【主日礼拝メッセージ要約】                                   2007年4月22日   

「 出会い  

マルコによる福音書18章1-4節

高橋淑郎牧師

  

 アキラ・プリスキラ夫妻とパウロが出会ったのはコリントの町でした。それぞれ事情があって、心にいささか傷を負っていました。しかし、神はこのような時だからこそ彼らを出会わせて下さったのだと言えます。パウロは同じ信仰に立ち、共に祈る友との出会いこそ、神から賜った恵みのときと確信できました。だから、彼の方から二人の住いを訪ねて行き、生活を共にすることを通して、実は祈りを共にできました。アキラ夫妻にとっても、パウロとの出会いは、人の思いを超えた主イエス・キリストの導きであったこと、神が遣わされたパウロを通して、更に一歩主に近づけられたという深い慰めと喜びを与えられたのです。

 パウロはその後、安息日ごとに会堂で礼拝をささげ、そこでまた新しい出会いを求めています。その礼拝には当然アキラ・プリスキラ夫妻も伴っていたことでしょう。彼らはパウロの伝道姿勢、また聖書理解、その説き明しを聞いて、信仰生活のイロハをもう一度学ぶ機会となりました。それだけではありません。自分たちの心の傷を癒してくださった主イエスこそ、もっと深い傷をあの十字架の上で負いながら、何も分からない罪びとのわたしたちに、救いと命を賜ったことを改めて学び知ったに違いありません。

 ということは、パウロとアキラ・プリスキラ夫妻の出会いは、本当は、全ての全てである主イエス・キリストの父なる神との出会いを思い起こすための導きであったのです。

 わたしたちもまた色々な所で、人との出会いの機会が与えられます。けれどもその出会いをただの偶然と考えている間は、真実な交わりはできません。どんな人との出会いも偶然ではないのです。それは主なる神の導きによるものであると心に留めなければなりません。主なる神の導きによる出会いであるなら、その人との交わりは、御言葉によって深められ、清められ、そして終生のものとして頂くことができるのです。

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 【主日礼拝メッセージ】                                   2007年4月22日   

「 出会い  

マルコによる福音書18章1-4節

高橋淑郎牧師

 

 使徒パウロはアテネ伝道に区切りを付けて、陸続きにある大都市コリントにやってきました。奇しくもこの町で、同じくキリストを信じる人々で、その後パウロの伝道活動に大きな支え手となるアキラ・プリスキラというユダヤ人夫妻と出会いました。彼らはローマの皇帝クラウディウスによるユダヤ人追放令のために、ローマからコリントにやってきたのです。

 信頼できる資料によると、クラウディウスが全ユダヤ人をローマ市内から追放する命令を出したのは、皇帝のお膝元であるローマ市内でユダヤ教徒とキリスト者との間でしばしば暴動が起こっていたので、業を煮やした皇帝が治安維持の意味から、この際全てのユダヤ人を追放してしまえ、ということになったというのです。争いの原因は分かっていました。キリスト者の熱心な伝道が面白くないユダヤ人が、キリスト者の集会に押し入って、力づくで止めさせようとしたためです。しかし、皇帝としては、だからと言って両者を呼び出して公平に裁こうなどという気はありません。また、追放されて行った先でユダヤ教徒とキリスト者の間の暴動が再燃しても知ったことではないのです。とにかく彼らが自分の目の届かないところに行ってくれさえすれば良かったのです。

 そういう事情でアキラとプリスキラ夫妻は、ローマを追われてコリントにやってきましたが、ここでパウロと出会う機会を得ました。彼らはいくつもの点で共通するものがあり、たちまち意気投合しました。同じ民族、同じ職業、そして何よりも彼らの心を結びつけたのは同じ信仰でした。それにしてもパウロの職業が天幕造りであったというのは不思議です。彼について使徒言行録の著者がわたしたちに伝えていたプロフィールとしては、熱心なユダヤ教徒の家に生まれ、幼くして当代随一の律法学者ガマリエルの門下で学んだエリート中のエリートだということ、そして激しい勢いでキリスト教会を迫害していたけれども、復活のキリストに出会ってキリスト者とされ、人も恐れるユダヤ教律法学者のサウロからキリストの使徒パウロへとその名も変えられ、以後熱心な異邦人伝道者とされて小アジアからヨーロッパにかけてキリストの教会をいくつも建て上げてきたということでした。しかし、この箇所で彼は日常、「天幕作り」の技術を生かして自給伝道をしていたことが分かります。

 余談になりますが、最近手に入れた資料によると、主イエスを訪ねたことのあるニコデモという国会議員であり、イスラエルの教師(今で言う神学校の校長? ヨハネによる福音書3章)は井戸掘りが職業であったということです。当事ラビと呼ばれる律法の教師たちは具体的にはどのような生活をしていたか詳しくは分かりませんが、国会議員もラビも基本的には無給で、特にひとことでラビと言っても、会堂長であったり、聖書朗読者であったりというように、何人ものスタッフがいたようで、そこに集まる会衆による十分の一献金を分け合って生活をしていましたが、当然十分ではありませんでしたから、生計を維持するためには親から仕込まれた職業で自活していたというのです。

 ましてやパウロの場合は、時にサポートしてくれる教会がないわけではありませんが、町々村々、また国から国へと渡り歩く伝道のかたわら天幕造りで自給伝道していました。しかし、需要がなければ開店休業の日もあったでしょうから、懐の温かい時もあれば、一文無しの時もあったと考えられます。しかし、パウロはいつでも前向きのキリスト者でしたから、フィリピの教会に宛てた手紙の中で「(わたしは)貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。」(フィリピ4:12)と書き送ることができたのです。

 片やアキラ・プリスキラ夫妻はユダヤ教徒とキリスト教会の紛争を嫌うローマ政府から出された一方的な命令のためにローマを追われ、一方パウロはこれまでフィリピ、テサロニケ、ベレアではユダヤ人の激しい抵抗と迫害に身を曝(さら)しながらも伝道の成果は著しく、次々と教会が生まれていきました。しかしアテネでは迫害がなかった代わりに、少数の人がイエスを信じたものの、パウロ自身少し気落ちしている部分が感じられます(コリントの信徒への手紙一 2:2−3)。

 彼らがコリントで出会ったのは、それぞれ事情があってのことでした。どちらも心にいささかの傷を負っていました。しかしこうも考えられないでしょうか。神は、このような時だからこそ彼らを出会わせて下さったのだということを。パウロは同じ信仰に立ち、共に祈る友との出会いこそ、神から賜った恵みのときと確信できました。だから、彼の方から二人の住いを訪ねて行き、生活を共にすることを通して、実は祈りを共にできるのです。アキラ夫妻にとっても、パウロとの出会いこそ、人の思いを超えた主イエス・キリストの導きそのもであったこと、神が遣わされたパウロを通して、更に一歩主に近づけられたという深い慰めと喜びを与えられたのです。パウロは後日コリントの教会に宛てた手紙の中で、神がコリントに導かれた理由を次のように書き送っています。

 「優れた言葉や知識ではなく、イエス・キリスト、それも十字架に付けられたキリスト以外、何も知る必要はない」(コリントの信徒への手紙一 2:1−2)と。

 

 パウロはその後、安息日ごとに会堂で礼拝をささげ、そこでまた新しい出会いを求めています。その礼拝には当然アキラ・プリスキラ夫妻も伴っていたことでしょう。彼らはパウロの伝道姿勢、また聖書理解、その説き明しを聞いて、信仰生活のイロハをもう一度学ぶ機会となりました。更に、自分たちの心の傷を癒してくださった主イエスこそ、もっと深い傷をあの十字架の上で負いながら、何も分からない罪びとのわたしたちに、救いと命を賜ったことを改めて学び知ったに違いありません。ということは、パウロとアキラ・プリスキラ夫妻の出会いは、本当は、全ての全てである主イエス・キリストの父なる神との出会いを思い起こすための導きであったのです。

 

 わたしたちもまた色々な所で、人との出会いの機会が与えられます。けれどもその出会いをただの偶然と考えている間は、真実な交わりはできません。どんな人との出会いも偶然ではないのです。それは主なる神の導きによるものであると心に留めなければなりません。主なる神の導きによる出会いであるなら、その人との交わりは、御言葉によって深められ、清められ、そして終生のものとして頂くことができるのです。  祈りましょう。

 

天の父なる神さま。あなたの御名を崇(あが)め、讃美します。

 使徒パウロとアキラ・プリスキラ夫妻との出会いは実に不思議なものでした。この出会いによって、彼らの心は慰められたばかりでなく、あなたの御心とご計画を学ばせる機会として下さいました。 

 彼らはそれぞれ、コリントに来るまで、痛みを引きずっていました。傷を負っていました。十字架を負わされていました。しかし、その経験を通して、もっと深い傷を負い、命まで捨てるほどに苦しまれたイエス・キリストとの出会いの機会としてくださったのです。

 どうか、わたしたちにもこのような清い出会いの機会を与えてください。そして、十字架と復活のキリストにこそ出会わせてください。

 わたしたちの救い主イエス・キリストの御名によって。アーメン。


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