2千年もの昔、一人のエチオピア人の高官がユダヤのエルサレムまで何千キロもの旅をして礼拝に与った帰り道のことです。退屈な馬車の旅を無為に過ごすまいと、聖書(イザヤ書53章)を音読していましたが、読んでいる内に、ふと疑問がわいて来るのを感じました。すると人気(ひとけ)のない寂しい道にもかかわらず馬車の外から、「読んでいることがお分かりになりますか。」という声がします。神が遣わされたフィリポという伝道者でした。高官は直ちに馬車に招き入れて読んでいて分からなかった聖書の箇所について説明を求めました。フィリポは示された聖書箇所から説き起こして、イエスについて福音を告げ知らせました。「イエスこそ、屠殺場に引かれて行く羊のように、父なる神の御心に従って十字架に死んで下さったこと、それによって罪は赦されて救われたこと、三日目に復活されたので、イエスを救い主と信じる者もまた永遠の命に与ることができる」というように語り聞かせました。
エチオピア人は熱心に聖書の解き明かしを聴いていましたが、聖霊は彼の目を開かせて馬車の窓から泉を発見させました。彼は、「ここに水があります。バプテスマを受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」と、自分の方からバプテスマを申し出ました。フィリポは、彼が真心からイエス・キリストを神の子、罪と死からの救い主と信じ、口に言い表しましたので、馬車を降りて彼にバプテスマを施しました。バプテスマとは、古い罪人の彼が十字架のイエスと共に死んで葬られ、今は復活のキリストと共に神の子として新しく生れたしるしのことです。こうして彼は神に受け入れられた確信を得て喜びながら帰国の途に着きました。
あなたも今、イエス・キリストをあなたの救い主と信じて、「ここに水があります。」と申し出るなら、あなたは救われます。そのような願いを起こされた人はいませんか。
今朝は一人のエチオピア人の救いを通して、神がわたしたちに語りかけておられるメッセージに耳を傾けましょう。
フィリポは主の天使に促されるまま、エルサレムからガザへ下る道に行きました。「そこは寂しい道」でした。口語訳聖書や新改訳聖書には「このガザは、今は荒れ果てている」と訳しています。ガザは遠い昔からペリシテ人(今のパレスチナ人)の住む都市国家のひとつでしたが、使徒言行録の時代のガザは見る影もなく荒れ果てていました。そこに通じる街道筋も当然ながら、「寂しい道」です。
フィリポは、生まれたばかりのサマリア教会をさらに成長させるためにしなければならない仕事を山ほど感じていたことでしょう。そういう大切な時に、神はどうしてわざわざ寂しい街道筋に導かれるのか、教会はもちろん、フィリポ自身にとっても理解できなかったことでしょうが、主の命とあれば従うのみです。フィリポはすぐに出かけていきました。折しも馬車に乗って旅する一団が見えました。神はその旅人に目を留めておられました。聖霊はフィリポに、「追いかけて、あの馬車と一緒に行け」とお命じになります。
この旅人は、「エルサレムに礼拝に来て、帰る途中」(27節)なのです。2千年もの昔、エチオピアの王宮から国境を越え、現在のスーダン、エジプトを通過してユダヤのエルサレムまで何千キロもの旅をして礼拝に与ったのです。彼は「エチオピアの女王カンダケの高官で、女王の全財産の管理をしていたエチオピア人の宦官」だということです。カンダケとは固有名詞ではなく、エチオピア女王の称号ですから、この高官がどのカンダケに仕えていたのかはわかりませんが、ともかく女王の許しを得て礼拝をささげるために、はるばるエルサレムまで来ました。彼はエチオピア国内でこそ高い地位にありましたが、エルサレムでは特別扱いはしてくれません。大変な思いをして神殿まで辿り着いたのに、彼の為に用意されていた席は神殿から遠い異邦人の庭です。その上、女王に仕えるために、間違いがあってはならないので、彼の体は宦官とされていました。律法によると、宦官は神殿から一層隔たった位置に置かれたことでしょう。そんな扱いを受けても彼は不平一つ言わず、礼拝をささげて、今その帰途についたばかりです。「エルサレムに礼拝に来て」という言葉には、こんな事情が隠されていました。
皆さんもそれぞれ毎週の礼拝に与るために、人には分からない多くの困難を乗り越え、犠牲を払いながらこの会堂に来ておられることでしょうが、このエチオピア高官の礼拝姿勢を見て、大いに慰められ、勇気付けられ、また学ばれたことでしょう。
もう一つ神が彼に目を留められたわけが書かれています。わたしたちも大いに教えられることです。エチオピアの高官は礼拝を終えて帰途に着きましたが、退屈な馬車の旅を無為に過ごしません。その日礼拝で祭司が読んでくれた聖書箇所でしょうか。それとも常々彼自身が通読している聖書の続きだったのでしょうか、イザヤ書53章を音読していました。律法学者(ラビ=ユダヤ教の教師)は、「聖書を暗証できる早道は、聖書を音読することだ」と言っています。声を出して聖書を読むことは、聖書に集中する大きな力になってくれます。信仰の世界というものは不思議なもので、普段からあまり聖書を読んでいない人、読むには読んでも心ここにあらずと、上の空で読んでいる人には、「何か質問はありませんか」と言われても、何を質問してよいか分かりません。しかし、熱心に読み始めると、ここはどういう意味だろうか、これは誰のことなのだろうかと、尋ねたいことが次から次と心に浮かんできて、自然と「手引してくれる人」を捜し求めるようになります。
エチオピアの高官がそうでした。イザヤの預言を読んでいる内に、ふと疑問がわいて来るのを感じました。そこへ、馬車の外から、「読んでいることがお分かりになりますか。」という声がします。高官にとっては偶然の助け船でしょうが、これこそ神のご計画の中で体験させられた偶然です。聖霊が寂しい道にフィリポを導かれたのは、このことの為でした。彼は求められるままに馬車に乗って、聖書箇所から説き起こして、イエスについて福音を告げ知らせました。今日、聖書学者の中にはイザヤ書53章の註解書の中で、これはイザヤ自身の証であるとか、またはこのような生涯を送った人がいた、というように解説していますが、フィリポはこの箇所こそイエスご自身を預言したものだと解釈しています。イエスこそ、屠殺場に引かれて行く羊のように、黙々と父なる神の御心に従って十字架に死んでくださったこと、その死によって罪は赦され、救われたこと、三日目に復活されたので、彼を救い主を信じる者もまた永遠の命に与ることができる等というように語り聞かせたのではないでしょうか。もちろんフィリポがどのような言葉で聖書の解き明かしをしたか、何も書かれていませんが、彼は「イエスについて福音を告げ知らせた。」(35節)のですから、イエス・キリストの福音といえば、当然十字架と復活と昇天、再臨の約束まで全部を含んでいることは明らかです。
エチオピア人は熱心に聖書の解き明かしを聴いていましたが、聖霊は彼の目を開かせて馬車の窓から泉を発見させました。彼は、「ここに水があります。バプテスマを受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」と、自分の方からバプテスマを申し出ました。わたしたちの聖書は36節から38節に飛んでいます。37節はどこへ行ったのでしょうか。皆さんにご協力を頂きたいのですが、この使徒言行録28:31の次の頁(p.272)を開いてください。そこにあります。理由は、わたしたちが読んでいる新共同訳聖書の学者たちが用いたギリシャ語テキストになかったので訳しませんでしたが、37節を含めている聖書もあるということで紹介してくれているのです。本当はこの節こそこの箇所全体のクライマックスなので、わたしたちの聖書本文にないとは惜しいことです。
フィリポは、彼が真心からイエス・キリストを神の子、罪と死からの救い主と信じ、口に言い表しましたので、馬車を降りて彼を伴って水の中に降りて行き、バプテスマを施しました。バプテスマとは、古い罪人の彼が十字架のイエスと共に死んで葬られ、今は復活のキリストと共に神の子として新しく生れたしるしのことです。
こうしてエチオピア人は神に受け入れられた確信を得て喜びながら帰国の途に着きました。これから先は伝説ですが、現在エチオピアのクリスチャン人口が非常に高いのは、この高官が帰国後熱心に伝道した賜物だと言われています。もちろん真偽を確かめる術はありません。しかし、一つのきっかけになったことは事実でしょう。
あなたも今、イエス・キリストをあなたの救い主と信じて、「ここに水があります。」と申し出るなら、あなたは救われます。そのような願いを起こされた人はいませんか。 祈ります。
天の父なる神さま。あなたの御名を崇め、讃美します。
遠いエチオピアからエルサレムの宮まで長い苦しい旅の末、礼拝に与った帰り道、なおも聖書を読む熱心な求道者を神は見ておられました。そして一人の神の僕であるフィリポを送り、彼によって聖書の解き明かしをさせることで、この旅人は救いに与ることができました。「ここに水があります。わたしがバプテスマを受けるのに何か妨げがあるでしょうか。」と謙虚に、しかし熱心に願い出たとき、フィリポは喜んで彼にバプテスマを施しました。彼の受浸(バプテスマ)は、その後エチオピアをキリスト教国にするきっかけとなったと言われています。
主よ、今あなたのみ前にあるこの全ての礼拝者を祝福して下さい。バプテスマを受けたいと願い出る魂を起こしてください。
どうか、あなたの救いに与ったこの兄弟姉妹を用いてそれぞれの地域社会に霊的革命を起こさせてください。どうか、この教会のメンバーを用いてこの国を救いに導いてください。
私たちの救い主イエス・キリストの御名にお願いします。アーメン。