【主日礼拝メッセ−ジ要約】                                    2006年11月26日   
「神の御業を語る」
  使徒言行録15章1-5節
高橋淑郎牧師

 

 キリスト教会のカレンダーによると、今日からキリストのご降誕を待ち望むクリスマスアドベント(待降節)に入ります。毎年この季節を向かえると感謝の心が溢れます。クリスマスは旧約聖書の時代から新約聖書の時代へと移り行くことを示す象徴的な出来事です。それはモーセの律法(十誡)で成し遂げられなかった神の義がクリスマスを契機として実現したからです。なぜあの素晴しいモーセの律法はわたしたちを義とすることができなかったのでしょうか。それは律法のせいではなく、わたしたちの罪のためです。「律法」とは、神が定めた戒めの全てを守り行うなら、その人生に祝福がもたらされますが、もしその戒めの一つにでも背くなら、その人の人生は呪われるのです。この世の中で神の戒めを完全に履行できる人はいません。むしろ全ての人は罪を犯したので、このままでは神の栄光を受けられなくなっているのです。しかし神が独り子をこの世に賜り、十字架の上にわたしたちの罪を贖い、消し去って下さったことによって、わたしたちは再び神との交わりが赦されました。これを「福音」(「この世で最も幸福な知らせ」という意味)と言います。

 奇しくも今日はこの使徒言行録の箇所から、福音は一部の選ばれた人にではなく、万人の心に届けられていることを知りました。福音の主であるイエス・キリストを救い主と信じ、受け入れた人の、誰にでも与えられることを知りました。

 使徒パウロとバルナバは神の御心に従い、足掛け4年の間、1千kmもの距離を旅しました。この福音を一人でも多くの人に届けたいという願いを込めて。そして、彼らは言います。「この伝道旅行の間、いつも神が自分たちと共にいて働いてくださった。」と。

 

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  【主日礼拝メッセ−ジ】                                    2006年11月26日   

「神の御業を語る」
  使徒言行録15章1-5節
高橋淑郎牧師

 

 使徒言行録15章は二つの意味で、重要な意味を持っています。一つは、この箇所をもって使徒言行録からペトロの名前が消えて、パウロを中心として記録されるようになるということと、もう一つは、これが最も重要なことですが、福音(人はイエス・キリストを信じる信仰によってのみ救われる)と律法(人は正しく立派な行いによってのみ救われる)の問題が浮き彫りになったという点です。キリスト教会が一ユダヤ民族の枠に留まるか、世界の人々にその間口を広げられるかの分岐点です。

 冒頭1節に、「ある人々がユダヤから下って来て、『モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない』と兄弟たちに教えていた。」とあります。ここに言う、「ある人々」の正体は、5節の「ファリサイ派から信者になった人々」です。彼らは福音などどうでも良いとは言っているのではありません。彼らもイエス・キリストの十字架の贖いの御業によって救われたと信じてバプテスマを受けましたから、キリストの教会への入会が認められたのです。しかし残念なことに、彼らは「御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げようとしている」(ガラテヤの信徒への手紙3:3)のです。どういうことかというと、彼らの聖書理解では、人が救われるためにはキリストの十字架を信じるだけでは不十分で、ユダヤ人が先祖伝来守り続けているように「割礼を受けて、律法が要求する通りの生活をしなければならない。」と言うのです。この人々はユダヤ教の中でも特に厳格なファリサイ派に属していました。ファリサイ派は元々復活を信じていましたから、イエス・キリストの死と復活の出来事を素直に信じることができました。問題はその後(のち)何に基盤をおいて生活していくのかとなったとき、彼らは律法を守ることが何よりも大切であると考えたのです。繰り返しますが、この人々は決して福音を否定しているのではありません。ただ、その福音を律法によって補完する必要があるというのです。一見間違っているようには思えません。だから、彼らはこの教えを携えてパウロが苦労して立ち上げた小アジアを巡り、ガラテヤの諸教会を教え導こうとしたばかりか、それをキリスト教会全体の公式教義として認めさせようとしているのです。

 パウロとバルナバの聖書理解は全く違います。パウロたちも旧約聖書(モーセの律法)を否定しているのではありません。しかし、モーセの律法は福音を補完するためにあるのではなく、福音によって律法の教えの意味が明らかにされ、福音によってこそ、律法が全うされるのです。それはイエス・キリストご自身既に言われた通りです。

 「わたしが来たのは律法を廃するためだ、と思ってはならない。完成するためである。」(マタイによる福音書5:17)と。

 つまり、ファリサイ出身のキリスト者たちとパウロの聖書理解の違いは、「人が救われるのは、割礼を重んじるモーセの律法のみ」という前者に対して、パウロは、「人が救われるのはイエス・キリストの十字架の死と復活による福音のみ」にあります。この両者の聖書理解の違いは、これからのキリスト教会の行方を決める大きな問題ですから、ここアンティオキア教会だけで結論を出すにはあまりにも重いテーマです。だから、母教会のあるエルサレムで全体協議することになりました。

 ファリサイ出身の人々はどのコースを通ってエルサレムへ行ったのか正確には分かりませんが、多分サマリア人に対する偏見(ヨハネによる福音書4:9b)を解消できていなかったでしょうから、ガリラヤ地方からヨルダン川を越えてデカポリス、ペレアへと迂回し、再びヨルダン川を越えてエルサレムに入るという、かなり遠回りをしなければならなかったと思われます。一方パウロとバルナバは著者自身が説明しているように、アンティオキア教会の人々の見送りを受けてフェニキアとサマリヤ地方を経由する最短コースを選びました(聖書巻末「6.新約時代のパレスチナ」地図参照)。そして道すがら、主にある教会の兄弟たちと出会うごとに、ガリラヤ諸州の異邦人が主イエスを信じる者とされた経緯(いきさつ)を詳しく伝えて喜び合ったということです。

 主に在って愛する皆さん、わたしたちキリストの教会カレンダーによると、今日からキリストのご降誕を待ち望むクリスマスアドベント、つまり「待降節」に入ります。毎年この季節を迎えるごとに新たな感謝の心が溢れます。クリスマスは旧約聖書の時代から新約聖書の時代へと移り行くことを示す象徴的な出来事です。それはモーセの律法(十誡)で成し遂げられなかった神の義がキリストのご降誕を契機として実現した瞬間なのです。なぜあの素晴しいモーセの律法はわたしたちを義とすることができなかったのでしょうか。それは律法のせいではなく、わたしたちの罪がそれを妨げたのです。「律法」とは、神が定めた戒めの全てを守り行うなら、その人の人生に祝福がもたらされますが、もしその戒めの一つにでも背くなら、その人の人生は呪われるのです。この世の中で神の戒め全てを完全に履行できる人はいません。むしろ全ての人は罪を犯したので、このままでは神の栄光を受けられなくなっているのです。しかし、神がその独り子イエスをこの世に賜り、十字架の上にわたしたちの罪を贖い、消し去って下さったことによって、わたしたちは再び神との交わりが赦されました。これを「福音」と言います。福音とは、「この世で最も幸福な知らせ」という意味です。

  「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。それは、独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

    (ヨハネによる福音書3:16)

 これが福音です。奇しくも今日はこの使徒言行録の箇所から、福音は一部の選ばれた人にではなく、万人の心に届けられていることを知りました。福音の主であるイエス・キリストを救い主と信じ、受け入れた人の、誰にでも与えられることを知りました。

 使徒パウロとバルナバは神の御心に従い、足掛け4年の間、1千kmもの距離を旅しました。この福音を一人でも多くの人に届けたいという願いを込めて。そして、彼らは言います。「この伝道旅行の間、いつも神が自分たちと共にいて働いてくださった。」と。

 神に導かれながら、危険を承知で世界各地を伝道して回った人はその後も続々と起こされました。その一人がアメリカから中国伝道に派遣されたロティー・ムーンという女性宣教師です。彼女の生い立ちとその働きについては、この後女性会員によって説明を聞くことができますが、一つだけご紹介しますと、「日本バプテスト連盟」と「沖縄バプテスト連盟」、そして「日本バプテスト同盟」はアメリカ南部バプテスト連盟と北部バプテスト連盟がそれぞれ福岡と横浜に宣教師を送ったことに始まります。しかし、この三つの団体が今日海外に遣わされた日本人宣教師の働きを覚えて「バプテスト世界祈祷週間」を提唱したのは、ロティ・ムーン女史によるものです。彼女は再三中国人民の悲惨な状況を本国に伝え、支援を要請しましたが、なかなか実情を知ってもらえません。そこで祈りのうちに導かれたことは、当時アメリカ諸教会の婦人連合に呼びかけて、アドベントの時期を選んで、祈りと献金を呼びかけることにしました。これが今日世界バプテスト祈祷週間と呼ばれる謂れです。ある人が「イエス・キリストこそ父なる神の御許から遣わされてきた人類最初の宣教師であられた」と言っていましたが、真にその通りだとわたしも思います。福音の主イエス・キリストは、ご自分の命と引き換えに人類をお救いくださいました。しかし、彼は十字架の上に死んで葬られたままのお方ではありません。三日目に復活されました。この死に打ち勝たれた真の宣教師が先立って下さっているから、いつの世も宣教師として立つ者が絶えない。なぜなら、彼らもまかり間違えば、原住民の救いのために自分の命を引き換えにしなければならないという覚悟で宣教の地に遣わされました。しかし、それはただ空しく殉教して果てる者ではなく、自分たちと共にいて救いの御業を成し遂げてくださる復活の主、キリスト・イエスによる永遠の命が約束されているからであると言うのです。   祈ります。

 

天の父なる神さま。あなたの御名を崇(あが)め、讃美します。

 「福音か、律法か」。教会はその歴史の初めに重大な岐路に立たされましたが、あなたは、ただイエス・キリストを信じる信仰によってのみ人は救われるとお教え下さいましたから感謝します。こうして福音は民族の壁を越えて、全世界に宣べ伝えられ、今日(こんにち)わたしたちの国にもキリストの教会が生まれました。

 思えばロティー・ムーン女史が船中神戸の港で息を引き取るまで、まさに命をかけて中国人民の魂を愛し、世界祈祷週間を提唱したことを思うとき、わたしたちは、これらの働き人を用いて救いの御業を成し遂げて下さったあなたを心から讃美します。どうか、わたしたちも宣教師たちの働きを覚えて祈る者、一人でも多くの魂があなたの御許に立ち返ることができるようにと、福音宣教の一翼を担う者とならせてください。、

 わたしたちの救い主イエス・キリストの御名によって。アーメン。


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