【主日礼拝メッセージ要約】                                   2007年6月3日                                                   

御言葉はあまねく 」 

使徒言行録19章8-10節

高橋淑郎牧師

 

 パウロがエフェソの町で語り伝えた福音の内容は、「神の国」でした。「神の国」とは、主イエス・キリストの父なる神の支配を受けること、つまり、神がこの世に賜った御子イエス・キリストを救い主と信じる信仰に立ち返ることによって実現するものですが、それは、このパウロのメッセージを聴いた人たちの心に、一つの葛藤が生じさせました。ユダヤ人にとっては、自分たちが先祖代々大切にしてきたユダヤ教を捨てて、十字架に死んで甦ったという、イエスを主、また神と信じることは、勇気を要することです。

 また、アジア州のほとんど全域で信じられている大女神アルテミスを捨てて、イエス・キリストを真の神、また救い主と信じて従うかどうするか、ということはもの凄い葛藤です。自分の心の中に、今まで朝に夕に拝んでいた神ではなく、新しい神を王として受け入れることは、確かに戦いなのです。

 これは、日本人の私たちにもあてはまることです。それまで神さまと信じていたものではなく、これからは旧・新約聖書を読み、讃美歌を歌い、毎週の日曜日には教会に通って礼拝をささげ、天の父なる神に祈りをささげる生活を中心にするかどうか、という決断を迫られたとき、それは大変な戦いの始まりとなります。しかし、よく考えてみてください。人間が自分の欲望のために、その手で造った神を拝むのと、人間を初め、この森羅万象をお造りになった神を拝むのと、どちらが理にかなったことでしょうか。

 わたしたちクリスチャンも生まれながらにクリスチャンとして、「おぎゃあ!」と生まれてきたのではありません。ある日、家族が、友だちが、行きずりの人が私たちに聖書の言葉を話してくれたおかげで、或いは教会に誘ってくれたので、この世界とその中に住む全てのものを創造された主、全能の神がおられることを知り、信じることができました。考えても見てください。神になりたがる人間は多いのですが、神であるのに人となってこの世界に生まれてくださったのは、救い主イエス・キリストだけだということを。あなたも今、教会に来て、このお方をこそ真の神と信じようではありませんか。

 

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 【主日礼拝メッセージ】                                  2007年6月3日                                                   

御言葉はあまねく 」 

使徒言行録19章8-10節

高橋淑郎牧師

 

 使徒言行録によると、パウロの3回にわたる伝道旅行では、それぞれ大都市を中心に的を絞って伝道している様子が分かります。

第1回伝道旅行ではガラテヤ州を中心に、第2回ではギリシャを中心に、そして、第3回ではエフェソを中心に伝道しています。

パウロが第3回伝道旅行の最重要課題としていたエフェソでの奉仕の第一は1−7節で学びましたように、教会の土台造りでした。聖霊の注ぎを受けた教会は大いに祝福されました。この後もパウロは、安息日ごとに会堂へ出かけて行き、人々に福音を宣べ伝えました。

第二にパウロは、この異教の神々が市民の魂を支配しているエフェソの町で語り伝えた福音の内容は、「神の国」について語ることが宣教の中心でした。「神の国」とは、主イエス・キリストの父なる神の支配を受けること、つまり、神がこの世に賜った御子イエス・キリストを救い主と信じる信仰に立ち返ることによって実現するものですが、パウロでさえ涙なくして実現しなかったほどに、それは容易なことではありませんでした。もう少し具体的に言うと、パウロのメッセージを聴く者の心に、一つの葛藤が生じたからです。ユダヤ人が先祖代々大切にしてきたユダヤ教を捨てて、十字架に死んで甦ったという、イエスを主、また神と信じることは、ユダヤ教に固執する全てのユダヤ人を敵に回すことになるのです。

それだけではありません。この町を初め、アジア州ほとんど全域で信じられている伝統的な宗教、大女神アルテミスを捨てて、イエス・キリストを真の神、また救い主と信じて従うかどうするか、という葛藤です。自分の心の中に、今まで朝に夕に拝んでいた神ではなく、新しい神を王として受け入れることは、確かに戦いです。

これは、日本人にもあてはまることです。天照大神を初め、台所を守る火の神さま、家内安全・商売繁盛の神さまを、その神棚から降ろして、また、阿弥陀さまとお釈迦さまを祭っている仏壇に代えて、聖書通読と、讃美歌を歌うことと、天の父なる神に祈りをささげる生活を中心にするのか、という決断を迫られたとき、それは大変な戦いの始まりとなります。

しかし、パウロとその仲間たちは、そうした激しい抵抗にもかかわらず、2年の間、或いはもう1年かけて3年という、いずれにしても短い滞在期間にもかかわらず、聖霊は彼らを助けて、アジア全域に御言葉を広めてくださいましたから、アジアに住んでいる人々は、ユダヤ人であれ、ギリシャ人であれ、誰もが主の言葉を聴くことになったというのです。それは、他のパウロ書簡で分かることですが、開拓に告ぐ開拓の結果、町々に教会が生まれたということを意味しています。実際、このころにコロサイやヒエラポリス、またラオディキアに教会が誕生しています。ヨハネの黙示録に見られる七つの教会はこのころに生まれたと言えます。

仙川キリスト教会が建てられている所在地は三鷹市です。三鷹市の人口は22万人ほどですから、エフェソ市より少し下回る程度ということになります。わたしはこの教会に赴任して、かれこれ10年になりますが、この10年の間に、いったい何人の人に福音を語り伝えたかと思うと、恥ずかしい限りです。三鷹市はおろか、この中原の町の人々全てに福音を伝えたとは言えません。もっともインタネットのホームページを通して、毎週の礼拝メッセージでもって地球の裏側にまで、福音は届けられていますし、この近辺には毎週、皆さんの手で週報の半分が伝道チラシとして用いられ、届けられていますから、仙川キリスト教会で日曜日ごとに開かれている礼拝の模様とか、礼拝メッセ−ジの概要を一応は知って頂けていることでしょう。しかし、それにしても東京都全域に福音が行き渡るほどの働きはできていません。わたしの努力不足、また力不足を思うとき、パウロの伝道にかける情熱が並大抵のものではなかったことが分かります。

 パウロがいかにこのエフェソに建てられた主の教会を愛していたか、その情熱の一端をご紹介しましょう。第3回伝道旅行の使命も果たし、いよいよエルサレムに向けて帰る船がケンクレアイの港を出て、最初の停泊地であるエフェソの港に着いたとき、パウロはエフェソ教会の長老達をそこに呼び集めて、最後の説教を次のようにしました。

 「アジア州に来た最初の日以来、わたしがあなたがたと共にどのように過ごしてきたかは、よくご存知です。すなわち、自分を全く取るに足りない者と思い、涙を流しながら、また、ユダヤ人の数々の陰謀によってこの身にふりかかってきた試練に遭いながらも、主にお仕えしてきました。役に立つことは一つ残らず、公衆の面前でも方々の家でも、あなたがたに伝え、また教えてきました。神に対する悔い改めと、わたし達の主イエスに対する信仰とを、ユダヤ人にもギリシャ人にも力強く証ししてきたのです。そして今、わたしは、“霊”に促されてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起るか、何も分かりません。ただ、投獄と苦難とがわたしを待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています。しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。・・・だから、わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。」(使徒言行録20:18−31)。

 パウロは3年の間、初めに会堂で、それを妨げられたら、今度はティラノという人の講堂を借りて、また祈りをもってここと定めたところ、どこにでも御言葉を持ち運び、昼となく夜となく、涙を流して語り続けたことによって、アジア州に住む人は御言葉に触れる機会を与えられ、それに伴って教会が生まれました。

 私たちもかつては、あのアジア州の人々と同じでした。福音書を通して主イエス・キリストの御言葉を聴いたとき、それが正しいと分かりながらも、これまで信じていた偽りの神との関係をなお絶ちがたく、葛藤した時期がありました。そうです。わたしたちクリスチャンも生まれながらにクリスチャンとして、「おぎゃあ!」と生まれてきたのではありません。ある日、家族が、友だちが、行きずりの人が私たちに聖書の言葉を話してくれたおかげで、或いは教会に誘ってくれたので、この世界とその中に住む全てのものを創造された主、全能の神がおられることを知り、信じることができました。

旧約聖書の一節をご紹介します。

「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は 束ねた穂を背負い 喜びの歌をうたいながら帰ってくる。」(詩編126:5―6)

 

 教会はあなたのように、まだ神を知らず、イエス・キリストの救いを信じられない人々のところに出て行って、今日も明日も御言葉を持ち運びます。

考えても見てください。神になりたがる人間は多いのですが、神であるのに人となってこの世界に生まれてくださったのは、救い主イエス・キリストだけだということを。あなたも今、教会に来て、このお方をこそ真の神と信じようではありませんか。

 

祈ります。

天の父なる神さま。あなたの御名を崇(あが)め、讃美します。

使徒パウロが昼も夜も涙を流して、まだあなたを知らない人々のもとに命の御言葉を携えて出て行きました。その熱心さは、ただクリスチャンとしての義務感からのものではありませんでした。ひとりでも多くの人が聖書の神を信じてほしい、イエス・キリストに出会い、その救いに与ってほしいと言う愛があればこそその頬をつたい流れた涙なのです。

わたしたち仙川キリスト教会一同も今、同じ思いであなたの御言葉を持ち運んでいます。どうか今日こそ、この礼拝に集められた人全てがあなたのメッセージに触れて、その心が溶かされますように、あなたのみ救いを信じ、受け入れることができますように。

わたしたちの救い主イエス・キリストの御名によって。アーメン。


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