【主日礼拝メッセージ要約】 2007年1月28日
高橋淑郎牧師
今日の箇所から私たちは礼拝を献げることの意味を学ぶことができます。礼拝は義務感やお勤めのような思いでは、決して心に満足が得られません。礼拝は魂の渇きを潤してくれるのです。魂が渇くと、心がささくれ立って、人間関係を円滑にすることもできません。言葉も振舞いもとげとげしくなります。心が疲れ、人間関係に疲れると、思いもよらない罪に走ってしまうものです。それは適度な運動や趣味の会で解消できません。ボランティアに参加すれば、少しは優しい人間になれるかというと、そういうものでもありません。心が疲れたと思う時、それは内なる魂が神に対してSOS(Save Our Souls)を発信しているのだと思い起こしてください。魂の渇きは神の霊の助けなしには癒されません。礼拝は実にあなたの魂に憩いと平安を与えてくれる唯一の場なのです。イエス・キリストは言われました。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)と。
もう一つ、今日の箇所から、魂の平安をいつまでも保ち続ける秘訣を発見します。それは、救われたリディアがパウロたち一行に語りかけた言葉です。「私が主を信じる者だとお思いでしたら、どうぞ、私の家に来てお泊りください。」と。聖書に、「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。」(ヘブライ13:2)とありますが、リディアは誰に教えられたわけでもなく、これを実行しました。特に信仰を同じくする人との交わりを大切にするという点でこの教えはわたしたちの信仰生活に有益です。わたしたちクリスチャンと呼ばれる者であっても、日常の生活に疲れを覚えるだけでなく、教会生活にさえ疲れを覚えることがあります。どうしてでしょうか。それは恐らく信仰の友との信仰の交わりを面倒に思える時です。初めて会堂の入り口に立った時の感激。初めて聖書を手にしたあの感動。何よりも生まれて初めてイエス・キリストを信じますと告白したあの瞬間を、救われてバプテスマを受けたあの喜びを思い起こしましょう。そうすれば自分ひとりのために、なんと多くの友が祈っていてくれたか、愛してくれていたかを思い出せるでしょう。
高橋淑郎牧師
今 日は、ヨーロッパに始めて福音宣教の道が開かれ、フィリピ教会誕生の発露となったリディアという女性の身に起こった歴史的な救いの出来事を学びましょう。
パウロとその一行はトロアスの港から船に乗り、エーゲ海に浮かぶサモトラケ島を経由して、翌日ネアポリスの港に着きました。そのまま内陸部にあるマケドニア州第一区の町フィリピを訪ねました。この町は当時ローマの植民都市となっていましたが、その昔(紀元前4世紀)、アレキサンダー大王の父フィリップの名前にあやかってつけられた大都市の一つです。安息日までの数日間、パウロとその一行はユダヤ人の礼拝所である会堂(シナゴーグ)を探し回ったのでしょうが、異邦人に比べてユダヤ人の数は圧倒的に少なかったようで、ついに見つけることができませんでした。しかし会堂はなくても川岸で小さな集まりが持たれていることを知って、彼らは安息日にそこへ出かけて行きました。そこには少数ながら祈りと讃美のために集まっている女性の一団がありました。パウロたちはその集まりの中に入り、共に礼拝をささげることにしました。当時女性たちは御言葉の取次ぎをするよりも、聴くことを第一とするように教えられていましたから、パウロたちがその役割を引き受けることになりました。
集まっていた女性たちの中にリディアという女性がいました。ティアティラ市出身で紫布の商いをしている人です。ティアティラ市は小アジアにある都市で、紫布の生産地として有名でした。この布は悪鬼貝という貝から僅かに採取できる染料で染め上げた、非常に高価なものです。もちろんこれを身に着けることができるのは王侯貴族という限られた身分の人でした。今から2千年も昔のこと、男性優位の時代に夫を差し置いて妻が商取引の先頭に立つことは考えられないことです。きっと夫に先立たれてやむなく事業を引き継いだのでしょう。しかし、リディアは家族を養うために、金儲け一筋に血道をあげるという人ではありません。ユダヤ人女性と交際するうちに、安息日ごとに彼女たちの集まりに顔を出すようになりました。そして今、聖書の神、特にイエス・キリストがどういうお方であるかを語り伝えるパウロの話に、彼女の心は惹きつけられていきました。詩編42:2にこういう祈りの歌があります。
- 「涸れた谷に鹿が水を求めるように
- 神よ、わたしの魂はあなたを求める。」
そうです。パウロの取り次ぐ神からのメッセージに心が吸い寄せられたのは、彼女自身気付かない間に彼女の心の奥深くにある魂が渇いていたのです。涸れてしまった谷に、それでも一滴の水が残されていないかと慕い求める野生の鹿のように、彼女もまた心の奥深くに渇きを覚え、魂の平安、救いを求めていたのです。そして今、パウロの取り次ぐ神の御言葉に彼女の魂は癒され、満たされました。恐らくパウロの取り次いだメッセージは次のようなものであったでしょう。
このマケドニアの国にも神々と呼ばれるものが数多くあるが、それらはみな人の手で作ったもの、偽りの神であること、むしろ、天と地とその中に住む全ての生き物、山も川も海も陸も、太陽もきらきら夜空に輝く星も月も全てを造ったお方は、聖書の神、ヤハウェと呼ばれるただ一人の神であること、やがて神がお造りになった人類の始祖アダムは蛇に身をやつしたサタンの誘惑に負けて、罪に堕ち、神のみ前から追放されてしまったこと。それ以来アダムの子孫である全人類は罪の性質、即ち原罪を負う者とされたこと。罪の性質は国と国、人と人とが争う世界、殺人、人種差別、性差別、環境破壊、盗み、偽り、貪り、暴飲暴食、性的堕落からくる不品行など、さまざまな問題を絶え間なく引き起こしていること。
聖と義の神はこの現状を深く悲しみ、すぐにでも人類を裁き、この世を滅ぼしてしまうこともできるのですが、同時に愛と憐れみに満ちておられる神は、その独り子イエス・キリストをこの世に遣わして、全ての人の罪を彼に負わせ、十字架の上で贖いの死を遂げさせ、三日目に復活してくださったこと。
だから全ての人はこのメッセージを聴いて罪を悔い改めて神に立ち返り、イエスをキリスト、真の王である神、救い主と信じてバプテスマを受けるべきこと。
やがて終わりの日、イエス・キリストを信じる者は永遠の命のみ国に、信じない者は終わりなき苦しみの待つ地獄へ追放されると語り聴かせたものと思われます。
だから、リディアとその家族、或いは使用人も含めて直ちにバプテスマを受けました。
今日の箇所から私たちは礼拝をささげることの意味を学ぶことができます。礼拝は義務感やお勤めのような思いでは、決して心に満足が得られるものではありません。礼拝は魂の渇きを潤してくれるものです。わたしたちの魂が渇いていますと、心がささくれ立って、人間関係を円滑にすることはできません。言葉も振舞いもとげとげしくなります。心が疲れ、人間関係に疲れると、思いもよらない罪に走ってしまうものです。それは適度な運動や趣味の会で解消できるものではありません。ボランティアに参加すれば、少しは優しい人間になれるかというとそういうものでもありません。気晴らしでボランティア活動を始めたのでは、相手が迷惑します。精神的に疲れを自覚することは善いことですが、本当はわたしたち一人一人のもっと深いところにある魂が飢え、渇いているのだということに気づかなければならないのです。心が疲れたと思うとき、それは本当は内なる魂が神に対してSOS(Save Our Souls)を発信しているのだと思い起こしてください。魂の渇きは神の霊の助けなしには癒されません。礼拝は実にあなたの魂に憩いと平安を与えてくれる唯一の場なのです。イエス・キリストは言われました。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)と。
最後にもう一つ、今日の箇所から、魂の平安をひと時のものとしてではなく、いつまでも保ち続ける秘訣を見出せます。それは、救われたリディアがパウロたち一行に語りかけた言葉です。「私が主を信じる者だとお思いでしたら、どうぞ、私の家に来てお泊りください。」と。聖書に、「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。」(ヘブライ13:2)という教えがありますが、リディアは誰に教えられたわけでもなく、これを実行しました。特に信仰を同じくする人との交わりを大切にするという点でこの教えはわたしたちの信仰生活に有益です。わたしたちクリスチャンと呼ばれる者であっても、日常の生活に疲れを覚えるだけでなく、教会生活にさえ疲れを覚えることがあります。どうしてでしょうか。それは恐らく信仰の友との信仰の交わりを面倒に思える時です。主は言われます。「初めの愛に立ち返れ。」(ヨハネの黙示録2:4)と。初めて教会の入り口を入ってきた時の感激を忘れないで下さい。初めて聖書を手にしたときの感動を思い出してください。何よりも生まれて初めてイエス・キリストを信じますと告白したあの瞬間を、救われてバプテスマを受けたあの喜びを。そうすれば自分ひとりのために、なんと多くの友が祈っていてくれたか、愛してくれていたかを思い出せることでしょう。あなたの内にあるものが再び燃え立つ秘訣は信仰の友を退けないことです。信仰の交わりを忘れないことです。そうすれば嘆きは神への讃美に、つぶやきは友への感謝に変えられるのです。
祈りましょう。
天の父なる神さま。あなたの御名を崇(あが)め、讃美します。
今日はリディアという女性の救いの出来事を通して、あなたの大いなる御業を見させていただきました。
あのリディアがそうであったように、わたしたちは日々、いろいろな出来事のために心が疲れ果ててしまっています。しかし、あなたは今日わたしたちに教えてくださいました。心の疲れはあなたの救いを必要としている魂の叫びであったということを。使徒ペトロは、あなたに向かって、「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命を持っておられます。」と言いました。主よ、わたしたちも今あなたに向かって叫びます。「わたしたちはだれのところへ行きましょうか。」と。あなたのほかにわたしの幸いはありません。あなたのほかに真の安らぎはありません。どうか、これからも私たちを礼拝へとお導きください。
わたしたちの救い主イエス・キリストの御名によって。アーメン。