ピシディアの会堂で、パウロを通して語られる神からのメッセージを聴いている人たちも、直接イエスを十字架につけて殺したわけではありません。しかし彼らもイエスを十字架につけた者の一人として連座制が適用されるのです。このことについて聖書は他の箇所でも、「アダムからモーセまでの間にも、アダムの違反と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。」(ローマ5:14)と言っています。ここで言われている「罪」こそ「原罪」という罪です。全ての人はアダムのからだに流れていた血を受け継いだ子孫であると共に、原罪という罪の性質をも受け継いでいるのです。そして、この生まれつきの原罪という罪の性質が神を否定させ、救い主を拒絶するのです。この罪の性質が欲望をはらみ、罪を生み、罪が熟して死をもたらすのです。
あの、ピシディアの会堂で礼拝をささげている人たちは、なるほど直接イエスを十字架につけたわけではありませんが、生まれつきの性質のままでは救い主イエスを受け入れることができません。救い主を拒絶する罪はイエスを十字架に付けた人たちと同罪なのです。だから、パウロは声を大にして一人一人にその罪に目覚めさせ、十字架に死んだのに甦って、今も生きておられるイエス・キリストが、全ての人からその罪を取り除いてくださったという福音、この上ない幸いな知らせを取り次いでいるのです。
今、この仙川キリスト教会の会堂にいらっしゃる皆さん(この原稿を呼んでいらっしゃる方々)にもこのメッセージが届けられました。どうか、あなたも今すぐにあなたの心のうちに深く根付いてしまっている原罪という罪を取り除いていただくために、救い主イエスを心のうちに受け入れてください。あなたの上に神の祝福を祈ります。
今日は信仰と人生の先輩である方々の長寿を祝い、ご一緒に神に感謝の礼拝をささげる日です。今朝、共に礼拝をささげることの出来た方々には心から歓迎します。体調が思わしくなくて、やむを得ず欠席なさっている方、また老人ホームで生活なさっている方々については、主なる神の守りと聖霊による平安を祈ります。礼拝の後、フェロシップホールで団欒(だんらん)の時を持ち、共にお祝いしましょう。しかし、今はまず主がわたしたちに語られるみ言葉に耳を傾けたいと思います。
パウロのメッセージは続きます。16−24節においてイスラエルの歴史を振り返り、その折々に示された神の恵みがどれほどのものであったかを語りました。そして、ここ25節からいよいよ本論に入ります。
パウロは自分たちの先祖イスラエルの歴史を述べるとき、特に18節で、「彼らイスラエルの行いを耐え忍び」と、イスラエルの罪をほのめかしましたが、その罪はイエス・キリストの降誕を境に一気に噴出します。特に指導者たちは、イエスが神の子キリストであることをどうしても認めようとしないばかりか、この方を罪に定め、十字架につけて死に至らしめました。ユダヤ人は長い間、安息日を守り、この日には何をさておいても天と地とその中に住むすべてのものを創造された神、この宇宙を支配し、人類の歴史を導いておられる主に礼拝をささげ、聖書が預言する救い主、キリストを待ち望みつつ、熱心に礼拝をささげていましたが、なんということでしょう。この民族がどの国民にも先立って、イエス・キリストが神の子救い主であることを否定し、退けたのです。
この民族の最も大きな罪は、「死に当たる理由は何も見出せなかったのに、イエスを死刑にするようにとピラトに求めた」ことです。ピラトは裁判の席に着き、冷静な目でイエスを取り調べた結果、何の罪も見出せませんでした。それでもユダヤ人がイエスに罪ありとする理由は何かとピラトは考えました。そして分かったのです。「人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだった」(マタイ27:18)ということを。イエスを訴えた人たちは、民衆の心が自分たちから離れてイエスの下に引き寄せられることをねたんでいました。聖書に、「そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。」(ヤコブ1:15)とありますが、ねたみは実に恐ろしいことに、罪を熟成させて死を生み出しました。今日(こんにち)も、多くの人が、さまざまなねたみに駆られて恐ろしい刑事事件を起こしている現実を見ます。間違っても教会の中でこのような不幸を招くことがないように気をつけたいものです。いや、教会の中がただ聖潔であればよいというのではありません。このような社会の現実に警鐘を鳴らし、悔い改めに導く責任を託されているのは教会だからです。
話を聖書に戻しましょう。イスラエルの指導者たちはねたみからイエスを十字架にかけて殺しました。しかし、神はこのイエスを墓の中に朽ち果てるままにはなさいませんでした。甦らせたのです。ここでパウロは詩編2:4から、「あなたはわたしの子、わたしは今日あなたを生んだ。」と言われた神のみ言葉を引用します。これはイエスがこの地上に降誕される1千年も昔、ダビデを通して語らせた神の約束のみ言葉です。この預言の言葉にはいろいろな解釈があります。これは、天地創造前から父と子という関係で存在しておられた方、他の被造物と一線を画する一つの命でつながっている関係としての預言であるという人がいます。あるいはクリスマスの預言であるという人、イースターの預言であるという人もいます。どれも正しい解釈です。天の父なる神と子なるキリストの関係は、造られた者ではなく、生み出された者としての関係なのです。そして今の場合、パウロは34−35節のイザヤ55:3と詩16:10と共に、キリストの復活という意味に解釈して引用しています。
確かにイエスを十字架につけて殺した人々の罪は罪として裁かれなければなりませんが、イエスご自身が十字架に死んで甦ることは、既に旧約聖書において預言されていたことで、人間のどうしようもない傲慢と罪にもかかわらず、このことをさえもすべての罪人を救う手立てとして計画しておられたのです。31節をご覧下さい(復活のキリストが弟子たちと過ごされた数十日間の出来事)。パウロはなぜこのようなことをわざわざ話しているのでしょうか。それは、復活後弟子たちと過ごされたように、主は信じる者の内に今も生きて働いておられることをわたしたちに知らせるためです。
今、ピシディアの会堂で礼拝をささげている人たち、パウロを通して語られる神からのメッセージを聴いている人たちも、わたしたちと同じように、直接イエスを十字架につけて殺したわけではありません。しかし彼らもイエスを十字架につけた者の一人として連座制が適用されるのです。このことについて聖書は他の箇所でも、「アダムからモーセまでの間にも、アダムの違反と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。」(ローマ5:14)と言っています。ここで言われている「罪」こそ「原罪」という罪です。全ての人はアダムのからだに流れていた血を受け継いだ子孫であると共に、原罪という罪の性質をも受け継いでるのです。そして、この生まれつきの原罪という罪の性質が神を否定させ、救い主を拒絶するのです。この罪の性質が欲望ははらみ、罪を生み、罪が熟して死をもたらすのです。そうなのです。生まれつきの性質のままでは救い主イエスを受け入れることができません。救い主を拒絶する罪はイエスを十字架に付けた人たちと同罪なのです。だからパウロは声を大にしてそこにいる礼拝者一人一人にその罪に目覚めさせ、十字架に死んだのに甦って、今も生きておられるイエス・キリストが、全ての人からその罪を取り除いてくださったという福音、この上ない幸いな知らせを取り次いでいるのです。
そして、今この礼拝に与っている仙川キリスト教会の会堂にいらっしゃる皆さんにもこのメッセージが届けられました。どうか、あなたも今すぐにあなたの心のうちに深く根付いてしまっている原罪という罪を取り除いて頂く為に、救い主イエスを心のうちに受け入れてください。
今、決心のできた方は後でわたしに申し出てください。どうしようかと迷っている方々のために、神の祝福を祈ります。
天の父なる神さま。あなたの御名を崇(あが)め、讃美します。
あなたのみ言葉を有難うございます。わたしたちはユダヤの一隅(ひとすみ)で死んだイエスが自分たちとどんな関係があるのか、どうしてユダヤ人の犯した罪を、我々がその共犯のように扱われなければならないかと考えていました。しかし、今分かりました。わたしたちもアダムの子孫として原罪という罪の性質を受け継いでいるからです。この罪の性質があなたを知らないと豪語し、イエス・キリストを拒むのです。この罪の性質が人を欲望の虜(とりこ)にし、自己中心になり、ねたみに燃えさせ、人を傷つけ、簡単に人の命さえ奪ってしまうおぞましい罪びとと成り果てているのです。確かにわたしたちこそイエスを拒んだばかりでなく十字架につけよと叫んだ一人、釘を打ち込んだ一人だということを。
しかし、あなたはその独り子を墓に朽ち果てることをお赦しにならず、甦って、弟子たちに現れ、彼らに聖霊を注いで送り出し、わたしたち罪びとを悔い改めに導き、それによって救いの道、永遠の命の御国への道を開いてくださいました。
わたしたちは今、あなたこそ真に愛の神、今も生きておられる救い主であることを信じます。どうか、わたしたちを受け入れて下さい。
私たちの救い主イエス・キリストの御名によって。アーメン。