【 主日礼拝メッセ−ジ要約】                   2006年6月11日   
 「起 き な さ い」
 使徒言行録9章32-43節
高橋淑郎牧師

 

 アイネアの癒(いや)し、タビタの生き返りの出来事を皆さんはどのように受け止めますか? 素直に信じられる人もあるでしょう。実際にないことを聖書が書くはずはないと思いながらも、こういう非科学的な出来事にはきっと、何か裏があるに違いないと読む人もあることでしょう。

 わたしたちにとって大切なことは、こうした奇蹟物語を読むとき、ここに秘められている聖書の中心的メッセージ、正しい福音を聞き漏らしてはなりません。そうでないと奇蹟を強調するあまり、「異(こと)なった福音」を持つ異なった宗教や異端(いたん)に走ってしまう危険があります。あのリダとその周辺地域の人々も、ヤッファの町の人々もペトロを祭り上げて、新しい宗教団体を興しはしませんでした。彼らはペトロが伝えるメッセージを正しく聴き取りました。彼らはそれによってこれからの生きる道と、死への備えをどうすべきかを学んだのです。霊も心もからだも司っておられるのは主イエス・キリストの父である神です。主にある友の病の癒しを、本人はもとより教会を挙(あ)げて祈り求めても、主の御心(みこころ)は別にあって癒されることなく、死の床に伏すことになったとしても、それは決して絶望ではないのです。なぜならペトロを通して、「タビタ、起きなさい」と呼びかけてくださった主イエスは世の終わりの日、墓に沈んだ人々に向って、「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」(エフェソ5:14)と宣言して、復活の朝を迎えさせてくださるのです。

 繰り返し申し上げます。この世でわたしたちの願う形の奇蹟を祈り求めることが正しい信仰ではありません。いかなる結果がわたしたちを待ち受けていても、その向こうには必ず「起きなさい」と呼びかけて下さる全能の神、復活の主イエスがおられることを信じて疑わないことです。

 
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【 主日礼拝メッセ−ジ】                        2006年6月11日   

 「起 き な さ い」
 使徒言行録9章32-43節
高橋淑郎牧師

 

 サウロは回心して、イエス・キリストを告白する者となって後、エルサレムに行き、バルナバの仲介で使徒たちと交流を持つことができるようになりました。当然ペトロとの接触もあったことは考えられます。その後サウロはいったん生まれ故郷のタルソに退きますが、著者はここで再びペトロの活動に戻って筆を進めます。

 ペトロは各地を巡回伝道の途中、地中海沿岸のヤッファに通じる街道筋の町、リダにある教会を訪ねました。そこには8年間中風で寝たきりになっているアイネアという信者がいました。またヤッファの教会では当時貧しいやもめたちが頼りとしていたタビタという女性信者が病気で死んでしまいました。リダの教会もヤッファの教会も、こうしたことを教会全体の悩みとして共に担(にな)っています。

 ペトロはリダの教会を訪ねて、病の床に臥(ふ)せっているアイネアに出会いました。しかし、ペトロは自分の中に奇蹟を起こす力があるなどとは思っていません。「アイネア、イエス・キリストがあなたを癒(いや)してくださる。起きなさい。」と告げると、アイネアは直ぐに起き上がりました。実は、ペトロ自身、かつて自分の義理の母親が高熱に苦しんでいたとき、主イエスによって癒していただいた経験の持ち主でした(マタイ8:14−15、マルコ1:30−31、ルカ4:38−39)。リダとシャロンに住む人々は、アイネアの上になされたこの大いなる主の御業(みわざ)によってイエス・キリストに立ち帰りました。シャロンとは町の名前ではなく、どこそこの地方という程度の漠然とした広い地域を指します。

 その直後、ペトロがリダにいると聞いてヤッファから訪ねてきた二人の使者がありました。「タビタという教会のメンバーが死んだので、直ぐに来てほしい」と言うのです。タビタは生前多くの奉仕と施しをして、教会に出入りする信徒・求道者の中で、特に弱い立場にあるやもめたちの面倒を見ていたようです。「聖なる者たちとやもめたち」(41節)について、「聖なる者」、つまりキリスト者と「やもめたち」をわざわざ区別しているので、この女性たちは未信者だけれども、教会の交わりに加えられていた求道者を指すと思われます。信徒・求道者わけ隔てなく、受け入れて何かとお世話をしていたこの教会の愛の深さを教えられます。その中でも特にタビタは愛の実践者でした。彼女はその容姿(ようし)が似ていたからか、それとも甲斐甲斐(かいがい)しく働く姿から連想してでしょうか、誰言うとなく、彼女のことをドルカス(かもしか)とあだ名していました。遺体は洗い清めて彼女の家でしょうが、屋上の間に寝かしてありました。屋上とは言え、周囲には落下を防ぐ手すりがあり、寝起きする程度の小部屋があります。それにしてもなぜ屋上に安置したのでしょう。海辺に近いこの町では、屋上は適度の潮風を受けて、腐敗を防ぐ効果があったからでしょうか。それとも少しでも神に近い所をということで屋上を選んだのでしょうか。このような場所に遺体を安置するのは、旧約聖書時代から信仰的伝統に基づく処置ということができます(列王記上17:19、列王記下4:21)。

 ペトロが到着すると、やもめたちは、タビタが生前自分たちのために作ってくれた衣類、しかし今となっては遺品となってしまった数々を涙ながら、ペトロに見せました。読んでいるわたしたちもほろっとさせられる場面です。しかし、ペトロは彼らを外に出し、遺体と二人きりになり、静かに祈り始めます。主がタビタをどのようになさるのか、自分は何をすべきか、指示を仰ぐ祈りです。そしてリダでアイネアに向かったときと同じように、遺体に向かって、「タビタ、起きなさい」と命じました。すると彼女は目を開き、ペトロを見て起き上がりました。更にペトロの手を借りて立ち上ったのです。この驚くべき出来事はヤッファ中に知れ渡り、多くの人々がイエス・キリストを信じました。

 アイネアの癒し、タビタの生き返りの出来事を皆さんはどのように受け止めますか?素直に信じられる人もあるでしょう。実際にないことを聖書が書くはずはないと思いながらも、このような非科学的な出来事にはきっと、何か裏があるに違いないと読む人もあることでしょう。手品師の技術に驚きながら、心の内で、その手品の種とか仕掛けとかを一生懸命探るようなものです。しかし、わたしはこのような出来事は実際に起こったと単純に信じる者のひとりです。不治の病と言われて少女時代の大半を病院のベッドで過ごしていた姉妹が癒されたばかりか、その後献身してわたしと同じ神学校で学ぶという、大いなる主の御業をこの目で見ました。また、わたしが奉仕していたある教会で、完全に死んだかどうかはともかく、臨死体験をしながら、生き返り、その後元気で生活している教会員の証を聞いたことがあります。

 わたしたちにとって大切なことは、こうした奇蹟物語を読むとき、ここに秘められている聖書の中心的メッセージ、正しい福音を聞き漏らしてはなりません。そうでないと奇蹟を強調するあまり、「異(こと)なった福音」を持つ異なった宗教や異端(いたん)に走ってしまう危険があります。あのリダとその周辺地域の人々も、ヤッファの町の人々もペトロを祭り上げて、新しい宗教団体を興しはしませんでした。彼らはペトロが伝えるメッセージを正しく聴き取りました。彼らはそれによってこれからの生きる道と、死への備えをどうすべきかを学んだのです。霊も心もからだも司っておられるのは主イエス・キリストの父である神です。神の思し召しなら、病の床にあって、「床を取り上げて起きなさい。」と癒してくださるでしょう。しかし、ひとりの主にある友の病の癒しを、本人はもとより教会を挙(あ)げて祈り求めても、主の御心(みこころ)は別にあって癒されることなく、死の床に伏すことになったとしても、それは決して絶望ではないのです。なぜならペトロを通して、「タビタ、起きなさい」と呼びかけてくださった主イエスは、世の終わりの日、墓に沈んだ人々に向って、「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」(エフェソ5:14)と宣言して、復活の朝を迎えさせてくださるのです。

 この世にあって主に喜ばれる信仰とは、困難な中でいかなる結果がわたしたちを待ち受けていても、その向こうには必ず「起きなさい」と呼びかけて下さる全能の神、復活の主イエスがおられることを信じて疑わないことです。  祈りましょう。

 

天の父なる神さま。あなたの御名を崇め、讃美します。

 この世は金や名誉の奴隷になっている人が大勢います。また、自分の欲望のためには平気で人の命を奪う人が増えてきました。

 今ほど教会に与えられた使命の重さを痛感する時代はないと言って良いかもしれません。今日はアメリカの二人の牧師が提唱した「子どもの日」であり、また「シャロンのバラの日」です。この日、わたしたちは聖書が教えているように、子どもたちに、公職にあって市民のために働いてくれる人々に感謝の心を培う日です。更には、昼も夜もわたしたちを守ってくださっている創造主であるあなたに讃美と感謝を言い表すことを学ばせるという意味があります。

 わたしたちは明日の時代を担うこの子どもたちに何を遺してあげることができるのかを思います。アイネアとタビタの物語から、それが分かりました。わたしたちが子どもに与えるべき最も大いなる財産は、命の尊さをしっかりと教え、たとえ絶望の淵に置かれても、復活の主イエスに対する信仰を継承させることのほか何もないことを。

 私たちの救い主イエス・キリストの御名によって。アーメン。

 


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