトロに願ったのです。ここにおいて初めて彼の信仰が純粋なものとされ、教会が教会として清められたのです。

 皆さん、あなたの昨日までの生活に、何もやましいことはありませんか。もし、少しでもかげりがあるなら、あなたも今悔い改める必要があります。このことを良い加減にしてこの場を立ち去るなら、あなたはいったい何をしにここへ来たのかわかりませんよ。礼拝の語源は、「ひれ伏す」ことです。聖書が言う「悔い改める」とは、神に立ち返ることなのです。自分の弱さ、罪深さを認めて、神に赦しを乞うことなのです。神だけがあなたの罪を裁くただ一人のお方であり、神だけがあなたのどのような罪をも赦すことのできるただ一人の方だからです。今こそこの方の前に真実に悔い改め、そしてこの方を今、あなたの個人的な救い主と信じてください。

 

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【 主日礼拝メッセ−ジ】                         2006年4月30日   

 「悔い改めて祈れ」
 使徒言行録8章14−25節
高橋淑郎牧師

 

 わたしたちは8:13までを通して、キリスト教会に対する迫害が激しくなったにもかかわらず、教会の伝道活動は一層盛んになり、目覚しい勢いで成長していった様子を知ることができました。今日の箇所はその裏づけとして、エルサレム教会が生み出した新しい教会の誕生についての報告です。

 サウロを中心としたユダヤ教による組織的な迫害のために散らされた信徒の中にフィリポという執事がいました。彼はサマリヤ地方に追いやられましたが、そこでも精力的な伝道を継続しましたから、多くの人がキリストの救いに与り、やがてそれはエルサレムに次ぐ二つ目のキリスト教会を生む契機となりました。この知らせを受けたエルサレム教会はサマリヤ伝道の成果を喜び、ペトロとヨハネという使徒たちを祝福の使節として派遣しました。これは、エルサレム教会がサマリヤ地方に生まれた伝道所の母教会になる決意を公にしたことを意味します。ペトロとヨハネといえば、二人ともキリストの十字架と復活と昇天の目撃者であります。当時はまだ新約聖書が書かれていない時代のことですから、キリストのご生涯と救いの出来事を語る彼らの証には説得力があります。フィリポにとってもどれほど心強い援助となったことでしょう。ヨハネ4:9に、「ユダヤ人はサマリヤ人と交際しなかった」と記されています。同じ先祖をいただく二つの民族ですが、純潔を貫いたユダヤ人は、混血の民となったサマリヤ人を軽蔑していましたから、交際したがらなかったのです。しかし、聖霊はフィリポと2人の使徒たちの祈りに答えてサマリヤの信徒たちの上に臨んでくださいました。これはあのペンテコステ(聖霊降臨)の出来事がサマリヤにおいても成就したことを意味するものです。聖霊が臨まれた以上、もはやユダヤ人とサマリヤ人の心の壁となっていたさまざまな問題は一切解決したことを意味します。聖霊が臨まれたのは、この二つ民族に和解の福音をもたらすためであったのです。

 わたしたちが使徒言行録を読む上で見落としてならないことがあります。それは何でしょう。教会の頭はキリストであり、宣教の主導権は聖霊にあるという事実です。ここでは一見したところ、エルサレム教会の執事フィリポの働き、使徒ペトロとヨハネの活動が目立ちます。あの元魔術師のシモンも教会とは何かを誤解した一人でした。彼はフィリポの目覚しい働き、ペトロやヨハネの福音宣教と祈りに魅せられ、心奪われて、この大先生たちの偉大な働きの秘訣はいったいどこにあるのかしら。あの力の秘密を知りたい。身につけたい。そうすれば自分はもっと有名になれるのにと、そればかり考えていたようです。だから最も大切なメッセージの中身を上の空で聞き流していたようですし、祈りとは何かについて全く理解しようとしていなかったのです。教会のほとんどの人たちが聖霊によって救いの確信を与えられたというのに、同じ教会員であるシモンだけは相変わらず、心の王座を御霊であるキリストに明け渡すことをしないで、欲望の奴隷となっている自分が居座り続けています。イエス・キリストを信じてバプテスマを受けたはずなのに、相変わらず神よりも悪霊どもに心を支配されたままなのです。これまで金や物が全てと思い込んで生きてきた彼にとって、信仰生活も金の力でどうにでもなると思い違いをしていました。彼はペトロに向かってこう言います。「わたしが手を置けば、だれでも聖霊が受けられるように、わたしにもその力を授けてください。」と。これは危険なことです。このような考えの人が教会の中に一人でもいることはその人だけでなく、教会全体を滅ぼしてしまうのです。ペトロは、「この金は、お前と一緒に滅びてしまうがよい。神の賜物を金で手に入れられると思っているからだ。・・・この悪事を悔い改め、主に祈れ。そのような心の思いでも、赦していただけるかもしれないからだ。」と言いました。祝福の内に生まれたばかりのサマリヤの教会が、早くも悪霊どもに牛耳られそうになっている危機感から、ペトロはこのような厳しい言葉で彼を叱りつけましたが、本当は彼を叱ったのではなく、彼の心をほしいままに支配しようとしている悪霊どもに向かって叱り付けたのです。シモンはペトロのこの言葉によってはっとしました。目が覚めました。彼の内に眠っていた永遠を思う思いが目覚めたというべきでしょう。彼は悔い改めたのです。「主に祈ってください。」とペトロに懇願したことでわかります。

 みなさん、「悔い改める」とはどうすることだと思いますか。これからの生活を改める決意をすることでしょうか。その決意やよし、大いに結構なことです。しかし、それは聖書がいう「悔い改め」の意味から、まだ遠いのです。生活を改める決意は「反省」というのです。反省は後悔で終わらない誠意を感じさせます。しかし、長続きしません。一日、二日、三日、一週間、十日と経つ内にこの決意は次第に薄れてゆき、また同じ失敗をすることがあります。なぜでしょうか。反省の段階ではまだ自分の中に善を行う力がある。自分には善を全うする可能性があると思い違いをしているからです。だから今度こそと明日に望みをつなぐのですが、犯してしまった罪、やらかしてしまった失敗の解決はできたのでしょうか。できていません。過ぎたことは水に流す。これでは本当に反省したことにはなりません。いや、反省では不十分なのです。悔い改めこそ必要なのです。悔い改めとは、犯した罪の解決を裁き主である神に祈り、赦しを願い出ることなのです。過去の清算ができてこそ、人は本当に明日への希望を持つことができます。過ぎたことを引きずりながらの人生に祝福はありません。だから、ペトロは「悔い改めて神に祈れ」と諭し、シモンはその言葉の意味を悟りましたから、「一緒に祈ってください」とペトロに願ったのです。ここにおいて初めて彼の信仰が純粋なものとされ、教会が教会として清められたのです。

 皆さん、あなたの昨日までの生活に、何もやましいことはありませんか。もし、少しでもかげりがあるなら、あなたも今悔い改める必要があります。このことを良い加減にしてこの場を立ち去るなら、あなたはいったい何をしにここへ来たのかわかりませんよ。礼拝の語源は、「ひれ伏す」ことです。今日牧師を通して聖なる神のみ言葉、メッセージに触れた者は、過ぎ去った日々の罪の重さが甦ってきて、今はそれに耐えられなくなるはずです。そして、身も心もひれ伏さずにおれないのです。これがささげるべき礼拝です。「おっしゃったことが何一つわたしの身に起こらないように、主に祈ってください」と告白し、あなた自身も祈らずにおれません。これが悔い改めることです。聖書が言う「悔い改める」とは、神に立ち返ることなのです。自分の弱さ、罪深さを認めて、神に赦しを乞うことなのです。神だけがあなたの罪を裁くただ一人のお方であり、神だけがあなたのどのような罪をも赦すことのできるただ一人の方だからです。主イエス・キリストは、まさにあなたの罪を消し去るために、十字架に上げられてあなたの罪の身代わりに死んで甦り、そして天に上げられ、栄光のみ座に即位し、やがて終わりの日この世界を裁くためにもう一度この世においでになる救い主、王、キリストなのです。今こそこの方の前に真実に悔い改め、そしてこの方を今、あなたの個人的な救い主と信じてください。 あなたの祝福を祈ります。

 

天の父なる神さま。

 サマリヤの町にあなたの教会が生まれました。それを素直に喜ぶ使徒たちの姿こそ、聖霊の御業というほかありません。

 また、金と物にどっぷりと浸かりこんでいた形だけの信仰者シモンは何が善か、何が神の御旨にかなうことか全く分かっていなかったようです。主よ、彼の姿はまさにこのわたしの現実でした。だからあなたは今日、わたしをこの教会に導いてくださったのです。礼拝に与らせてくださったのです。悔い改めの必要とその道を教えてくださったのです。イエス・キリストが何のために十字架におかかりくださったのか、よく分かりました。わたしの罪のためでした。十字架の上から、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分が何をしているのかわからないでいるのです」と執り成してくださいました。感謝します。いや、何よりも過ぎ去った日々の罪の数々をどうかお赦しください。今、あなたをわたしの個人的な救い主と信じます。そして生涯あなたのみ足の後を踏み従って行きたいです。どうかわたしをお導きください。

 救い主イエス・キリストの御名にお願いします。アーメン。 


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