【主日礼拝メッセージ要約】 2007年3月18日
高橋淑郎牧師
この聖書の箇所から、ギリシャ人が求める「新しさ」と、神が常に備えておられる「新しさ」の違いについて皆さんにお伝えしておかなければなりません。ギリシャ人に限らず、今に生きる日本人もまた、常に新しいものに憧れ、それによる刺激を求める人が少なくありません。皆が皆、「流行」というバスに乗り遅れまいと、一生懸命です。しかし、聖書は言います。
- 「太陽の下、新しいものは何ひとつない。見よ、これこそ新しい、と言ってみても それもまた永遠の昔からあり この時代の前にもあった。」
- (コヘレトの言葉1:9−10)
歴史は繰り返すと言いますが、「今年はこれが流行します。」と言う人がいても、年数長く生きている人から見ると、それははるか何年も前にあったものではないかということがあります。たとえ文字どおり新しいものが目の前に現われても、人々に注目され、騒がれ、関心を集めるのはほんの僅かな期間で、一時すれば、それも色あせて、見向きもされないようになることでしょう。確かに聖書は真理です。太陽の下では、本当に、「新しい」と言えるものなど何ひとつないのです。
そうです。本当に新しいものは神の御許から来るのです。神のみ前にあるものは、日々新しくされるのです。いつまでもすたることのないもの、かび臭くならないもの、それは神の愛であり、救いの恵みです。だからパウロはこの新しい教えをぜひとも伝えないではいられません(22節以降)。それは、イエス・キリストの十字架の死と復活によって全ての人にもたらされる救いの恵みであり、永遠の命なのです。この教えほど、日々に新しい教えはありません。それは初めて聴く人には新鮮な驚きとなり、既に救われたわたしたちにとっては、新たな感謝と讃美の歌となるのです(詩96,98編)。
この世の基準で新しい古いを競う必要はありません。
「だから、キリストと結ばれている人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(コリント5:17)
高橋淑郎牧師
非常に祝されたと見えたベレア伝道も、テサロニケから追いかけてきたユダヤ人の妨害で、パウロはまたしてもこの町から出て行かなければなりませんでした。兄弟たちは幾人かの付添い人をつけて、パウロを海岸の地方へ送り出しました。行き先はベレアから更に東へ320km離れたアテネの町です。付き添ってくれた人々とはここで別れますが、別れ際に、シラスとテモテになるべく早く来るようにと言伝を忘れません。シラスとテモテがベレアに残ったのは、生まれたばかりのテサロニケやベレアの教会が信仰的に自立できるようにと、教会の基礎造りをするためであったでしょう。
さて、アテネに到着したパウロは二人を待ちながら、この町を見て回ることにしました。この町がどのような町か、どういう切り口から伝道をすべきか、実地調査のためであったかも知れません。しかし、しばらく歩いている内に、パウロの心は次第に憤りを感じました。この町はわたしたちの国で言えば、さながら奈良か京都に見られる神社・仏閣のように、異教の神々で溢れていたからです。この町の人々をこそ何とか救いに導かなければならないと考えたパウロは時を移さず、ユダヤ人の会堂をはじめ、人々が集まっている所ならどこにでも出かけて行って福音を宣べ伝えるのでした。伝道のために忙しく駆け回るパウロの姿は広場に集まっているエピクロス派やストア派という数人の哲学者たちの目にも留まりました。
この人たちについてごく簡単に言うと、エピクロス派とは迷信的な神信仰や死の恐怖からの解放を求める「快楽主義者」です。快楽といっても、今日のように、欲望を満たすという意味ではなく、苦痛や心を乱す情熱、また死の恐怖や迷信から免れて静かな人生を送るということです。
またストア派とは、汎神論者で(神は宇宙にあまねく内在するという考え方)、理性に従って禁欲生活を目指す人たちでした。
パウロがこの二大学派と何を論じ合ったのか、その内容は分かりませんが、彼らがパウロから受けた印象は、「何とよくしゃべる男か」というものでした。ここに書かれている「おしゃべり」(ギリシャ語:スペルモロゴス)とは、鳥が植物の種を啄(ついば)む仕草の形容で、つまらないことを際限なくしゃべり続ける人という意味です。そんなにつまらない話しをする人なら、そのまま別れても良さそうなものですが、「何を言いたいのだろうか」と、なおも耳を傾けようとしています。聴く耳を持つということは良いことです。しかし彼らが引き続きパウロの話を聴きたがっているのは(19、21節)、パウロの話から何かを学び取ろうというよりも、新し物好きが、外国人パウロから何か珍しい話を聴き出したいという好奇心によるものでした。
パウロはどうも、「イエス」と「復活」という二人の神について話しているらしいというのです。日本人の私たちにはギリシャ人がどうしてこんな聞き違いをしたのか分かりにくいことですが、ギリシャ語のせいです。「復活」のギリシャ語は「アナスタシス」と言いますが、これがギリシャ人の耳には聞きなれない女神のことと考えたようです。パウロは「復活のイエス」を語っていますが、聞くギリシャ人の方は、「イエス」という男神と「アナスタシス」という女神の話をしているのだと、勝手に解釈していたのです。これはいかにも珍しい話、新しい教えだ。もう少し詳しく聞かせてほしいということになったのです。
こういう聞き違いは誰にでもあることです。第二次大戦後間もなく、宣教師たちが大挙して日本にやってきて、町々村々で伝道集会を開いては、たどたどしい日本語で聖書の話をしました。ある宣教師は、ヨハネ3章に登場するイエスさまとニコデモという学者の対話について話しましたが、ニコデモという発音がよほど苦手だったと見えて、繰り返し、「ネコデモ」と発音したものですから、聖書の話を初めて聴いた人は、「猫でもイエスと話ができたのか。」と不思議に思っていましたが、最後に、「ネコデモはイエスさまに救われましたでしょう。あなたはどうですか」というのを聴いて一層驚いたということです。
また、こんな話もあります。「人はパンだけで生きるものではない。」という聖書の話を聴いたあるお年寄りが、それに続く、「神の口から出る一つ一つ言葉で生きる。」という聖書の言葉はもう耳に入らず、「それはそうだ、パンではお腹の足しにならない。やはりお米でないとねえ。」と感想を漏らしたということです。
このように、人は聖書の言葉を、またそれを取り次ぐメッセージを一度や二度耳に聞いただけでは正しく理解することはできません。だから繰り返してじっくりと聴く必要があるのです。その意味でわたしはこのギリシャ人たちの姿勢に教えられるのです。「もう少し聴いてみよう。」という姿勢です。そこで、パウロはこれを神から与えられた証の機会として、彼らが求める「新しい教え」、すなわち復活されたイエス・キリストの福音を正しく聴かせよう、そして信じる者になってほしいと、熱心に宣べ伝えます。
ここで、ギリシャ人が求める「新しさ」と、神が常に備えておられる「新しさ」の違いについて皆さんにお伝えしておかなければなりません。ここに見るギリシャ人に限らず、今の日本人もまた、常に新しいものに憧れ、それによる刺激を求める人が少なくありません。ファッションでも、思想でも流行というバスに乗り遅れまいと、皆一生懸命です。しかし、聖書は言います。
- 「太陽の下、新しいものは何ひとつない。見よ、これこそ新しい、と言ってみても それもまた永遠の昔からあり この時代の前にもあった。」
- (コヘレトの言葉1:9−10)
歴史は繰り返すと言いますが、「今年はこれが流行します。」と言う人がいても、年数長く生きている人から見ると、それははるか何年も前にあったものではないかということがあります。たとえ言葉どおりに新しいものが目の前に現われても、人々に注目され、騒がれ、関心を集めるのはほんの僅かな期間で、一時すれば、それも色あせて、見向きもされないようになることでしょう。確かに聖書は真理です。太陽の下では、本当に、「新しい」と言えるものなど何ひとつないのです。
そうです。本当に新しいものは神の御許から来るのです。神のみ前にあるものは、日々新しくされるのです。いつまでもすたることのないもの、かび臭くならないもの、それは神の愛であり、救いの恵みです。だからパウロはこの新しい教えをぜひとも伝えないではいられません(22節以降)。それは、イエス・キリストの十字架の死と復活によって全ての人にもたらされる救いの恵みであり、永遠の命なのです。この教えほど、日々に新しい教えはありません。それは初めて聴く人には新鮮な驚きとなり、既に救われたわたしたちにとっては、新たな感謝と讃美の歌となるのです(詩96,98編)。
20年ほど昔のことです。ある日、求道中の若いお母さんがと小さな子どもさんを連れて牧師館を訪ねてきました。話が終わって妻と4人で近くの公園に行こうということになりました。桜は満開です。足元で美しい草花が心を和ませてくれました。夕方になって、そろそろ帰りましょうという時になって、彼女の子どもがわたしの服の裾を掴んでひとこと言いました。「おじいちゃんとお家に帰る」と。当時わたしは40代半ばで、自分ではまだ若いつもりでしたが、既に髪の毛には白いものが混じり始めていましたから、幼い子どもの目にはおじいちゃんと映っていたのです。ショックでした。
しかし、子どもから何と言われようが、わたしを慰めてくれる聖書があります。「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。」(コリント4:16)という御言葉です。この世でどんなに歳をとっても、神のみ前には日々新たにしていただけるのです。この世の基準で新しい古いを競う必要はありません。「だから、キリストと結ばれている人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(コリント5:17)
この世にこれに優る新しい教えがあるでしょうか。しかもこの教えは、口先だけのものではありません。パウロ自身、このように言っているではありませんか。「十字架の言葉は、滅んでいく者には愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。・・・世は自分の知恵で神を知ることはできませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで、神は宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうが、ギリシャ人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」(气Rリント1:18,21−25)
このように、永遠の神がイエス・キリストを信じ、受け入れ、従う者を日々新しい者として創造してくださるというのですから。何と感謝すべき教えでしょうか。 祈りましょう。
天の父なる神さま。あなたの御名を崇(あが)め、讃美します。
使徒パウロは学問の都アテネで、その最高学府に学び、また講義のできる人々を前にして、彼らが求めるままに新しい教えを与えました。それは、この世の知恵を用いてこの世の論法で教えたものではありませんでした。まさに神の導きのままに、「宣教の愚かさという手段」で十字架の言葉、イエス・キリストの死と甦りの御業を宣べ伝え、神の救いの道を教え導きました。
天のお父さま、今、あなたのみ前にある一人びとりの心の目を開かせてください。霊の耳を開かせてください。わたしたちが救われる道は、十字架に死んで甦られたイエス・キリストを信じるほかないという、この永遠に新しい真理を受け入れる者としてください。
わたしたちの救い主イエス・キリストの御名によって。アーメン。