【 主日礼拝メッセ−ジ要約】                   2006年7月9日   
 「聖 霊 の 介 入
 使徒言行録10章44-48節
高橋淑郎牧師

 

 ペトロの同行者は、異邦人の上にも聖霊の賜物が注がれるのを見て驚きました。こんなことはイスラエルの歴史始まって以来のことです。しかし、彼らはすぐにその事実を受け入れることができました。ここまでくる道すがら、ペトロの口からあの革なめしシモンの家にいた時に、ペトロ自身が見た幻と、その意味(神は全ての人を愛し、受け入れてくださるということ)を聞いていたからです。だからこの驚きは心を閉ざすような意味ではなく、静かな感動と、大いなる喜びとなったものと理解できます。だから彼らはペトロの命令に背くことなく、コルネリウスたちにバプテスマを施しました。喜びのバプテスマ式となりました。

 まことにパウロが言うように、ペトロとその同行者を含めて救われた人たちの中の、「古いものは過ぎ去り、すべてが新しくなった」のです(コリント5:17)。これまで彼らがて手放せなかった古いものとは、ユダヤ人のみが救われるという誤った民族意識から来る優越性でした。異邦人にとってはコンプレックスでした。しかし今では、「すべてが新しく」されたのです。もはやこの世を分けるものは、国境とか、民族とかではありません。イエス・キリストを信じているか、いないか。聖霊の証印としてのバプテスマを受けるか否かにかかっているのです。 

 聖霊は今もあなたのうちに働いておられます。あなたのうちにイエス・キリストを救い主と信じる信仰を与えようとしておられます。あなたのうちにある古いものを捨て去り、あなたを神に生きる新しい人生へと導こうとしておられます。だから、今すぐに聖霊の導きに従い、聖霊が与えようとしておられる賜物を受け入れて、バプテスマを受ける決心をなさってください。 あなたの上に主の祝福を祈ります。

 
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【 主日礼拝メッセ−ジ】                    2006年7月9日   

 「聖 霊 の 介 入
 使徒言行録10章44-48節
高橋淑郎牧師
 

 ペトロがイエス・キリストの福音を語っていると、それを中断して突然聖霊が降り、コルネリウスをはじめ、そこに集められた人々の上に聖霊の賜物が注がれました。あのエルサレムの二階座敷で12人の使徒たちの上に聖霊が降られたことがきっかけとなって、この地上にキリストの教会が生まれましたが(使徒言行録2章)、今またその聖霊が降り、賜物が異邦人の上にも注がれました。この出来事の意味は、聖霊はユダヤ人だけでなく、イエス・キリストを信じる異邦人の中にも降ってくださる方、キリストの教会を誕生させてくださる愛の神なのです。またこれによって、聖霊は、「地の果てに至るまで、キリストの証人となる」という約束(1章8節)を果たしてくださったのです。

 

一、聖霊の介入

それにしても聖霊はどうしてペトロの話を中断させたのでしょうか。ペトロとわたしのような者を同列に置くなんておこがましいのですが、同じ講壇に立つ者としては、メッセージを終えるまで待ってあげても良いと思うのですが。皆さんはどう思われますか。

 そもそもメッセージとは何でしょうか。福音を伝えることです。福音メッセージとは、神の愛に目覚め、神に対する人間の罪の自覚と悔い改めの必要、キリストによる救いの道を伝えることです。この福音メッセージをき聴いている人々の中に変化が見えてきました。 罪の自覚と悔い改め、イエス・キリストこそ救い主であるという信仰が芽生えてきました。これ以上何が必要でしょう。ペトロの伝えるメッセージは十分に会衆の心を捕えました。だから聖霊が介入してくださったのです。ペトロのメッセージを邪魔したのではなく、これまでペトロを十分に用いて福音を語らせましたが、ここから先は聖霊なる神の出番です。伝道者は神からのメッセージを伝えることはできても、罪を悔い改めている人々に救いを得させるのは神ご自身の御業です。だから聖霊はコルネリウスたちの中に直接働いて信仰の告白と神への感謝、応答の讃美へと導いてくださったのです。

 

二、聖霊による教会の誕生

 ペトロは聖霊降臨の出来事をま目のあたりにして、「わたしたちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、水でバプテスマを受けるのを、いったいだれが妨げることができますか。」と言いました。このように、聖霊の介入によって、彼らが確かに罪からの清め、イエス・キリストを救い主と信じる信仰が確立していることを認めてくださっていると確信したペトロは、同行の弟子たちの手で、彼らに水によるバプテスマを施しました。

 では、ペトロがそうしたように、キリストの教会は、既に救われた人に対して、どうしてバプテスマを授けるのでしょうか。それに対して、使徒パウロは、「わたしたちはバプテスマによってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それはキリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」(ローマ6:4)と書き送っている通りです。では、バプテスマを受けると、人はどのように変えられるのでしょうか。このことについてもパウロは、「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った。見よ、すべてが新しくなったのである」(コリント5:17)と書き送っている通りです。そうなのです。バプテスマを受けるということは、キリストによって救われ、新しくされた者です。何が新しくなったのか。世界観が変えられます。物事を悲観的にではなく、前向きに見る人、考えることのできる人に変えられるのです。人を愛する者に変えられます。疑いの目ではなく、信じることから始めてみようという人に変えられるのです。このように新しくされた人を聖霊の証印を押された人と言うことができるのです。

 

三、聖霊による和解の道

 ペトロの同行者は、皆生粋のユダヤ人です。彼らは異邦人の上にも聖霊の賜物が注がれるのを見て驚きました。こんなことはイスラエルの歴史始まって以来のことです。しかし、彼らはすぐにその事実を受け入れることができました。ここまでくる道すがら、ペトロの口からあの革なめしシモンの家にいた時に、ペトロ自身が見た幻と、その意味を聞いていたからです。この驚きは心を閉ざすような意味ではなく、静かな感動と、大いなる喜びとなったものと理解できます。だから彼らはペトロの命令に背くことなく、コルネリウスたちにバプテスマを施すことができたのです。ペトロの同行者は、11:12によると、6人いたことが分かります。詳しいことは分かりませんが、この人たちが手分けをして喜びのバプテスマ式となりました。

 まことにパウロが言うように、ペトロとその同行者を含めて救われた人たちの中の、「古いものは過ぎ去りました。見よ、すべてが新しくなった」のです。これまで彼らがて手ばな放せなかった古いものとは、ユダヤ人のみが救われるという誤った民族意識から来る優越性でした。異邦人にとってはコンプレックスでした。しかし今では、「すべてが新しく」されたのです。もはやこの世を分けるものは、国境とか、民族とかではなく、イエス・キリストを信じているか、いないか。聖霊の証印としてのバプテスマを受けるか否かにかかっているのです。 

 聖霊は今もあなたのうちに働いておられます。あなたのうちにイエス・キリストを救い主と信じる信仰を与えようとしておられます。あなたのうちにある古いものを捨て去り、あなたを神に生きる新しい人生へと導こうとしておられます。だから、今すぐに聖霊の導きに従い、聖霊が与えようとしておられる賜物を受け入れて、バプテスマを受ける決心をなさってください。

今、あなたの上に主の祝福を祈ります。

天の父なる神さま。あなたの御名をあが崇め、讃美します。

 今から2千年前、ユダヤ人にとって、神はただユダヤ人一民族のものという確信がありましたが、聖霊はその誤った確信を正してくださいました。だれにでも、どの民族の者にもイエスの福音は行き渡り、誰でもイエス・キリストを救い主と信じる者にはバプテスマを受ける機会を与えてくださいます。そしてどの地域、どの国にもキリストの教会を建て上げさせてくださいます。

 神よ、この教会でも、ここでメッセージに耳を傾けている一人びとりの心にあなたを受け入れることのできる決断の時として下さい。罪の悔い改め、信仰の告白、バプテスマを受けたいという願いを起こさせてください。 私たちの救い主イエス・キリストのみ御な名によって。アーメン。

 


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