【主日礼拝メッセージ要約】                                   2007年7月8日                                                   

「 神と御言葉にゆだねて 」 

使徒言行録20章13-38節

高橋淑郎牧師

 

 今日でも役員さんを「長老」と呼んでいる教会は少なくありませんが、「長老」とは、昔からユダヤ社会では重要な地位を占める人たちでした。エルサレムの教会には執事がいましたが、パウロは教会の成長をより活発なものにするために、「長老」を置きました。執事をおく教会は、大体合議制で物事が決められてゆきますが、長老制は多少上位下達的な要素を含んでいます。どちらも教会を正すために良い点が沢山あります。教会の成長に欠かせない働き人です。初代キリスト教会が7人の執事を選んだのは、ユダヤ社会を指導していた長老の数に由来しています。長老にせよ、執事にせよ、教会での仕事の内容は変わりません。彼らは、「自分自身と教会のメンバー全体に気を配り、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をするため」に聖霊によって、「神とその恵みの言葉とにゆだねられて」いる人たちです。

 今日私たち仙川キリスト教会でも数は2人足りませんが、教会の総会を通して神に選ばれた「執事」さんがいらっしゃいます。この人たちは、皆さんの霊的なお世話をするために働いてくださっています。この人たちは絶えず、「自分自身と群れ全体とに気を配り」ながら、つまり、自分自身の信仰生活が表面だけのものにならないように常に祈りながら、「神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話」をして下さっているのです。

 わたし達の教会はバプテストという群れです。バプテスト教会の特徴は、徹底的に聖書に聴く群れであり、礼拝と祈り会、そして教会学校を大切にする群れです。そして、ひとりひとりが霊的に自立しているところにあります。牧師や執事の働きに感謝しながら、実は誰もが、「神とその恵みの言葉とにゆだねられた者として祈りの内に、ここから遣わされて、出会う全ての隣人に、神の愛で仕える者」とされているのです。

いかがでしょう。あなたも今日、イエス・キリストをあなたの救い主と信じて、恵みの御言葉に支えられる人生を始めたいとお思いになりませんか。

 

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 【主日礼拝メッセージ】                               2007年7月8日                                                   

「 神と御言葉にゆだねて 」 

使徒言行録20章13-38節

高橋淑郎牧師

 

 トロアスの港から一路エルサレムに向けて船出するはずでしたが、ここでパウロは思うところがあったのでしょう、次の停泊地であるアソスまでおおよそ30kmの道のりを彼一人、陸地を徒歩で行くことにしました。しかし万一、他の仲間を乗せた船がアソスに停泊しないでそのまま航行を続けたら、パウロはミレトスまで延々300km近い道のりを歩き続けて一行を追いかけなければなりません。しかし、パウロはエーゲ海から地中海へと続く海上の気象条件を熟知していたのでしょう。船は必ずアソスの港で停泊することを彼は計算に入れていたのです。なぜならこの地域を夏に航行する船は日没以後は大凪になりますから、帆船ではそれ以上航行することが無理なのです。どうして彼らが夏に航行したと言えるのかと疑問に思われる方は、16節をご覧ください。「パウロは五旬節にはエルサレムに着いていたかったので」とあるように、五旬節というのはイースターから数えて五十日目のことですから、季節は当然夏なのです。しかし、翌朝には早くから船出を促すように北風が吹いてきます。当時の船がどの位の早さであったか分かりませんが、パウロの健脚をもってすれば、十分に追いつけたのでしょう。実際、パウロはアソスで一行が待つ船に乗り込み、そこから先は船上の人となりました。著者は、その先の船のコースについて、ただ、途中停泊した港の名前だけを記録していますが、おかげでこのことも私たちにとっては、パウロの第3回伝道旅行の締めくくりに、どういうコースでティルスの港まで航行したかを知ることができました。しかし、著者にとってはそれ自体に余り重きを置いていません。むしろ、彼が本当に書きたかったのは、ミレトスの港でエフェソ教会の長老たちに語り聞かせたパウロの決別説教です。

 この記録もまた、私たちにとってはありがたいことです。なるほど、使徒言行録の著者ルカが、あのトロアスにおけるパウロのお別れメッセージについて、何も書かなかったわけが分かりました。恐らくこのミレトスの港で語った内容は、あのトロアスで語った内容とほとんど同じものであったと想像できるからです。パウロのメッセージは三つのポイントからなっています。

 第一のポイントは18−21節で、彼がエフェソで働き始めたころの回想です。それはただの苦労話ではありません。自慢話でもありません。前にも申し上げましたが、パウロはこれまでの伝道生活を、決して手柄話にはしない人です。むしろ、「自分を全く取るに足りない者と思い」、独りの人間としての弱さを正直に告白し、涙なしにはできない仕事であったこと、しかし、聖霊がこの一兵卒の自分を用いて、エフェソの町にキリストの教会を建て上げさせてくださったのだと、どこまでも主なるキリストの御業を証して、栄光を主なる神にのみ帰しています。

 

 パウロのメッセージの第二は、22−27節で、現在の心境を述べています。エルサレムに帰って自分を待っているもの。それは投獄と苦難であって、手足を伸ばしてほっと一休みできる場所などどこにも用意されているとは思えないと言います。それでも行くのか、という周囲の声に答えるかのように、「自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証すると言う任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。」と、その決意を述べます。そして、それは自分の英雄気取りや独り善がりからくる決意ではない。この世がその罪を悔改めて救われ、一人も滅びないために、わたしを用いようとしておられる聖霊の促しだから、と言うのです。パウロは同じことをフィリピの信徒への手紙の中でも言っています。すなわち、「これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」(1:20−21)と。

 またパウロは言います。「あなたがたとこの地上ではもう二度とお目にかかることはない。しかし、わたしには思い残すことは何一つない。伝えるべきものを伝えきったし、語るべきことを語り尽くしたという確信があるから。」と。

 

そして第三に、今日のために与えられた最も重要なメッセージですが、それは28−35節です。パウロにとって特に気がかりなことは、エフェソ教会のこれからです。「残忍な狼ども」とは、これまでもパウロを追い回すように宣教を妨げてきたユダヤ人たちのことでしょう。加えて福音に耳を貸さない異邦人も入り込んで教会を荒らしまわるかもしれません。しかし、教会を荒らす勢力は外部の人たちに限りません。教会内部に誤った聖書解釈と勢力争いで教会を分裂させようとする人たちの出現です。パウロがここに言う、「わたしが去った後」というのは、多分殉教した後のことを言っているのでしょう。生きていれば、何か問題が起っても手紙や訪問によって、その都度指導してあげることもできますが、天に召された後では不可能です。そこでパウロは言います。しかし、そのような不安は、彼の脳中からすぐに払拭されました。「神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。」(32節)と。

 今日でも役員さんを「長老」と呼んでいる教会は少なくありませんが、「長老」とは、昔からユダヤ社会では重要な地位を占める人たちでした。エルサレムの教会には執事がいましたが、パウロは教会の成長をより活発なものにするために、「長老」を置きました。執事をおく教会は、大体合議制で物事が決められてゆきますが、長老制は多少上位下達的な要素を含んでいます。どちらも教会を正すために良い点が沢山あります。教会の成長に欠かせない働き人です。初代キリスト教会が7人の執事を選んだのは、ユダヤ社会を指導していた長老の数に由来しています。長老にせよ、執事にせよ、教会での仕事の内容は変わりません。彼らは、「自分自身と教会のメンバー全体に気を配り、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をするため」に聖霊によって、「神とその恵みの言葉とにゆだねられて」いる人たちです。

 今日私たち仙川キリスト教会でも数は2人足りませんが、教会の総会を通して神に選ばれた「執事」さんがいらっしゃいます。この人たちは、皆さんの霊的なお世話をするために働いてくださっています。この人たちは絶えず、「自分自身と群れ全体とに気を配り」ながら、つまり、自分自身の信仰生活が表面だけのものにならないように常に祈りながら、「神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話」をして下さっているのです。

 わたし達の教会はバプテストという群れです。バプテスト教会の特徴は、徹底的に聖書に聴く群れであり、礼拝と祈り会、そして教会学校を大切にする群れです。そして、ひとりひとりが霊的に自立しているところにあります。牧師や執事の働きに感謝しながら、実は誰もが、「神とその恵みの言葉とにゆだねられた者として祈りの内に、ここから遣わされて、出会う全ての隣人に、神の愛で仕える者」とされているのです。

いかがでしょう。あなたも今日、イエス・キリストをあなたの救い主と信じて、恵みの御言葉に支えられる人生を始めたいとお思いになりませんか。

 祈ります。

天の父なる神さま。あなたの御名を崇(あが)め、讃美します。

 使徒パウロは、エフェソ教会の長老たちに最後のメッセージをしました。教会の人たちは、パウロがもう二度と会えないだろうと言うのを聞いて、非常な悲しみに包まれました。その場の情景が目に浮かびます。パウロと長老達の関係がそれほど密度の濃いものであったことに、私たちも感動しないでおれません。しかし、この書の著者ルカは、いいえ、主なる神は、私たちをそうしたヒューマニズムにいつまでも浸っていることを許しません。主なる神であるあなたが、このエフェソの教会が、更に祝福の内に成長するために、この教会の役員たちに期待しておられるものが何であるかを思い起こさせることでした。それはパウロとエフェソの関係が御言を柱として豊かにされていたように、彼らとエフェソの教会との関係も主にあって、豊かにされることでした。パウロはそのために、「神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねる。」と言いました。

 天のお父さま、今朝、あなたのみ前に呼び集められたこの教会の愛する人たちもまた、互いの関係をあなたとあなたの恵みの御言葉によって一層清められ、深められますように。この御言葉にしっかりと立って、教会を訪れる人たちのお世話に献身するものとならせてください。

わたしたちの救い主イエス・キリストの御名によって。アーメン。

 


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