【主日礼拝メッセージ要約】 2007年5月13日
高橋淑郎牧師
私たち人間は、神の御心を正しく聴き取ることはなかなかできません。十誡の第三の戒めに、「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかない。」(出エジプト記20:7)という一節があります。何かと言えば、「主の御心だから」という人に対する警告と読み取れます。これが御心と思っても第三者が見たとき、それはその人の強い思いの表れに過ぎない場合があります。ですから、これからのことについて、「主の御心だから」という言い方は軽々しく口にしないで、慎重の上にも慎重であるのが安全です。むしろ、このパウロのように、「主の御心であれば」と、主の導きを待ち望む姿勢が求められているのです。
また反対に、天地創造の主なる神がおられるということを知らず、信じることもしない不信の世の人々に対して、ヤコブという教会の指導者は、「よく聞きなさい。『今日か明日、これこれの町へ行って一年間滞在し、商売をして金もうけをしよう』という人たち、あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです。あなたがたは、わずかの間現われて、やがて消えて行く霧に過ぎません。むしろ、あなたがたは、『主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう』と言うべきである。」(ヤコブの手紙4:13−15)と言っています。
主なる神がわたしたちに、その御心を伝えておられると信じることのできるただ一つの手がかり、それは何といっても聖書です。聖書に裏付けられていない言葉は、決して主から出たものではないことを心に留めておきましょう。もし講壇から語られる言葉が聖書に基づいたものであるなら、それを聴いているあなたは、メッセージを取り次いで語っている者ではなく、語らせている主なる神の御心にこそ、従順でなければなりません。主なる神は言われます。「主はわたしたちの神、わたしたちは主の民 主に養われる群れ、御手の内にある羊。今日こそ、主の声に聴き従わなければならない。・・・心を頑なにしてはならない。」(詩編95:7)
高橋淑郎牧師
今日の聖書箇所に入る前に、先週あえて触れなかったのですが、「ソステネ殴打事件」(16節)のことをお話しておきます。ローマの総督ガリオンはパウロに対するユダヤ人の訴えをけんもほろろに退け、政教分離の原則に立ちました。この点は政治家ガリオンの面目躍如たるものがあり、高く評価できます。しかしその腹いせか、ユダヤ人はこともあろうに、法廷の前で会堂長ソステネに対して乱暴を働きました。ソステネがユダヤ教徒なら、どうしてユダヤ人たちは、会堂長の彼に暴行を働いたのか理解に苦しみます。もし彼がパウロと親しいキリスト者と同一人物であるなら(气Rリント1:1)、パウロに手出しできないユダヤ人たちのソステネに対する八つ当たりです。しかし、ガリオンは見てみぬ振りです。「不正な行為とか、悪質な犯罪とかであるならば、当然諸君の訴えを受理する・・・。」と言ったのはどこの誰だったでしょうか。これはどう見ても不正行為であり、犯罪行為です。ガリオンはそれを目撃しているのですから、現行犯逮捕すべきではありませんか。しかし、総督は、立派なことを口にしながら、行いでそれを否定しています。これが政治家というものでしょうか。そんなことはありません。政治家の中にも清廉潔白な人は沢山おられるはずです。
著者ルカがこの出来事を耳にしたとき、「これは見逃せない問題だ」と記事にしました。神を恐れない権力者の陥りやすい罪をそこに見たからです。一方の事件を見事に裁きながら、そのすぐ後に起った事件を黙認することで、自分に対するユダヤ人の不満を和らげることでバランスをとったつもりでしょうが、こうしたことは総督の立場にある人が絶対にしてはならないことです。それをあえてしてしまったガリオンの姿勢を、神はどのように見ておられるのでしょうか、ルカが記事にしているのはそのことです。
一方、ソステネに暴行を働いたユダヤ人たちの罪は更に深刻です。彼らはガリオンと違ってユダヤ教徒です。聖書の神を畏れ敬い、全知全能の神を愛する人たちなのです。その彼らが自分たちの信仰を否定するような恐ろしい矛盾を抱え込んでいることに全く気がついていません。神を畏れない者の罪と、神を畏れる者の罪は同じではありません。神を畏れると口にしている者の犯す罪こそ深刻なのです。
そして、これは時代を越えて見られる罪、誰もが陥る罪の誘惑なのです。顧みて、あなたのこれまでの生活は神のみ前に恥じないものでしょうか。あなたの思いと言葉と行いに矛盾はなかったでしょうか。神が、使徒言行録の著者ルカにこの出来事を記録させたのは、そうした人々の目を十字架の主イエス・キリストへと向けさせる為でした。実に、「イエスは、あなたのために、十字架に苦しまれたのだよ。」と問いかけているのです。そうです。わたしたちのこうした罪が、今もイエス・キリストを十字架に釘付けたままにしているのです。今、神のみ前に悔改めましょう。
さて、以上のような騒動の後も、しばらくコリントに滞在したパウロですが、いよいよこの第二回伝道旅行に区切りをつけて、シリアへ旅立つことにしました。今度は海路です。船旅も決して安全とは言えませんが、当時としては陸路をとるよりもはるかに早く目的地に到着できました。彼がそんなに急ぐ理由は、シラスとテモテがマケドニアの教会からパウロとエルサレム教会のために預かってきてくれた献金を、一時でも早くエルサレムにいる貧しい信徒たちに届けたいからです(18:5,气eサロニケ3:5)。しかし、神はこの責任の重い旅にも、パウロの為に喜びと慰めを与えて下さいました。プリスキラとアキラ夫妻が同行したので、楽しい船旅となったことでしょう。コリントを出発して最初に停泊した港はケンクレアイです。パウロはここで髪を切りました。ただ散髪をしてすっきりしたかったからではありません。何かの誓いを神に果たせた感謝のしるしだというのです。彼はキリスト者ですが、神から賜った律法(旧約聖書)を無視する人ではありません。これを福音の光に照らしてじっくりと読み取り、神の御心を聴き取り、これに従順であるようにと心がける人でした。彼は律法に従ってナジル人の誓願を立てていたようです。このナジル人の誓願を立てている間は、満願の日までぶどうからできたものを一切口にしてはなりません。勿論ワインもだめです。また、髪の毛を切っても剃ってもならない外に、細かい規定があります(民数記6:1−21)。
今日のクリスチャンも一週の初め、主の日には礼拝で主の御言葉を頂き、霊的にも肉体的にも安息を頂き、慰めを受け、解放されたのですから、ナジル人ほどの誓願でなくても、主の日を霊的安息日として、この世の楽しみごとや嗜好品から自由でいたいものです。
さて、ケンクレアイを出ると、今度の停泊港はエフェソです。この町では会堂でメッセージを取り次ぎ、ユダヤ人たちと話し合いましたが抵抗らしい抵抗もなく、暫くここに滞在してほしいと願うほどの歓迎を受けました。しかし、彼はこの嬉しい申し出に対して、「主の御心ならば、また戻ってきます。」と丁重に断りました。パウロはなぜこのエフェソに留まることを断ったのでしょうか。それには二つの理由が考えられます。
一つは、先ほども言いましたように、マケドニアをはじめ、諸教会から預かった献金を一日でも早くエルサレムの貧しい信徒に届けたかったからです。もう一つは、かつてヨーロッパに足を踏み入れる前、彼はエフェソ伝道を計画していました。しかし、主イエスの御霊が二度までもそれを許しませんでした(使徒言行録16:6−7)。この貴重な経験から、彼は人間の思いではなく、主の御心に従うことを優先すべきであると学んだのです。
私たち人間は、神の御心を正しく聴き取ることはなかなかできません。「御心信者(みこころしんじゃ)」と呼ばれるクリスチャンがいます。十誡の第三の戒めにも、「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかない。」(出エジプト記20:7)という一節があります。何かと言えば、「主の御心だから」という人に対する警告と読み取れます。これが御心と思っても第三者が見たとき、それはその人の強い思いの表れに過ぎない場合があります。ですから、これからのことについて、「主の御心だから」という言い方を軽々しく口にしないで、慎重の上にも慎重であるのが安全です。むしろ、このパウロのように、「主の御心であれば」と、主の導きを待ち望む姿勢が求められているのです。
また反対に、天地創造の主なる神がおられるということを知ることも、信じることもしない不信の世の人々に対して、ヤコブという教会の指導者は、「よく聞きなさい。『今日か明日、これこれの町へ行って一年間滞在し、商売をして金もうけをしよう』という人たち、あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです。あなたがたは、わずかの間現われて、やがて消えて行く霧に過ぎません。むしろ、あなたがたは、『主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう』と言うべきである。」(ヤコブの手紙4:13−15)と言っています。
では、どれが本当に主の御心であるのかを見極めるにはどうしたらよいのでしょうか。神がわたしたちに、主なる神の御心を伝えておられる、と信じることのできるただ一つの手がかりは何でしょうか。それは何といっても聖書です。聖書に裏付けられていない言葉は、決して主なる神から出たものではないことを心に留めておきましょう。礼拝で取り次がれるメッセージが本当に主なる神の御心から出たものであるかを知る道は聖書です。聖書のことは聖書に聴く以外にないからです。もし講壇から語られた言葉が聖書から逸脱したものであったり、聖書を無視したものであるなら、それはもう礼拝メッセージとは言えません。
しかし、もし講壇から語られる言葉が聖書に基づいたものであるなら、それを聴いているあなたは、メッセージを取り次いで語っている者ではなく、語らせている主なる神の御心にこそ従順でなければなりません。主なる神は言われます。
「主はわたしたちの神、わたしたちは主の民 主に養われる群れ、御手の内にある羊。今日こそ、主の声に聴き従わなければならない。・・・心を頑なにしてはならない。」(詩編95:7)
祈りましょう。
天の父なる神さま。あなたの御名を崇(あが)め、讃美します。
パウロは、各地で福音を宣べ伝えましたが、伝道を妨げられてもひるまず、受け入れられても有頂天になる人ではありませんでした。彼の目線がいつも、十字架に死んで甦られた主イエス・キリストに注がれていたからです。主イエスの地上の歩みこそ、真にその模範でした。主イエスこそ、その目はいつも天の父なる神に注がれていました。
天のお父さま、これまで自分勝手な生き方で満足していた罪をお赦しください。いつもどこでも礼拝と祈祷会を通して聖書からあなたの御心を聴き取ることのできる者とし、従う心をお与え下さい。
わたしたちの救い主イエス・キリストの御名によって。アーメン。