【主日礼拝メッセ−ジ要約】                            2006年10月15日   
 「神を頼みとして
使徒言行録14章1−7節
高橋淑郎牧師

 

 聖書を通して語られる神からのメッセージは、イエス・キリストを救い主と信じる人々と信じない人々の二つに分けます。更に多くの場合、信じなかった人々は、信じる人々の信仰を認めて受け入れるということができないで、猛然と反対運動を展開します。なぜでしょうか。それは、一つに自分たちの良心が責められているのを感じながらも素直になれないからです。今ひとつ、それは背後に悪魔から遣わされた悪しき霊の働きによるのです。悪魔が一番恐れるのは、救われる者が増えることです。地獄への道連れが少なくなることなのです。これに勝利する道は自分の弱さを認めて、神に対してだけではなく、人々の前でも正直に告白して、クリスチャン仲間の祈りの応援を受けながら、聖霊の助けを願い求めることです。これをキリスト教の世界で「悔い改め」と言います。

 今日わたしたちは、わたしたちの信仰を否定する大きな力を持つ世の中で、ついつい自分の努力や頑張りで乗り切ろうとしてしまうことがあります。或いは反対に、この世の大きな力に呑みこまれて、イエスを信じていることを只管(ひたすら)隠しながら、できるだけ摩擦を起こさないで表面上の平和を追い求めようとしてはいないでしょうか。しかし、そのような生き方を選ぶことは祝福につながりません。いつの時代もイエス・キリストを信じるに相応しい世界、ありがたい世の中などというものはありません。だから気をつけないと反キリストの霊があなた方の口をつぐませてイエスのことを公に言い表す勇気を失わせてしまうのです。どうか、あなたがたは不信仰なこの世にあって一人で頑張らないで、「主を頼みとして」祈り、主の助けを得て、「それでもイエス・キリストは主である」と証し続けてください。そうでないと、あなたの愛する家族、愛する人々が、悪しき霊に誘われてどんどん滅びの国に向かっていってしまうのですから。

 
福音メッセージ一覧へ戻る


 【主日礼拝メッセ−ジ】                             2006年10月15日   

 「神を頼みとして
使徒言行録14章1−7節
高橋淑郎牧師

 

 ピシディアのアンティオキアの街角で、イエス・キリストの福音に反対する人々に向かって、足の塵を払い落としたパウロとバルナバたち一行は、次の宣教地としてイコニオンの町にやってきました。この町でもまずユダヤ人の会堂に入り、メッセージを取り次ぎました。結果は前と同じように、イエス・キリストを救い主と信じる人々と信じない人々がはっきりしました。問題は信じなかった人々が、自分たちは信じないが、信じている人々の信仰を尊び、認めて受け入れるとか、黙って見ているということができないで、猛然と反対運動を展開しました。なぜそこまで積極的になるのでしょうか。それは、一つに自分たちの良心が責められているのを感じながらも素直になれないからということが言えます。今ひとつ、それは背後に悪魔から遣わされた悪しき霊の働きによるのです。悪魔が一番恐れるのは、救われる者が増えることです。地獄への道連れが少なくなることなのです。ですから、初めて福音を耳にした人には信じることを拒む思いを持たせようとするし、信じる人を邪魔しようとします。それだけではありません。クリスチャンをさえも、悪い習慣から抜け出せないように、あらゆる手を使って誘惑するのです。

 これに勝利する道は自分の弱さを認めて、ひそかに神に対してだけではなく、人々の前でも正直に告白して、クリスチャン仲間の祈りの応援を受けながら、聖霊の助けを願い求めることです。これをキリスト教の世界で「悔い改め」というのです。

 しかし、イコニオンの町にある会堂で、イエスを信じようとしないユダヤ人たちは、せっかく礼拝をささげながら、けれども福音に耳を傾けず、異邦人を扇動して彼らの関係にひびを入れ、「キリスト信仰に反対しよう」キャンペーンを展開しました。この運動はかなりの効果を挙げたようです。町中の人々がイエス・キリストを信じる人と、信じない人の二つに分裂してしまいました。その内イエスを信じない人々の行動は次第にエスカレートしてパウロとバルナバに向かって暴行を加え、石まで投げつけようとしましたので、彼らは危うく難を避けて隣の町に逃れました。

このような事件の中でも使徒言行録の著者は、読者であるわたしたちの注意を促すためでしょう。もう一つの出来事を書くことを忘れていません。それは3節と4節です。

 ピシディアのアンティオキアの場合は、パウロもバルナバも迫害を受けると、即座に反対者に対する抗議のしるしに足の塵を払って、町を出て行きました。しかし、ここイコニオンの町では伝道を妨げられ、迫害を加えられながらも、「二人はそこに長くとどまり、主を頼みとして勇敢に語った。」ということです。この違いは何でしょう。これは推測の域を出ませんが、恐らくピシディアのアンティオキアで福音を聴いてイエス・キリストを信じた人たちの信仰の成長の速さと、イコニオンの会堂で福音を聴いてイエス・キリストを信じた人々の霊的成長の早さの違いではないでしょうか。前者の場合は、既に教会の土台が据えられていて、これからの教会形成を彼らに託せるまでになっていたから、心残りがないといえば嘘になるでしょうが、パウロたちはアンティオキアの町を去っても大丈夫と判断したのではないでしょうか。なぜこんな思い切った推測をしたかと言いますと、「他方、弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。」(13:52)という1節があるからです。このような注釈は14:1−7には見られません。「喜びと聖霊に満たされていた」というのは、信仰の基礎が固まり、もはやどんな反対にもひるむことなくイエス・キリストを証することができるほどに成長していたということを指しているのです。だから彼らは、パウロとバルナバに向かって、「安心してください。わたしたちのことは大丈夫です。だから、先生方はほかの町でも福音を語ってあげてください。」と、彼らを送り出したのではないでしょうか。

 一方ここイコニオンでは、新しく主イエス・キリストの弟子となった人々の信仰が、まだそこまで成熟するに至っていなかったのです。先ほども言いましたように、13:52のような言葉は見られません。ですから、パウロとバルナバは激しくなる一方の迫害の中でも、この町に踏ん張り続けました。使徒言行録の著者は、ここで初めてパウロと共にバルナバをも「使徒」と呼んでいることは注目に値します。しかし、いかに偉大な二人の使徒パウロとバルナバといえども、人間的な頑張りや踏ん張りには限界があります。「主を頼みとする」祈りが必要なのです。主なる神を頼みとしてこそ大胆に恵みの御言葉を語ることができます。そして主はそのような者を用いて、しるしと不思議な業を行なってくださるのです。

 今日わたしたちは、わたしたちの信仰を否定する大きな力を持つ世の中で、ついつい自分の努力や頑張りで乗り切ろうとしてしまうことはないでしょうか。或いはこの世の大きな力に呑みこまれて、イエスを信じていることを只管(ひたすら)隠しながら、できるだけ摩擦を起こさないで表面上の平和を追い求めようとしてはいないでしょうか。しかし、そのような生き方を選ぶことは祝福につながりません。神は使徒ヨハネを通して次のように言っておられます。

 「愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。 このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。これは、反キリストの霊です。かねてあなたがたは、その霊がやって来ると聞いていましたが、今や既に世に来ています。」(气ハネ4:1−3)

 いつの時代もイエス・キリストを信じるに相応しい世界、ありがたい世の中などというものはありません。だから気をつけないと反キリストの霊があなた方の口をつぐませてイエスのことを公に言い表す勇気を失わせてしまうのです。どうか、あなたがたは不信仰なこの世にあって一人で頑張らないで、「主を頼みとして」祈り、主の助けを得て、「それでもイエス・キリストは主である」と証し続けてください。そうでないと、あなたの愛する家族、愛する人々が、悪しき霊に誘われてどんどん滅びの国に向かっていってしまうのですから。 祈りましょう。

 

天の父なる神さま。あなたの御名を崇(あが)め、讃美します。

 今日もあなたからのメッセージを感謝します。思えば今から2千年もの昔、使徒パウロは言いました。「今は悪い時代だ」と。確かにいつの世もキリスト者にとって生きやすい時代などあろうはずがありません。しかしまた、そのパウロが言います。「だから、今の時を活かして用いよ」と。確かにわたしたちは、この住みにくい世の中で、不思議にも教会に導かれ、真理の御言葉に触れ、イエス・キリストに出会い、そして救われました。もし、わたしたちの先輩が、そして教会が、今は悪い時代だから世の中が良くなるまで待とうと伝道してくれなかったら、わたしたちは生涯教会を知りませんでしたし、まして救われるなどあり得ませんでした。イコニオンの町で反対され、迫害を加えられながらも福音宣教に燃えていたパウロたちのように、わたしたちの先輩とその教会も苦悩に耐えながら、わたしたちにあなたからのメッセージを語り続けてくれました。その背後にはあなたの助けがあったから教会は守られ、わたしたちは救いに与ることができました。

 主よ、どうか、これから後もわたしたちと共にあって、私たちを助けてください。福音を語り続ける愛と熱心と勇気を与えてください。

わたしたちの救い主イエス・キリストの御名によって。アーメン。


福音メッセージ一覧

集会案内

質問・メール

キリスト教イロハ

聖書を読む