【主日礼拝メッセージ要約】                               2007年1月21日   

 

聖霊に委ねて 」 

  使徒言行録16章6-10節

高橋淑郎牧師

 

 教会に与えられた宣教という使命を果たすためには献身的な教会員、クリスチャンと呼ばれる人々の努力だけで足りるものではありません。聖霊の干渉と導きが必要です。わたしたちの生活は時に、人間的な熱心の余り脱線してしまうことがあります。一生懸命が勝ちすぎて神の御心から遠いところで空回りしていることがあります。もしかして、パウロたちも時に熱心と努力の空回りというか、人間的情熱を優先させるような伝道計画を練っていた時に、聖霊によってその企てを禁じられ、イエスの御霊に行く手を阻まれたのではないでしょうか。神がこの世を救うために抱いておられるご計画は人間の熱心、人間の情熱を超えるものがあります。

 教会に「リバイバル」が必要だとよく言われます。「リバイバル」とは、「信仰復興」と訳すのだそうです。しかし、ある人は教会に信仰復興が必要であることを認めながら、同時に、「リバイブル」、聖書に還り、聖書に聴くことを忘れてはならないと言います。

 昔、わたしが学んだ神学校で、定例祈祷会が始まろうとしたある日、校長が墨痕も鮮やかな一枚の紙を私たちに見せました。それは詩編の一節です。

  「汝らしづまりて 我の神たるをしれ もろもろの國のうちに崇められ 全地にあがめらるべし」(詩編46:10。文語訳聖書)

 そして校長は言われました。「皆さんが熱心に学び、祈りを熱くしていることは校長として大変嬉しいことです。しかし、そんなに大声を張り上げて祈らなくても神は聴いてくださいます。過度の熱心は、時として神と人の前に傲慢になる危険があります。」と。

 確かに、神のヴィジョンは静かなうちにも聖書に聴き、心こもった祈りの中で示されるものです。そしてそのヴィジョンの実現のために、共に働いて下さるのは聖霊であって、わたしたちの努力や熱心の賜物ではないのです。皆さん個人個人の生活も同じです。自分の計画を優先させることに心が占められていると、神が分からなくなります。まず静まって誰がわたしの人生の導き手、主人であるかを思い返しましょう。聖霊なるイエス・キリストだけが教会を健全にし、あなたの人生を豊かに祝福して下さる唯一の神です。

 

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 【主日礼拝メッセージ】                               2007年1月21日   

聖霊に委ねて 」 

  使徒言行録16章6-10節

高橋淑郎牧師

 

 パウロは、小アジア東側の町々にある諸教会を巡り歩いてエルサレム会議の決定事項を伝え、また教え導きました。そこから以前にはできなかった西側の町々に開拓伝道を計画しました。しかし、この計画は聖霊によって禁じられましたから、方向を変えて小アジア北部のビティニアを伝道しようとしましたが、この計画もまたイエスの御霊、すなわち聖霊によって禁じられました。残るはミシア地方にあるトロアスの町のみです。それはパウロの本意ではなかったでしょう。その先にあるものは地中海だからです。トロアスで伝道したその後は、海に向かって伝道しろと言われるのでしょうか。聖霊の導きとあれば従うのみですが、神はどうして当時アジア州第一の都市エフェソへの伝道計画を阻止されるのか分からなかったに違いありません。

 しかし、神はパウロの思いを超えたもっと大いなる伝道計画をお持ちでした。聖書の中で、人は時折夢の中で神の御心を教えられています。旧約聖書創世記を読んでいると、ヨセフという人物は幼いときから夢の中で神のご計画を示されています。新約聖書マタイを読みますと、イエス・キリストの母マリアの夫として選ばれたヨセフもまたマリアに対する受胎告知の事実を夢で知らされました。そのイエス・キリストの降誕を祝い、クリスマスに駆けつけた東方の博士たちもその帰り道のコースを夢で示されてヘロデの毒牙から守られています。このように人間の思いを超えた方法で神のご計画を示されることを聖書は「幻」と読んでいます。パウロもまたこの夜示された幻は夢を通してではないでしょうか。

 「幻」と言う文字について漢和辞典を見ますと、小さいという意味を持つ「糸」の下の部分の「小」という文字を省くことによって、なお小さいと言う意味を持ち、それだけで「いと」と読めるそうですが、これに機(はた)織りの横糸を通す道具を逆さにした形の文字をつけて、「幻(げん)」、あるいは「幻(まぼろし)」と読ませます。そしてその意味としては、「惑わす」とか、「実在しないものがあるように見えるもの」だというのです。

 では、パウロの見た幻は、本当に覚めるとたちまち消え行く儚いもの、「実在しないものがあるように見えた」だけのものだったのでしょうか。いいえ、違います。それははっきりとしていました。一見してマケドニア人と分かる人がパウロの前に現われて、「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください。」と、パウロに願いました。ある人は、このパウロの前に現れたマケドニア人こそ使徒言行録の著者ルカではないかと推理を立てますが、それは根拠のない想像の域を出ません。なぜなら、10節を注意して見ていただきたいのですが、6節とは異なる書き方をしています。というのは、これまで、「彼らは・・・」というように、三人称複数で書いていたものが、10節からは、「わたしたちは・・・。」と、もはや著者もパウロの伝道旅行の一員として加えられていることが分かります。ルカは既にどこかでパウロと出会い、イエス・キリストの救いに与っていました。それだけではなく、伝道旅行の仲間入りをするほどに、神に自分を献げていたことが分かります。パウロはこの幻を示されたとき、これこそ今まで再三にわたって伝道計画の修正をしてこられた聖霊の、新たな宣教計画としての御心と確信しましたので、直ちに出発しました。

 先ほどは日本語の幻という文字の成り立ちと、その意味を漢和辞典から学びましたが、今度は聖書の「幻」について、学んでおきましょう。この箇所で「幻」とか、「ヴィジョン」と訳されているギリシャ語は、「ホルマ」という単語が用いられています。そしてこれは新約聖書の中で色々な時に用いられています。例えば、マタイによる福音書17:9の、「今見たこと」の、「こと」のギリシャ語もホルマで、イエス・キリストが高い山でモーセとエリヤと会見しておられたあの光景を指します。また使徒言行録7:31の、「この光景」の「光景」もホルマというギリシャ語が用いられています。モーセが燃えているのに燃え尽きない「柴」を見たときのことです。日本人が考える「幻」と違う点は、「実在しないのに、実在するかのように思い込む幻想」ではなく、神が神の僕にお示しになる御業のための目標そのものであるということです。

 マタイによる福音書17:9で弟子たちに示された幻は、イエス・キリストの十字架を予告していました。全人類が神の怒りから救われる唯一の道としてはっきり示された目印であり、約束のヴィジョン、それが十字架であるとイエス・キリストご自身の示しになった幻だったのです。また、使徒言行録7:31の、「この光景」、すなわち燃え尽きない柴の幻は、神の救いは無限であり、永遠であるという約束のしるしなのです。

 このように、聖書がわたしたちに伝える幻とは、明確に実在する確かな神の目標であり、約束を伴ったしるしです。2千年前にはまだ新約聖書が完成していませんでしたから、旧約聖書を通して、時に応じて聖霊が彼らに直接語りかけることがしばしばでした。

 今日も神は聖書を通してわたしたちの救いの為に、また隣人の救いのため、教会に対して明確な幻を示してくださっています。昨年夏の教会キャンプでは、神が教会に示しておられるビジョンを共有するときをもつプログラムが与えられましたが、日ごろ聖書に馴染み、聖書を通して神の御心を祈り求める者には、いつ誰に証を求められても、「神は聖書を通して、この教会のためにかくかくしかじか道をお示しになっている。わたしはそのために一層主に仕える者となりたい。」というように、公に証することができるでしょう。

 パウロが示された「幻」の出来事を通して今ひとつ教えられることがあります。それは、教会とは何かということです。教会とはチームプレイを第一にしながら伝道する群れです。マタイによる福音書10章を見てください。ルカによる福音書10章を見てください。イエス・キリストは弟子たちを伝道の野に遣わすにあたって、二人一組にして送り出されました。これは、一人が誰かに福音を語っている間、もう一人がその伝道が祝されるようにと祈るためです。決して仲間の勤務評定をするためではありません。このように祈りと証の分担が成立することによって、神から託された仕事を全うすることができるのです。今この使徒言行録16章においても、パウロとシラスの見事なチームワークを保ちながら、救霊の為に全てを献げている姿に、いつしかルカの心も燃え立つものを感じ始めました。そうなると、もはや、「彼ら」(6−9節)ではなく、自分も献身してこの聖なる事業に携わる一人とされたいということから、「わたしたち」となっていくのでした。

 けれども、教会に与えられた宣教という使命を果たすためには献身的な教会員、クリスチャンと呼ばれる人々の努力だけで足りるものではありません。聖霊の干渉と導きが必要です。わたしたちは時に、人間的な熱心の余り脱線してしまうことがあります。一生懸命が勝ちすぎて神の御心から遠いところで空回りしていることがあります。もしかして、パウロたちも時に熱心と努力の空回りというか、人間的情熱を優先させるような伝道計画を練っていた時に、聖霊によってその企てを禁じられ、イエスの御霊に行く手を阻まれたのではないでしょうか。神がこの世を救うために抱いておられるご計画は人間の熱心、人間の情熱を超えるものがあります。

 教会に「リバイバル」が必要だとよく言われます。「リバイバル」とは、「信仰復興」と訳すのだそうです。しかし、ある人は教会に信仰復興が必要であることを認めながら、同時に、「リバイブル」、聖書に還り、聖書に聴くことを忘れてはならないと言います。

 わたしが学んだ神学校も他の学校と同様に、聖書と祈りの大切さを徹底的に叩き込む学び舎でした。その教えを忠実に実行しようと、生徒たちもまた熱心でした。ところがある火曜日の学内定例祈祷会が始まろうとしたとき、校長が墨痕(ぼっこん)鮮やかな一枚の紙をわたしたちに見せました。それは詩編の一節でした。新共同訳聖書ですと、「力を捨てよ、知れ わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる。」(詩編46:11)ですが、校長が書かれたのは文語訳聖書でした。

  「汝らしづまりて 我の神たるをしれ もろもろの國のうちに崇められ 全地にあがめらるべし」(詩編46:10)

 そして校長は言われました。「皆さんが熱心に学び、祈りを熱くしていることは校長として大変嬉しいことです。しかし、そんなに大声を張り上げて祈らなくても神は聴いてくださいます。過度の熱心は、時として神と人の前に傲慢になる危険があります。」と。

 神のヴィジョンは静かなうちにも聖書に聴き、心こもった祈りの中で示されるものです。そしてそのヴィジョンの実現のために、共に働いてくださるのは聖霊であって、わたしたちの努力や熱心の賜物ではないのです。皆さん個人個人の生活も同じです。自分の計画を優先させることに心が占められていると、神が分からなくなります。まず静まって誰があなたの人生の導き手であるか、主人であるかを思い返しましょう。聖霊なるイエス・キリストだけが教会を健全にし、あなたの人生を豊かに祝福して下さる唯一の神です。

最後に聖書の言葉をご紹介します。

 「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行なわせておられるのは神であるからです。」(フィリピの信徒への手紙2:13)  

祈りましょう。

 

天の父なる神さま。あなたの御名を崇(あが)め、讃美します。

 今日は使徒パウロとその仲間がいよいよヨーロッパ伝道への第一歩を踏み出そうとするに至った経緯(いきさつ)を学びました。しかし、それは初めからパウロの予定に入っていたことではありませんでした。パウロは全く異なる計画を持ち、別の道を歩くつもりでした。しかし、彼らはことごとくその行く手を聖霊によって阻まれたとき、つぶやかず、反抗することもしないで、一切を主の導きに従いました。聖霊に委ねました。そのとき、神さまは彼らの思いに優る福音宣教の道を開き示してくださいました。

 2006年度も残すところ2ヶ月少々となりました。この10ヶ月の間、わたしたち一人ひとりがあなたの御言葉のままに誤りなく過ごすことができましたでしょうか。どうにか今日まですごすことができましたのは、全て御霊なる主イエス・キリストと父なる神の慈愛の賜物と深く感謝申し上げます。

 私たちはこの後、2006年度1月教会総会を開こうとしています。主よ、どうかこの総会を聖霊の支配で満たしてください。2007年度、私たち仙川キリスト教会が進もうとしている道が正しいかどうか、あなたが一つひとつの議題にかかわってお導き下さい。この一年のために必要な宣教方針をお示しください。そして一致して歩める聖霊の指先を見させてください。人間の思いではなく、あなたのみ心のままに執事を、また会計監査委員をお選びください。

わたしたちの救い主イエス・キリストの御名によって。アーメン。

 


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