【グッドフライデー礼拝メッセージ要約】                                   2007年4月6日   

「 イエスの叫び  

マルコによる福音書15章33-41節

高橋淑郎牧師

  

三時間に及ぶ闇の中、十字架のイエスは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という悲痛な叫びを発せられました。

父なる神はそこにおられるのに沈黙して答えて下さらないのです。「罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた」方の祈りです(ヘブル4:15)。その後、イエスは何かもう一言大声を出して、息を引き取られました。

すると、「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け」ました。神が和解の手を差し伸べてくださったので、人はもはや動物の犠牲を携えることなく、罪の赦しの道が開かれました。イエス・キリストという神の犠牲の小羊が全人類の罪の身代わりとなって下さったので、もはや過去に犯した一切の罪は問われないということです。神殿の幕を人間の手で引き裂くなら、下からでなければできません。これは神ご自身によらなければ不可能です。すなわち、神は御子の十字架を悲しみながらも、御子の命を代価として、罪と死と闇の支配者であるサタンのかしらを打ち砕き、全人類の罪を赦し、誰であっても直接神の御許に近寄る道が開かれたのです。

誰でも十字架の主イエスを罪からの救い主と信じて、それを口にするなら、神の和解を受けることができるのです。あなたも今、「本当に、この人は神の子であった」と口に言い表して、神を讃美するなら、救われます。今、この方を信じ、受け入れる人はいませんか。

 

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 【グッドフライデー礼拝メッセージ】                                   2007年4月6日   

「 イエスの叫び  

マルコによる福音書15章33-41節

高橋淑郎牧師

 

今から2千年以上も前の今日、ユダヤの首都エルサレムからそう遠くない丘の上に三本の十字架が立てられました。その丘は特別な時以外、誰も近寄らない丘で、名前をゴルゴダと言います。日本語にすると「されこうべの丘」と呼ばれています。そこは刑場なのです。

三本の十字架の真ん中にはわたしたちの主イエス・キリストが、両側には犯罪人が処刑されています。先日の主の日には十字架の下でイエス・キリストをあざけり、ののしる声の中、終始沈黙を守っておられたキリストについて学びましたが、今日は、息を引き取る直前、イエス・キリストが発せられた大きな叫び声に注目しましょう。

先ず、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。)」という叫びです。神に見捨てられた神の子の叫びです。全地が3時間に及んで暗くなった後の最も悲痛な祈りであり、叫びです。その直後再び光が戻ってきました。四福音書をまとめてみると、主イエスは朝の9時から午後3時に息を引き取るまでの間、十字架の上で苦しい息の下から七つの言葉を発しておられます。その内三つは父なる神に対する祈りの言葉です。マルコが書いている「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」はそのひとつです。

それにしてもあの3時間の暗黒にはどういう意味があったのでしょうか。以前にもお話したことがありますが、父なる神が十字架をご覧になったとき、憎むべきサタンが勝ち誇ったように十字架にとぐろ巻いている姿に思わず御顔を背けられたので、太陽さえもその輝きを失ってしまった。それがあの3時間の暗闇ではなかったかと解説している人がいます。

み子イエス・キリストはその時、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という悲痛な叫びを発せられたのです。しかし、それは地獄に落とされる者の絶望的な叫びではありません。これこそ御父に対する信頼の叫びです。これは詩22編2節からの引用ですが、主イエスは、あの詩編の言葉を忠実に引用しておられます。彼はあの闇の中で、天の御父に対して、「わが神」と呼びかけておられるのです。神はいないのではなく、沈黙して答えてくださらないだけなのです。

わが子が大きな苦しみを負っている時、その親は子を愛する愛が大きければ大きいほど、苦しむわが子の姿をまともに見ていることができないのです。「ああ、代われるものなら代わってやりたい。いったいこの子が何をしたというのか、この子を苦しめている原因となっているものが憎い。」と、思わず顔を背けてしまうことがあります。しかし、子どもの方は親が顔を背けていることに耐えられません。「お父さん、こっち向いて。ひとりにしないで」と泣きじゃくるのです。ここはそういう意味ではないでしょうか。

御子イエスの目には天の父が見えているのです。そこにおられるのに沈黙して何も答えて下さらない。それでもなおゆるぎない信頼で、激しい叫びと涙とをもって祈られました。しかも「父よ」と祈らず、「わが神」と祈られたのです。「罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた」方の祈りです(ヘブル4:15)。

幾人かのユダヤ人たちは、昔の偉大な預言者、エリヤの名を呼んでいるのだと勘違いして言い合っている中、イエスは何かもう一言大声で叫び、そして息を引き取られました。「すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け」ました。これはどういう意味でしょうか。神が和解の手を差し伸べてくださったということです。人はもはや動物の犠牲を携えることなく、罪の赦しの道が開かれたということです。イエス・キリストという神の小羊が全人類の罪の身代わりとなってくださったので、もはや過去に犯した一切の罪は問われないということです。

当時ローマ帝国の中で、最も恐れられていたのは勿論皇帝ですが、次に恐れられていたのは百人隊長であったと言われています。彼らは皇帝の命令があれば、貴族の前にも近づき王命を告げて、彼らを刑場へと引き出し、刑を執行する権限が与えられていました。ですから、人は百人隊長を黄泉の世界への案内人と言い、彼らの背中から死人のにおいがすると恐れられていました。これまで多くの刑に立会い、執行し、死刑囚の最期を見届けてきたこの百人隊長が、これまでと違うものを、十字架に付けられたイエス・キリストから感じ取ったのです。それが、「本当に、この人は神の子だった。」という告白です。もはや百人隊長の目にイエス・キリストは処刑されて当たり前の数多い死刑囚の一人ではなく、死なせてはならなかった「神の御子」だったのです。ルカ23:47を見てください。そこには、「『本当に、この人は正しい人だった。』と言って神を讃美した。」と証言されています。恐らくこの百人隊長はこの後、イエス・キリストを神の子、キリストと信じるひとりに加えられたことでしょう。そうでなければ、わざわざこの人の言葉を二人の福音書記者が書き残しはしなかったはずです。

神殿の幕が上から引き裂かれたことに注意してください。人間の手で引き裂くなら、下からでなければできません。これは神ご自身によらなければ不可能です。すなわち、神は御子の十字架を悲しみながらも、御子の命を代価として、罪と死と闇の支配者であるサタンのかしらを打ち砕き、全人類の罪を赦し、誰であっても祭司の手を借りずに直接神の御許に近寄る道を開いてくださったということです。

主イエス・キリストを十字架につけたユダヤ人も、神を知らない異邦人も、誰でも十字架の主イエスを罪からの救い主と信じて、それを口にするなら、神の和解を受けることができるのです。

あなたも今、「本当に、この人は神の子であった」と口に言い表して、神を讃美するなら、救われます。今、この方を信じ、受け入れる人はいませんか。   

祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたの御名を心から崇めます。

わたしたちの罪のために、あなたの独り子イエス・キリストを十字架に引き渡してくださったあなたの深いご愛を感謝します。いいえ、こんな言葉では足りないほど、あなたの愛は深く、広く、高く、大きいものでした。十字架上の苦しみはわたしたち想像もつきませんが、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という、あの十字架上の悲痛な叫びに、全てが込められていることを知りました。

もし、あの日、御子が十字架に死んでくださらなかったら、わたしたちこそ、終わりの日にあの叫びを発することでしょう。なぜなら、わたしたちの罪は解決されていないままだからです。あなたのお赦しを頂かないで、あなたの和解を受けないで、どうしてわたしたちは人生を全うしてと言えましょうか。言い尽くせない賜物のゆえに、あなたに感謝します。

わたしたちの救い主イエス・キリストの尊い御名によって。アーメン。

 


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