【主日礼拝メッセージ要約】                                   2007年7月15日                                                   

ひざまずいて祈る」 

使徒言行録21章1-6節

高橋淑郎牧師

 

私たちはこの聖書テキストから二つの大切なメッセージを学ぶことができます。

第一に、使徒パウロは、居心地のよいティルスの交わりから身を引いて、あえて危険なエルサレムへの道を選択しました。それは主イエスの模範に倣おうとしたためです。主イエスは山上の説教を終えた後、問題の多い巷に下って、恵みの御業に徹せられました。また高い山で垣間見た栄光の主イエス・キリストが、その聖い場を退いて、罪に汚れた人々の救いを成就するために、その山を降り、あえて十字架への道を歩まれました(マタイ5−7章、8章。17:1−)。

私たちもこの主に倣って、気心の知れた少数の仲間内だけの交わりを喜び、満足するのではなく、時にはその暖かな交わりから離れて、まだ教会の交わりから遠く、厳しい戦いを強いられている世の人々を求めて探し出す、愛の奉仕が求められているのではないでしょうか。

第二に、私たちがつい見落としがちな聖書箇所ですが、パウロを見送りに来た人々は、いよいよ別れ際に、ひざまずいて祈りました。砂浜ですから、足にそれほど負担はかからないとは言え、ひざまずいて祈るというようなことは、私たちの生活の中では余り見られない光景です。私たちだけではありません。ユダヤ人の祈りの姿勢としても珍しいことでした。モーセや預言者たち、旧約聖書に登場する人たちのほとんどは立ち上がり、両手を一杯に上げて、天の神に向かって祈るのが普通でした(出エジプト記17:11−、詩編63:5,141:2、哀歌2:19)。しかし、後の時代には立ち上がって手を上げて祈る、この祈り方も次第に形式的になった、と聖書は警告しています(哀歌3:40−41、マタイ6:5−6)。形だけ手を上げても、心が伴っていなければ、神はそれを祈りとは認めてくださらないのです。神に受け入れられる祈りは、人を意識したパフォーマンスではなく、神にこそ聴いて頂きたいというひたむきな心、偽りが入り込む余地のない真心です。

 

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 【主日礼拝メッセージ】   

  ひざまずいて祈る」 

使徒言行録20章1-6節

高橋淑郎牧師

 

 パウロ一向を乗せた船は、ミレトスを出港してコス島からロドス島を経由して、小アジア最後の港パタラに着きましたが、ここから先はフェニキアまでかなりの長距離になるので、大型船に乗り換えたのでしょう。この船はキプロスには寄らず、南回りでシリアのティルスに直行しました。この港で船は荷物の陸揚げをするために、しばらくは足止めです。しかし、パウロはこのようなときにも決して時間を無駄にしません。出港までの七日間、この大都市にステファノの事件をきっかけに散らされた信者たち〈11:19〉が移り住んでいましたから、その人たちを求めて探し回りました。今日のように、教会員名簿などなかったでしょうし、町の角々に住居表示があったとも思えません。何を手がかりにしたのかわかりませんが、とにかくパウロとその一向は、ようやく「探し当て」ました。祈りと熱心と愛の勝利です。信仰の仲間と会えた彼らの喜びは、いかばかりだったでしょう。一週間はあっという間に過ぎました。ティルスの信徒たちは別れを惜しみ、家族揃ってカイサリア行きの船が係留している港まで送ってきて、波打ち際でひざまずいて祈り、そして見送ってくれました。この出来事を通して私たちは今朝、パウロとティルスの信徒達との交わりを通して、二つの大切なメッセージを学ぶことができます。

 第一に、主イエスにある交わりの意味を学ぶことができます。

 ティルスに住むキリスト者たちは、パウロとその仲間を七日の間、それぞれ自分の家に迎え入れました。多分分宿させたと思われます。彼らはパウロとその仲間と信仰の分かち合いをし、讃美を歌い、互いに救いの証を語り、また聴く機会が与えられ、引き続きパウロから聖書の解き明かしを聴く幸いな時も与えられたことでしょう。そうした中に、霊感の鋭い信者がいて、パウロに、エルサレムへ行かないようにと忠告しました。それも一度や二度ではなく、顔を見るたびに「わたしは聖霊によって示されたことですが、あなたを迫害する人たちがエルサレムで待ち受けているということです。そんな恐ろしい所へわざわざ行かなくても良いではありませんか。ここにいてわたしたちの信仰を導いてください。」と繰り返し言ったのでしょう。しかし、パウロの決意は固く、ただ前進あるのみです。

 思えばマタイによる福音書5−7章のことですが、長閑(のどか)な山の中腹で、集まってきた弟子たちや群衆に囲まれて多くの教えを説きながら、平和なときを過ごしておられたイエス・キリストですが、8章ではその山を下り、あえてさまざまな問題を抱えている巷に身を置き、苦難の道を歩まれたお姿と重なります。また17:1−13と14節以後でも同じです。高い山にあってイエス・キリストの栄光に満ちた本来のお姿を目撃した弟子たちは、そこにそのまま居り続けたいと願いましたが、主イエスはあえてその山を下って、俗世間に身を置き、人の子として父なる神に仕え、世に仕えてそのまま十字架への道を突き進んで行かれました。

 

 パウロはこの主に倣って、自分を暖かく迎え入れてくれるこのティルスの町に長く身を置くことは主のみ心ではないと確信して、主イエスが歩まれたように、パウロを待つ、迫害という十字架への道を一歩また一歩と前進し始めたのです。

私たちもこの主に倣って、気心の知れた少数の仲間内だけの交わりを喜び、満足するのではなく、時にはその暖かな交わりから離れて、まだ教会の交わりから遠く、厳しい戦いを強いられている世の人々を求めて探し出す、愛の奉仕が求められているのではないでしょうか。

 

 第二に、「迫害はもとより覚悟の上、それでもエルサレムに行かねばならない」というパウロの固い決意に、人々はそれ以上引き止めることもできず、家族共々町外れまで見送ることにしました。名残は尽きず、パウロたちについて行く内に、いつの間にか出港を待つ船が見える浜辺に来てしまいました。いよいよお別れです。彼らは涙ながらに浜辺にひざまずいて祈り始めました。

彼らはこの時どういう祈りを神にささげたのでしょうか。パウロがこのまま何事もなく安全に使命を果たせるように、と祈ったのでしょうか。パウロもまたこの名もなき少数の信徒たちが大都会ティルスの中でその信仰が埋没することなく、大胆に宣教と教会形成を成し遂げるように。またそのために礼拝と祈りを疎(おろそ)かにすることのないようにと教え、また熱心に祈ったことでしょう。

 私たちがつい見落としてしまいがちなことですが、パウロを見送りに来た人々は、その別れに際して、ひざまずいて祈りました。砂浜ですから、足にそれほど負担はかからないとは言え、ひざまずいて祈るというようなことは、私たちの生活の中では余り見られない光景です。私たちだけでなく、ユダヤ人の祈りの姿勢としても珍しいことでした。モーセや預言者たち、詩編の中に登場する人たちのほとんどは立ち上がって両手を一杯に上げて天の神に向かって祈るのが普通でした。たとえば詩編63:5には、「命のある限り、あなたをたたえ 手を高く上げ、御名によって祈ります。」とあり、また同じ詩篇141:2には、「わたしの祈りを御前に立ち上る香りとし 高く上げた手を 夕べの供え物としてお受けください。」とあります。更に哀歌2:19では、「立て、宵(よい)の初めに。夜を徹して嘆きの声を上げるために。主の御前に出て 水のようにあなたの心を注ぎ出せ。両手を挙げて命乞いをせよ・・・。」と呼びかけています。しかし、後の時代にはこうした祈り方も次第に形式的になったようで、同じ哀歌の詩人は3:40−41で次のように指摘しています。「わたしたちは自らの道を捜し求めて主に立ち帰ろう。天にいます神に向かって 両手を上げ心も挙げて言おう」と。

 確かに両手を挙げて祈る祈り方は、誰の目にもそれと分かり易いし、神への真剣さと熱心さが伝わってきます。しかし、形だけ手を上げても、心が伴っていなければ、人はいざしらず、神はそれを祈りとは認めてくださらないのです。だから主イエスは、「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。」(マタイによる福音書6:5−6)と教えておられます。

 ひざまずいて祈る姿で思い出すのは、ゲッセマネの園で祈られた主イエスです。あの日福音書は、「イエスはうつぶせになって」(マタイ26:39)とか、「地面にひれ伏して」(マルコ14:35)と書いています。うつ伏せになる、地面にひれ伏す、いずれもひざまずかなければ祈れない姿勢です(ルカ22:41)。ティルスの港で見送る人たち、見送られる人たち、どの人たちの心にもゲッセマネの園で祈られた主イエスのみ姿があったことでしょう。それでひざまずき祈ったのではないでしょうか。

パウロと共に、浜辺にひざまずいて祈ったあの集団のように、私たちの祈りも、人を意識する祈りから解放されて、人知れず、ひざまずいて静かに、手と共に心を挙げて、また真剣に、神の御心やいかにと祈り求める者とされましょう。

 

 神に受け入れられる祈りは、人を意識したパフォーマンスではなく、ゲッセマネから十字架へと続く一本道を歩み出された主イエスの贖いを心に留めて、神にこそ聴いて頂きたいというひたむきな心なのですから。 

祈ります。

天の父なる神さま。あなたの御名を崇(あが)め、讃美します。

今日もまた、あなたのメッセージをいただくことができて感謝します。パウロはトロアスでも、ミレトスでも、またこのティルスでも歓迎を受け、麗しい信仰の交わりの中にありました。そうした交わりの中で、人々はエルサレムに行かないでほしい。いつまでもここに留まってほしいと願いました。しかし、彼はそうした暖かな愛の交わりを振り切ってまで、エルサレムに行くことを中止しませんでした。それは、主イエスの模範に倣うことであり、主イエスの歩まれた道を行く唯一の道であるという確信があったからでした。

ティルスの人たちもまた、このパウロの固い決心を受け止めたとき、主イエスが血の滴りにも似た汗を流しながら、ひざまずき、地面にひれ伏して祈られたゲッセマネの園における祈りを思い起こしたのでしょうか、パウロと共にひざまずいて祈りました。

わたしたちは、ここに主にある交わりとは何か。どうすることがあなたに受け入れられる祈りとなるのかを学ぶことができました。あなたとの関係が清められないで、真の交わりが赦されないで、どうして隣人との真の交わりができるでしょうか。

今こそ、私たちをゲッセマネに導いてください。そして、わたしたちのためにその身をあなたが備えられた十字架へと差し出さんとして、ひざまずいて祈られた主イエスに倣う者としてください。

私たちの主イエス・キリストのお名前を通して、この祈りをおささげします。アーメン。

 


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