【主日礼拝メッセージ要約】                               2007年1月14日   

 

信仰を強められ 」 

  使徒言行録16章1-5節

高橋淑郎牧師

 

 テモテという働き人を得た一行は、引き続き小アジアの諸教会に、エルサレム会議の結果と規定を守るようにと教えました。諸教会もまたその信仰が強められて日ごとに人数を増していったということです。ここに、「信仰が強められた」という言葉が見えます。逞しい信仰って、具体的にはどういう信仰なのでしょうか。信仰の強さは人の前で聖書知識をひけらかすことではありません。言葉巧みに美しく祈れると自慢することで、証明されるわけでもありません。本当に信仰的に強められた人とは、主により頼んで、神の武具を身にまとい、人間を誘惑して罪と悪の道に引きずり込もうとする悪霊たち、ひいてはその頭であるサタン(悪魔)との戦いで一歩も引かない人です。常々聖書を熟読して、必要な御言葉を必要な時に用いられるくらい暗証して、悪の力、誘惑に打ち勝つ人を、強められた信仰の人と言えるのです(エフェソ6:10−18)。

 もう一つは、「キリストはあなたがたに対しては弱い方ではなく、あなたがたの間で強い方です。キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。」(コリント13:3b−4)という御言葉を忘れない人です。

 今、わたしたちは主日礼拝の中で、使徒言行録から神のメッセージに触れることを許されていますが、これは確かに主の恵み豊かな導きです。なぜなら、わたしたちは福音書からイエス・キリストのご降誕、教え、不思議な御業、十字架、そして復活・昇天と言うように、地上に残して行かれたキリストの足跡を辿ることができましたが、この使徒言行録には、キリストが今も生きておられること、聖霊を通して人々を救いに引き上げて、キリストを頭とする教会を建て上げる務めにつかせておられることが証されています。今もキリストは、聖霊を通して教会の中で先頭を切って働いておられるのです。その大いなる神の時という霊的な歴史の中に、わたしたち仙川キリスト教会もまた、神の臨在の力に守られているのです。一層「信仰を強めて」頂きましょう。

 

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 【主日礼拝メッセージ】                               2007年1月14日   

 

信仰を強められ 」 

  使徒言行録16章1-5節

高橋淑郎牧師

 

 いよいよこの16章からパウロの第二回伝道旅行の記録ですが、事実上は15:41から始まっています。シリア州のアンティオキア地方にある諸教会を力づけ、引き続きキリキア州に行きました。ここには彼の郷里タルソという町があります。パウロにとってはキリストの救いに与って以来二度目の里帰りです(ガラテヤ2:21)。そこにもすでにキリストの教会が形成されていたので、励まし、力づけて、デルベ、リストラを通って諸教会を訪ねています。リストラといえば、あの日非常に激しい抵抗にあって伝道が妨げられたばかりか、パウロ自身、石で打ち殺されかけた町です(14:19)。しかし今回は表立った抵抗もなく、宣教活動もしやすかったようです。更にこの町でパウロは歴史的な出会いをしました。その人はテモテという青年です。彼の祖母ロイスと母エウニケはユダヤ人で、テモテと三代にわたってクリスチャン家族でした(テモテ1:5)。父親のことはギリシャ人とあるだけで、それ以上のことは何も書いていません。テモテがまだ幼い間に死んだのか、生存しているけれども未信者だからなのかも分かりません。ユダヤ地方ではユダヤ人と異邦人の結婚は律法の禁じるところとして、厳しい制約がありますが、エルサレムから遠く隔てたリストラでは、かなり緩やかであったようです。パウロはこのテモテという青年の中に、神への純粋な信仰を認めて、ぜひともこの先の伝道旅行に同行させたいと考えました。しかしそれには一つの問題があります。今も言いましたように、ギリシャ人とユダヤ人の間に生まれた者はユダヤ人社会では決して受け入れられません。割礼を受けていないからです。パウロは悩みながらも祈ったのではないでしょうか。自分の信念としては、割礼はキリストの救いを得るのに必要ではありません。しかし、自分の信念を押し通したのでは、テモテが将来牧師・伝道者として立たされたとき、保守的なユダヤ人たちは彼を受け入れないでしょう。そうなれば伝道どころではなくなります。そこで聖霊は使徒パウロに一つの確信を与え、割礼を受けさせる道を開かれました。割礼は確かに救いの手段としては不要ですが、まだ救われていないユダヤ人のためには、すなわちテモテを伝道戦線に立たせるためには、割礼を受けさせてよいという導きをお与えになりました。この聖霊の導きは、その後のパウロに、伝道者としての柔軟性を身に着けさせる機会となりました。コリントの教会に宛てた手紙を思い出してください。彼はこう書き送っています。

 「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷となりました。できるだけ多くの人を得るためです。ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。・・・」(气Rリント9:19−20)

 テモテという働き人を得たこのチームはますます勇気を得て、引き続き小アジア諸教会に、エルサレム会議の結果を伝えて規定を守るようにと教えました。諸教会もまたその信仰が強められて日ごとに人数を増していったということです。ここに、「信仰が強められた」という言葉が見えます。たくましい信仰って、具体的にはどういう信仰なのでしょうか。どの教会も深い聖書知識と、熱心な祈りの信徒であふれていたということでしょうか。そうかもしれません。では、聖書のほかの箇所で、強い信仰について説明されているところがあるでしょうか。調べてみると、結構たくさんの実例を見ることができますが、その内主な2つの聖書箇所をご紹介してみましょう。一つは、エフェソの信徒への手紙の教会に宛てられた手紙の中の一節(エフェソ6:10−18)です。

 「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。」と前置きして、具体的にその強さはどこで見られるのかについて、「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」と教えています。すなわち信仰の強さは人の前で聖書知識をひけらかせることではありません。こんなに言葉巧みに美しく祈れると自慢することで、証明されるわけでもありません。本当に信仰的に強められた人とは、主により頼み、神の武具を身にまとって、人間ではなく、人間を誘惑して罪と悪の道に引きずり込もうとする天にいる悪の諸霊、ひいてはその頭であるサタン(悪魔)との戦いで一歩も引かない人だというのです。常々聖書を通読して、必要な御言葉が必要なときに用いられるくらい暗証して、悪の力、誘惑に打ち勝つ人を、強められた信仰の人だということなのです。

 さらにもう一つ、強められた信仰の模範が証されています。コリントの信徒への手紙二13:3b−4(p.341)をご覧下さい。

「キリストはあなたがたに対しては弱い方ではなく、あなたがたの間で強い方です。キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。」

 

 今、わたしたちは主日礼拝の中で、使徒言行録から神のメッセージに触れることを許されていますが、これは確かに主の恵み豊かな導きです。なぜなら、わたしたちは福音書からイエス・キリストのご降誕、教え、不思議な御業、十字架、そして復活・昇天と言うように、地上に残して行かれたキリストの足跡を辿ることができましたが、この使徒言行録には、御霊なるキリストが今も生きておられること、聖霊を通して人々を救いに引き上げて、主の宮であるキリストを頭とする教会を建て上げる務めにつかせておられることが証されているのです。今もキリストは、聖霊を通して教会の中で先頭を切って働いておられるのです。その大いなる神の時という霊的な歴史の中に、わたしたち仙川キリスト教会は、主の日毎に、生き生きとした神の臨在の力に触れることが許されているのです。一層「信仰を強めて」頂きましょう。  祈ります。

 

天の父なる神さま。あなたの御名を崇(あが)め、讃美します。

 小アジアの諸教会は、パウロとその同労者の祈りと導きによって、信仰が強められ、日ごとに人数が増えていったということです。あなたを純粋に信じ、互いの喜びを我が喜びと分かち合い、見えざる聖霊の働きに支えられ、御言葉に養われ、あなたの助けを祈り願う群れに、見えざる敵である悪の諸霊は手出しできませんでした。

 主よ、どうぞこの仙川キリスト教会の愛する一人ひとりの上にも聖霊の助けをお願いします。この世は悪しき者のはかりごとが余りにも顕著です。だからこそ、この群れは聖書と祈りによってあなたのお支えを必要としています。いいえ、この人たちだけが守られることをもって良しとはしません。どうか、この群れの信仰を強めてくださって、地域社会に救い主を証する言葉と愛と情熱をお与えください。

 わたしたちの救い主イエス・キリストの御名によって。アーメン。


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