【主日礼拝メッセージ要約】 2007年4月29日
高橋淑郎牧師
閉ざされた心の人には神の愛も、イエス・キリストによる救いの福音もなかなか届かないものです。ユダヤ人たちは、ただ反抗するだけでなく、聞くに堪えない激しい言葉でパウロのメッセージをやめさせようとしました。しかしパウロは挫けたりしません。「わたしには責任がない。」と反論しました。そうです。メッセージを取り次ぐ者の責任は、聖書の言葉に忠実さにかかっています。もしその確信があるなら、聞き手がどう反応するかについて責任はないのです。主イエスも言われました。「聞く耳のある者は聞きなさい。」(マルコ4:9)と。全ての人は、御言葉を聞いた以上、聞いたことに対する応答の自由と責任があります。反抗して口汚くののしるも自由です。心を軟らかくしてメッセージに耳を傾け、主イエス・キリストを信じて受け入れるも自由です。
今、この礼拝にお集まりの皆さん、あなたはどうしますか。イエス・キリストを拒みますか。それとも罪を悔い改めてイエスを救い主キリストと信じてバプテスマを受ける決心ができたでしょうか。
さて、パウロは「恐れるな、語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いる。」という幻を示されます。
ありがたくも嬉しい幻です。パウロはこれまでも十分に勇気を奮いました。恐れはありません。しかしこの幻は、パウロに更なる勇気を与えました。神がパウロと共におられるという保証です。今までのメッセージを語り続けてよいのです。今はまだ生まれたばかりのコリント教会です。そこに集められた人の数は、町全体から見れば、微々たるものです。しかし、神はすでに見通しておられます。この町にはわたしの民が大勢いる、と。だから黙っていないで語り続けよと神は言われます。
希望の源である神は、わたしたちの現状に決して失望しておられません。わたしたちも信じましょう。神が共におられることを。この中原の町に神の民が大勢いることを。だから、恐れず、黙らず、語り続けましょう。
高橋淑郎牧師
ベレアで別れたままになっていたテモテとシラス(17:15)がようやく、使徒パウロの待つコリントにやってきました。テモテたちとの嬉しい再会は、パウロに大きな勇気をもたらしてくれました。彼はその時の喜びを次のように言い表しています。
「テモテがそちらからわたしたちのもとに今帰って来て、あなたがたの信仰と愛について、うれしい知らせを伝えてくれました。・・・」(气eサロニケ3:6)と。
余談になりますが、その中で、「テモテが今帰ってきて・・・」と言っていることから、パウロは喜びのあまり、その場ですぐに手紙を書き送ったようです。それがテサロニケの信徒への手紙一のことです。この手紙は、新約聖書27巻の中で最も早く書かれたことが分かります。紀元51年頃のことです。パウロはここに1年半滞在して(11節)、翌年の52年にはテサロニケの信徒への手紙二を書いています。このようにテモテがもたらした知らせによって、パウロとテサロニケの教会の関係がますます緊密になって行きました。
更に嬉しいことは、マケドニア州(フィリピ)の教会から、伝道活動のための支援金を預かってきてくれたことです。これで当分は天幕造りをしなくても伝道に専念できます。使徒パウロは早速会堂で、「十字架に死んで甦られたイエス・キリストこそ、あなたがたが長く待ち望んでいたメシアである。」と力強く証をしました。しかし、コリント在住のユダヤ人は思った以上に心が固く閉ざされています。パウロに反抗し、口汚くののしってメッセージに耳を貸しません。閉ざされた心の人には神の愛も、イエス・キリストによる救いの福音もなかなか届かないものです。ユダヤ人たちは、ただ反抗するだけでなく、口汚くののしったというのです。聞くに堪えない激しい言葉でパウロのメッセージをやめさせようとしたのです。ユダヤ人たちは無宗教の人ではありません。彼らは先祖代々大切にしてきた聖書信仰に生きていました。自分たちこそ正当な信仰者である。自分たちこそ神に熱心な者であると自負していましたから、パウロの告げるメッセージに心を開いて、謙って学ぼうとしないのです。だから彼らの口から出た「ののしり」は、無宗教の人たちの口から出るような単純なものではなかったでしょう。あたかもパウロの聖書の読み方も、また取り次ぐメッセージも、全てが間違っているかのように、またパウロのメッセージが、地獄への道案内でもあるかのようなののしり方だったのではないでしょうか。
しかしパウロは彼らの反攻やののしりの言葉に挫けたりしません。「あなたたちの血はあなたたちの頭に降りかかれ。わたしには責任がない。」と反論しました。そうなのです。メッセージを取り次ぐ者の責任は、神が語らせる聖書の言葉に忠実であるかどうかということにあります。神の御言に余計な混ぜ物をしてはいないか。時代に迎合して、また人々の気に入るように、神の御言から何かを差し引いたりしていないか、ということにおいて責任はありますが、もしそれらのことについて確信があるなら、聞き手がどう反応するかについて責任はないのです。主イエスも言われました。「聞く耳のある者は聞きなさい。」(マルコ4:9)と。
全ての人は、御言葉を聞いた以上、聞いたことに対する応答の自由と責任があるのです。反抗するも自由です。口汚くののしるも自由です。しかし、心を軟らかくしてメッセージに耳を傾け、主イエス・キリストを信じて受け入れるのも自由です。そのような人は実に幸いなのです。今、この礼拝にお集まりの皆さん、あなたはどうしますか。イエス・キリストを拒みますか。それとも今あなたの罪を悔い改めてイエスを救い主キリストと信じてバプテスマを受ける決心ができたでしょうか。
今日、神さまがわたしたちに語られている二つのメッセージは次の通りです。パウロは激しい言葉で反抗するユダヤ人の見ている前で、抗議のしるしに、服の塵を払い落としました。主イエスは反抗する人たちに対して抗議のしるしとして、足の塵を払い落として、そこを出なさい(マタイ10:14,ルカ9:5)、と言われたことがありますが、パウロは足の塵ではなく、服の塵を振り払いました。分かりやすい抗議の仕方です。「今後、わたしは異邦人の方へ行く。」と言ったその言葉にうそはありません。この日以後、パウロはこのコリント滞在中、一度もユダヤ人の会堂で御言葉を語ってはいないのです。では、どこで御言葉を取り次いだのでしょうか。回心して神を崇める者とされたティティオ・ユストという人の家が新しい集会場になりました。メッセージを聴いて罪を悔い改め、イエスを救い主キリストと信じてバプテスマを受けたのは彼だけではありません。会堂長クリスポも一家を挙げて主を信じましたし、この町の多くの人たちも、続々とその後に続きました。便利なことに新しい集会場は会堂の隣にありましたから、安息日に歩く距離として定められている律法の規定に反する心配もありません。
さて、こんなに祝福されたその日の夜、パウロは一つの幻を示されます。「恐れるな、語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」と。
ありがたく、また嬉しい幻です。パウロはこれまでも十分に勇気を奮いましたし、恐れてなどいません。黙ってはいません。語り続けました。しかし、神ご自身からこのような約束の言葉を頂けるとは、何と心強いことでしょうか。「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。」(气ハネ4:18)と言われているように、神への愛、救いを求める人々への愛に燃えているパウロに恐れはありません。しかしこの夜示された幻は、パウロに更なる勇気を与えました。この幻の意味するものは何か。それは神がパウロと共におられるという保証です。服についた埃をはらって会堂を出たこと、これからは異邦人の救いに生涯を献げると言った、あの時の決心は間違っていなかったという確信が強められたのです。イエス・キリスト、またの名をインマヌエル(神は我々と共におられる)と呼ばれる方が、その名の通り、イエス・キリストを信じ、彼に従う者は誰であっても生涯の終りまで、いや永遠に伴ってくださるのです。
もう一つパウロに与えられた約束があります。それは、この町には神の民、イエス・キリストの弟子とされる人が大勢いるという約束です。今はまだ生まれたばかりのコリント教会です。そこに集められた人の数は、町全体から見れば、微々たるものです。しかし、神はすでに見通しておられます。「この町にはわたしの民が大勢いる。」と。これが幻(ヴィジョン)というものです。
希望の源である神は、わたしたちの現状に決して失望しておられません。これはパウロ一人に与えられた幻でしょうか。そうではありません。全てのキリスト教会に与えられている幻であることを疑ってはなりません。礼拝に来る人の数が少ないことを嘆くことはありません。皆さんひとりひとりがもう一人の誰か(火族、友人、知人)を一人連れてきてはどうでしょう。たちまち出席者の数は倍になります。それでもこの町全体の数から見れば微々たるものです。誘われた人が更にもう一人、そしてあなたたちがもう一人連れてくれば、4倍の出席数になるではありませんか。神の愛を、イエス・キリストの救いの恵みを語ることをやめないで下さい。恐れてはなりません。インマヌエルの神は常にあなたと共におられるからです。この町には神の民が大勢いるからです。
神は、神を信じる者と共に、いつもおられるのです。これは、復活の主イエスが、弟子たちを派遣するにあたって与えられた約束です。
「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によってバプテスマを授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終りまで、いつもあなた方と重荷いる。」(マタイ28:19―20)と。
わたしたちも信じましょう。神が共におられることを。この中原の町に神の民が大勢いることを。だから、恐れず、黙らず、語り続けましょう。 祈りましょう。
天の父なる神さま。あなたの御名を崇(あが)め、讃美します。
パウロは、テモテとシラとの再会によって、また彼らがもたらしてくれたテサロニケ教会の成長振りと、フィリピ教会の豊かな愛によって力づけられました。さらに「恐れるな、語り続けよ・・・この町にはわたしの民が大勢いる。」という大いなる神の愛と力強い支えの御手を実感しました。反対する人々は決して少なくありませんでしたが、神の御言葉は生きて、彼と共にあり、彼の心に勇気を与えてくださいました。
主なる神、わたしたちの教会もまだまだ弱く、あなたの導きが必要です。しかし、今朝の御言葉は、わたしたちに与えられたものでもあると信じます。あなたは、「この町にはわたしの民が大勢いる。」と約束してくださっています。感謝します。勇気を出してこれからも宣教に出てまいります。
わたしたちの救い主イエス・キリストの御名によって。アーメン。